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怖い話

聴力検査

作者: 夢野かなめ
掲載日:2026/08/21

 ピー……ピー…………キー……キー。


 ヴー……ヴー……。


 目の前の小窓の向こうで、何やらと動く頭が見える。


 それに僅かに気を取られながら、樫崎(かしざき)は音が聞こえる度に手元のスイッチを押した。


 どうにも眩暈が治まらず、訪れた耳鼻咽喉科。


 妙に人気のない待合室に最初は尻込みしたが、紹介サイトでの口コミは良いものが多く、悪いものも気になるような内容でない為に、掛かることとしたのだった。


 周辺にある耳鼻咽喉科は何処か信用が出来なさそうで、他の患者の意見を信じることにした。


 しかし。


 小窓の向こうで、看護師が首を傾げている。


 そして、難しい顔をしたまま、個室の扉を開けた。


「樫崎さん、本当に聞こえてます?」


「え? ……はい」


 看護師は怪訝そうに樫崎のことを見つめている。


 何故だか疑われていることに嫌な感覚を持った樫崎は、片手に検査用のヘッドフォン、もう片方にスイッチを持ち、目で示した。


「こっちに聞こえてくるピーとかキーみたいな音に合わせて、こっちのスイッチ押すんですよね? えーっと、鳴ってる間はずっと」


「そうなんですけど……」


 看護師は、納得がいかないというように首を傾げた。


「何か問題があるんですか……?」


 そう訊くと、僅かに眉を寄せてから、笑みを作る。


「問題というか……えーと、もう一回だけ試して良いですか?」


「え? ……はい」


 看護師にそう言われてしまっては、「はい」以外返しようがない。


 樫崎は扉が閉められるのを横目で見ながら、ヘッドフォンを被り直し、スイッチを握り直した。


 小窓の向こうから、看護師が笑みを向けている。


 それに曖昧に応えてから、樫崎はヘッドフォンから聞こえてくるであろう音を待ち構えた。


 ピー……。


 カチッ。


 スイッチを押す。


 少しの間。


 ピー……。


 カチッ。


 スイッチを押す。


「聞こえますかぁ?」


「え? ……あ、はい」


 キー……。


 カチッ。


 スイッチを押す。


 少しの間。


 キー……。


 カチッ。


 スイッチを──


「聞こえますかぁ?」


「はい、聞こえてます」


 少し間延びして聞こえるその声に、樫崎は何処か苛立ちのようなものを覚えた。


 ──聞こえてるから、スイッチを押してるんだろ。


 小窓の向こうに目をやると、看護師は不思議そうに首を傾げている。


 ──またやり直しなんて嫌だけど。


 そう考えると、眩暈が酷くなってくる気がする。


「聞こえますかぁ?」


「はい、聞こえて……ん?」


 今、音は鳴っていない。


 樫崎は慌てて首を振った。ぐらりと重力に押し付けられるような感覚に襲われ、眩暈が軽くなる姿勢に戻す。


「すみません、今のは聞こえませんでした」


 ヴー……。


 カチッ。


 スイッチを押す。


 ヴー……。


 スイッチを……。


 音が聞こえる度にスイッチを押し「聞こえてます」と答える。


 そうして全ての音を聞き終えると扉が開いた。


「お疲れ様でした」


 看護師は、何処か疲れた顔をして樫崎を見つめている。


「あの……」


「検査終わったかなぁ?」


 その時、奥から白衣を着た医師がひょいひょいと歩いて来ると、樫崎を見やった。


「眩暈だって? 検査は──」


 何やらと看護師と話すと、医師はうんうんと頷いて見せる。


「じゃあ、診察台にどうぞぉ」


 言われるままに、樫崎は診察台に腰掛けた。椅子が倒され、眩暈が強くなる。


 ぐるぐると回り始めた感覚に、思わず椅子を掴むと、医師はうんうんと頷いた。


「目、回るよねぇ」


「は、はい……」


「聞こえますかぁ」


「え? ……はい」


 回る視界に堪えながら、樫崎は何とか答えると、あとは医師が耳の奥を覗いたりするのに身を任せた。


「うーん、耳石がズレちゃってるんだねぇ。風邪引いたりするとね、ズレちゃったりするの。風邪、引いてるでしょ?」


 そんな自覚のない樫崎は、どう答えたものかと首を傾げた。


「聞こえますかぁ」


「あ、音は聞こえてます。聴力には問題はないってことですか?」


 樫崎が訊くと、妙な間が空いてから、医師は頷いた。


「そうだね。耳自体には問題はないだろうね。耳石も放って置いても大丈夫だし、気になるようなら頭を動かして耳石を戻すっていうのもあるけど」


 笑みを浮かべて言う医師に「お願いします」と返そうとすると、その前に、医師は笑みを深くした。


「僕、苦手なんだよねぇ。その施術。よければ他の病院を紹介するけど」


 シン、と部屋が静まり返る。


 樫崎は、少しだけ考えてから「いえ、様子を見ます」とだけ返した。


 会計を済ませ、酷く疲れた気分で、帰路へと就く。


 ──ヤブ医者……?


 眩暈がしている上に、妙な医師に掛かったせいで気が重い。それに、放って置けば治るようなものなら、少しだけ眩暈が治まったタイミングだからといって、無理に出て来る必要もなかった。


 知らず、溜め息が出る。


「聞こえますかぁ」


「はい、聞──」


 樫崎は、足を止めた。


 その場でじっと考え、まとまらないままに後ろを振り返る。


 出勤時間や下校時間でもない中途半端な時間のせいか、道には誰の姿も見当たらない。


 何台かの車やバスが道路を走り過ぎて行っただけだ。


 ──聞き間違い……か?


 眩暈もしている。気持ちも疲れている。幻聴のようなものがあっても、不思議ではない。


 ──だったら、何かしらの診断名がついて、薬でも処方してくれれば良かったのに。


 病院で支払ったのは、検査と診察の代金のみ。薬は何も処方されなかった。


 はぁ、と溜め息が出る。


「早く帰ろう」


「聞こえますかぁ」


 歩き出した樫崎は、しかし、再び足を止め、耳を押さえた。


 ──何だ? 今の声は何だ?


「聞こえますかぁ」


 追い打ちをかけるように、声が繰り返される。


 当然、振り返っても誰も居ない。


 その声は、じっと耳のすぐ側で発せられたような感触を持っていた。


 ──何だ? 何だ何だ何だ……?


 樫崎は、病院に戻ろうかと振り返った。しかし、踏み出し掛けた足を引っ込める。


 あのような対応の病院に何が出来る?


 それに、素人の樫崎でも判る。


 〝聞こえない筈の声がハッキリと聞こえる〟と言って、信じる医師が何処にいる?


 恐らくそれは、精神科の医師さえ疑いを持つ内容だ。


 樫崎は自宅に向けて歩き始めた。


「聞こえますかぁ」


 声は訊く。


「聞こえますかぁ」


 樫崎がどれだけ足を早めようと、その声は樫崎の耳元で訊く。


 どうやって辿り着いたのか判らない。


 気が付けば、自宅の玄関の前に立っていた。


 意味はないと頭の何処かで思いながらも、辺りを見回してから部屋に入る。


 閉め切った部屋の、澱んだ空気が体を包んだ。


 窓を開けようとして、その手を止める。


 きっと意味はない。


 正体不明の声は、扉や窓など、きっと関係がないだろう。


 しかし、自宅という安心出来る筈の空間に、何者かが入り込む切っ掛けを作りたくなかった。


 事実、先程迄何度も繰り返されていた声は、自宅に入ってからは聞こえなくなっている気がしていた。


 無意識に塞いでいた耳から、手を外す。


 シン、とした静寂が部屋にあるだけだった。


 ホッと息を吐く。


 声が聞こえなくなったと思ったら、今度は部屋の静寂が気になってくる。


 樫崎はテレビの電源を点けた。


「聞こえますかぁ。聞こえますか⁉ 聞ぃこえますかぁ。聞こ、えますか!」


 テレビから響いてくる声に、樫崎は硬直した。


 画面には、お笑い芸人やタレントが笑い合う様子が映し出されている。


 しかし、その音声は全て「聞こえますか」。


 全く口の動きに合っていないのに、「聞こえますか」「聞こえますか」と声が塗り替えられている。


「な、なん……」


 樫崎はテレビを消し、スマートフォンを取り出すと、動画サイトを開いて適当に動画を再生した。


「聞こえますかぁああぁ!」


 目を引くカラーのCMの中で、俳優が叫んでいる。


 どれだけ口を動かしても「聞こえますかぁ」の声しか聞こえない。


「何で……なんで……なにが……」


「聞こえますかぁ」


 樫崎はスマートフォンを壁に叩きつけた。


 ガンッと音を立てて床に落ちたスマートフォンは、少しの間の後に画面にヒビを走らせた。


「……聞こえますかぁ」


 間延びした声がスマートフォンから響く。


 樫崎は、張り裂けそうな程に叫び声を上げながら、何度も何度もスマートフォンを踵で踏みつけた。バキリバキリと音がして、スマートフォンは砕けていく。


〝聞こえますかぁ〟


 耳に届いたその音に、動きを止める。


 ──今、今……スマートフォンから……。


 樫崎がスマートフォンに踵を押し付けると、その動きに合わせて「聞こえますかぁ」と音がする。


 壁を叩く。


〝聞こえますかぁ〟


 頬を叩く。


〝聞こえますかぁ〟


 頭を掻き毟る。


〝聞こえますかぁ〟


 吐く息でさえ「聞こえますかぁ」。


 その時突然、玄関の方から酷く大きな「聞こえますかぁ」が聞こえた。


 扉の振動から考えるに、きっと叩かれているのだろう。扉の向こうからも声が聞こえている。


「聞こえますかぁ! 聞こえますかぁ⁉」


 樫崎は、力なくその場にへたり込んだ。


 服が擦れる際に微かな「聞こえますかぁ」が聞こえる。


 部屋がぐるぐると回り出す。


 とてもしゃがんでいることも出来ない。


 ぐるぐる……ぐるぐる……。


 聞こえますかぁ。


 聞こえますかぁ。


 聞こえますかぁ。


 聞こえますかぁ。


 ──煩い。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。


 樫崎は、眩暈に襲われるままに床に倒れ込んだ。


 額が床にぶつかる瞬間、聞こえたのは──



〝聞こえますかぁ〟



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