聴力検査
ピー……ピー…………キー……キー。
ヴー……ヴー……。
目の前の小窓の向こうで、何やらと動く頭が見える。
それに僅かに気を取られながら、樫崎は音が聞こえる度に手元のスイッチを押した。
どうにも眩暈が治まらず、訪れた耳鼻咽喉科。
妙に人気のない待合室に最初は尻込みしたが、紹介サイトでの口コミは良いものが多く、悪いものも気になるような内容でない為に、掛かることとしたのだった。
周辺にある耳鼻咽喉科は何処か信用が出来なさそうで、他の患者の意見を信じることにした。
しかし。
小窓の向こうで、看護師が首を傾げている。
そして、難しい顔をしたまま、個室の扉を開けた。
「樫崎さん、本当に聞こえてます?」
「え? ……はい」
看護師は怪訝そうに樫崎のことを見つめている。
何故だか疑われていることに嫌な感覚を持った樫崎は、片手に検査用のヘッドフォン、もう片方にスイッチを持ち、目で示した。
「こっちに聞こえてくるピーとかキーみたいな音に合わせて、こっちのスイッチ押すんですよね? えーっと、鳴ってる間はずっと」
「そうなんですけど……」
看護師は、納得がいかないというように首を傾げた。
「何か問題があるんですか……?」
そう訊くと、僅かに眉を寄せてから、笑みを作る。
「問題というか……えーと、もう一回だけ試して良いですか?」
「え? ……はい」
看護師にそう言われてしまっては、「はい」以外返しようがない。
樫崎は扉が閉められるのを横目で見ながら、ヘッドフォンを被り直し、スイッチを握り直した。
小窓の向こうから、看護師が笑みを向けている。
それに曖昧に応えてから、樫崎はヘッドフォンから聞こえてくるであろう音を待ち構えた。
ピー……。
カチッ。
スイッチを押す。
少しの間。
ピー……。
カチッ。
スイッチを押す。
「聞こえますかぁ?」
「え? ……あ、はい」
キー……。
カチッ。
スイッチを押す。
少しの間。
キー……。
カチッ。
スイッチを──
「聞こえますかぁ?」
「はい、聞こえてます」
少し間延びして聞こえるその声に、樫崎は何処か苛立ちのようなものを覚えた。
──聞こえてるから、スイッチを押してるんだろ。
小窓の向こうに目をやると、看護師は不思議そうに首を傾げている。
──またやり直しなんて嫌だけど。
そう考えると、眩暈が酷くなってくる気がする。
「聞こえますかぁ?」
「はい、聞こえて……ん?」
今、音は鳴っていない。
樫崎は慌てて首を振った。ぐらりと重力に押し付けられるような感覚に襲われ、眩暈が軽くなる姿勢に戻す。
「すみません、今のは聞こえませんでした」
ヴー……。
カチッ。
スイッチを押す。
ヴー……。
スイッチを……。
音が聞こえる度にスイッチを押し「聞こえてます」と答える。
そうして全ての音を聞き終えると扉が開いた。
「お疲れ様でした」
看護師は、何処か疲れた顔をして樫崎を見つめている。
「あの……」
「検査終わったかなぁ?」
その時、奥から白衣を着た医師がひょいひょいと歩いて来ると、樫崎を見やった。
「眩暈だって? 検査は──」
何やらと看護師と話すと、医師はうんうんと頷いて見せる。
「じゃあ、診察台にどうぞぉ」
言われるままに、樫崎は診察台に腰掛けた。椅子が倒され、眩暈が強くなる。
ぐるぐると回り始めた感覚に、思わず椅子を掴むと、医師はうんうんと頷いた。
「目、回るよねぇ」
「は、はい……」
「聞こえますかぁ」
「え? ……はい」
回る視界に堪えながら、樫崎は何とか答えると、あとは医師が耳の奥を覗いたりするのに身を任せた。
「うーん、耳石がズレちゃってるんだねぇ。風邪引いたりするとね、ズレちゃったりするの。風邪、引いてるでしょ?」
そんな自覚のない樫崎は、どう答えたものかと首を傾げた。
「聞こえますかぁ」
「あ、音は聞こえてます。聴力には問題はないってことですか?」
樫崎が訊くと、妙な間が空いてから、医師は頷いた。
「そうだね。耳自体には問題はないだろうね。耳石も放って置いても大丈夫だし、気になるようなら頭を動かして耳石を戻すっていうのもあるけど」
笑みを浮かべて言う医師に「お願いします」と返そうとすると、その前に、医師は笑みを深くした。
「僕、苦手なんだよねぇ。その施術。よければ他の病院を紹介するけど」
シン、と部屋が静まり返る。
樫崎は、少しだけ考えてから「いえ、様子を見ます」とだけ返した。
会計を済ませ、酷く疲れた気分で、帰路へと就く。
──ヤブ医者……?
眩暈がしている上に、妙な医師に掛かったせいで気が重い。それに、放って置けば治るようなものなら、少しだけ眩暈が治まったタイミングだからといって、無理に出て来る必要もなかった。
知らず、溜め息が出る。
「聞こえますかぁ」
「はい、聞──」
樫崎は、足を止めた。
その場でじっと考え、まとまらないままに後ろを振り返る。
出勤時間や下校時間でもない中途半端な時間のせいか、道には誰の姿も見当たらない。
何台かの車やバスが道路を走り過ぎて行っただけだ。
──聞き間違い……か?
眩暈もしている。気持ちも疲れている。幻聴のようなものがあっても、不思議ではない。
──だったら、何かしらの診断名がついて、薬でも処方してくれれば良かったのに。
病院で支払ったのは、検査と診察の代金のみ。薬は何も処方されなかった。
はぁ、と溜め息が出る。
「早く帰ろう」
「聞こえますかぁ」
歩き出した樫崎は、しかし、再び足を止め、耳を押さえた。
──何だ? 今の声は何だ?
「聞こえますかぁ」
追い打ちをかけるように、声が繰り返される。
当然、振り返っても誰も居ない。
その声は、じっと耳のすぐ側で発せられたような感触を持っていた。
──何だ? 何だ何だ何だ……?
樫崎は、病院に戻ろうかと振り返った。しかし、踏み出し掛けた足を引っ込める。
あのような対応の病院に何が出来る?
それに、素人の樫崎でも判る。
〝聞こえない筈の声がハッキリと聞こえる〟と言って、信じる医師が何処にいる?
恐らくそれは、精神科の医師さえ疑いを持つ内容だ。
樫崎は自宅に向けて歩き始めた。
「聞こえますかぁ」
声は訊く。
「聞こえますかぁ」
樫崎がどれだけ足を早めようと、その声は樫崎の耳元で訊く。
どうやって辿り着いたのか判らない。
気が付けば、自宅の玄関の前に立っていた。
意味はないと頭の何処かで思いながらも、辺りを見回してから部屋に入る。
閉め切った部屋の、澱んだ空気が体を包んだ。
窓を開けようとして、その手を止める。
きっと意味はない。
正体不明の声は、扉や窓など、きっと関係がないだろう。
しかし、自宅という安心出来る筈の空間に、何者かが入り込む切っ掛けを作りたくなかった。
事実、先程迄何度も繰り返されていた声は、自宅に入ってからは聞こえなくなっている気がしていた。
無意識に塞いでいた耳から、手を外す。
シン、とした静寂が部屋にあるだけだった。
ホッと息を吐く。
声が聞こえなくなったと思ったら、今度は部屋の静寂が気になってくる。
樫崎はテレビの電源を点けた。
「聞こえますかぁ。聞こえますか⁉ 聞ぃこえますかぁ。聞こ、えますか!」
テレビから響いてくる声に、樫崎は硬直した。
画面には、お笑い芸人やタレントが笑い合う様子が映し出されている。
しかし、その音声は全て「聞こえますか」。
全く口の動きに合っていないのに、「聞こえますか」「聞こえますか」と声が塗り替えられている。
「な、なん……」
樫崎はテレビを消し、スマートフォンを取り出すと、動画サイトを開いて適当に動画を再生した。
「聞こえますかぁああぁ!」
目を引くカラーのCMの中で、俳優が叫んでいる。
どれだけ口を動かしても「聞こえますかぁ」の声しか聞こえない。
「何で……なんで……なにが……」
「聞こえますかぁ」
樫崎はスマートフォンを壁に叩きつけた。
ガンッと音を立てて床に落ちたスマートフォンは、少しの間の後に画面にヒビを走らせた。
「……聞こえますかぁ」
間延びした声がスマートフォンから響く。
樫崎は、張り裂けそうな程に叫び声を上げながら、何度も何度もスマートフォンを踵で踏みつけた。バキリバキリと音がして、スマートフォンは砕けていく。
〝聞こえますかぁ〟
耳に届いたその音に、動きを止める。
──今、今……スマートフォンから……。
樫崎がスマートフォンに踵を押し付けると、その動きに合わせて「聞こえますかぁ」と音がする。
壁を叩く。
〝聞こえますかぁ〟
頬を叩く。
〝聞こえますかぁ〟
頭を掻き毟る。
〝聞こえますかぁ〟
吐く息でさえ「聞こえますかぁ」。
その時突然、玄関の方から酷く大きな「聞こえますかぁ」が聞こえた。
扉の振動から考えるに、きっと叩かれているのだろう。扉の向こうからも声が聞こえている。
「聞こえますかぁ! 聞こえますかぁ⁉」
樫崎は、力なくその場にへたり込んだ。
服が擦れる際に微かな「聞こえますかぁ」が聞こえる。
部屋がぐるぐると回り出す。
とてもしゃがんでいることも出来ない。
ぐるぐる……ぐるぐる……。
聞こえますかぁ。
聞こえますかぁ。
聞こえますかぁ。
聞こえますかぁ。
──煩い。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。
樫崎は、眩暈に襲われるままに床に倒れ込んだ。
額が床にぶつかる瞬間、聞こえたのは──
〝聞こえますかぁ〟




