黙って終わるものですか!
名を呼ばれた瞬間、胸の奥がひっくり返るような感覚が走った。
冷静さなど最初から無い。
ただ、分かりきっていた結末を、わざわざ人前で叩きつけられる場に立たされているという事実が、腹の底から気分を悪くさせていた。
「エルヴィーラ・フォン・クロイツァー侯爵令嬢」
ロレンツ・アーデルハイト王太子殿下は、私を見ていた。
だがその目は、人を見る目ではない。
都合の悪い荷物を前にした時の、逃げ道を探す視線だった。
「本日をもって、君との婚約を解消する」
ああ、やはりそう来るのか。
喉の奥で、笑いとも怒鳴り声ともつかない音が鳴った。
「随分と立派な言い草ですわね。散々甘え倒しておいて、最後はそれですか」
自分でも驚くほど、声が大きく、荒れていた。
止める気はない。
「君は分かっているはずだ。私は――」
「分かっている? 何をですか。殿下が不安になるたびに夜中まで付き合い、愚痴も恐れも全部聞かされ、挙句の果てに『自分が王に向いていない気がする』と泣き言を吐く姿を見せられ続けたことですか。それとも、私が毎回それに言葉を尽くして付き合ったことですか」
周囲がざわつくのが分かる。
構わない。今さら取り繕う理由が無い。
「何だ、その態度は!不敬である」
はっ、と鼻で笑った。
「今さら何を言っているんです。最初からそうだったでしょう。口うるさい女が嫌なら、最初から選ばなければよかった。殿下は都合の良い時だけ、私に寄りかかっていたくせに」
「違う! 私は――もっと、安心したかっただけだ」
「出ましたわね、その言い訳。安心したい、癒やされたい、分かってほしい。結局それしか言わない。要するに、殿下は自分の不安を処理する係が欲しかっただけでしょう」
ロレンツ殿下の顔が歪む。
その様子に、胸の奥が一段階、さらに熱くなる。
「君は、強すぎた。何でも言うし、何でも突きつけてくる。私は、もっと優しく受け止めてくれる相手を――」
「はあ? 何を言っているんですか。もっと優しく受け止めてほしい? 殿下、いい加減にしてください。私は殿下の不安も、焦りも、醜い嫉妬も、全部受け止めてきました」
一歩、前に出る。視線を逸らさせない。
「結局、殿下は自分に優しいだけの女が欲しかったのでしょう」
「侮辱だぞ!」
「事実でしょう。私が意見を言うたびに顔をしかめ、正論を返せば『責められている気がする』と拗ね、挙句の果てに別の女に逃げた。それを恋だの理解だの、綺麗な言葉で飾らないでください。吐き気がします」
殿下は言い返そうとして、言葉に詰まった。その沈黙すら腹立たしい。
「殿下は弱い。自分の不安を直視する勇気も無いのに、他人に癒やしだけを求める。そんな人間が、王になるつもりだったんですか」
空気が張り詰める。だが、止まらない。
「私は捨てられました。ええ、それで結構です。でも、私は黙って消える女ではありません。殿下が何を失ったのか、どういう人間だったのか、今日ここで全部言わせていただきます」
胸が苦しい。
怒りも、悔しさも、全部混ざっている。
だが、それを吐き出さずに終わる気はない。
「どうぞ、お幸せに。殿下が選んだその方と、殿下の不安と自己憐憫を、存分に分かち合えばいい。私は――そんな泥沼に、二度と戻りません」
言い切った瞬間、体の奥で何かが切り替わったのが分かった。
◇
王城を出た瞬間、足の裏から頭のてっぺんまで、遅れていた感情が一気に噴き上がった。
あの場では吐き切ったつもりでいたが、そんなわけがない。
あれほど長い時間、溜め込み、付き合い、支えてきたのだ。数十分の喧嘩で終わる量ではない。
「……ふざけないで」
馬車に乗り込むなり、声が荒れた。
御者が一瞬こちらを窺ったのが分かったが、構わない。
今さら令嬢らしさなど、どうでもいい。
「ふざけないで、本当に」
腹の奥がひっくり返るように、怒りと悔しさと情けなさが混ざり合う。
王太子という立場も、将来も、責任も、全部分かった上で付き合ってきた。
それを最後に、あんな言葉で片づけられるとは思わなかった。
◇
屋敷に戻ると、母が応接室で待っていた。
状況はもう伝わっているらしい。
侍女たちの視線が刺さるが、気にしない。
「……破棄、されたのね」
「ええ、されましたわ。堂々と、人前で。あれほど自分の弱さを棚に上げた言い分、初めて聞きました」
椅子に腰を下ろすと同時に、言葉が止まらなくなる。
「安心したい? 理解されたい? 知りませんわよ、そんなもの。こっちは殿下の不安と癇癪と自己嫌悪の後始末を何年やってきたと思っているんですか。夜中に呼び出されて、王に向いていない気がすると泣かれ、誰にも言えないと縋られて、私が何度、言葉を尽くしたか」
母は黙って聞いている。だが、その沈黙が許せない。
「何か言ってくださいな。私が間違っているなら、そう言えばいい。感情的すぎる、重い、面倒だった。殿下が言っていたことと同じですわ」
「……エルヴィーラ、あなたは――」
「分かっています。感情が多い女です。喋るし、責めるし、言葉も長い。でも、それを分かって婚約したのは、向こうでしょう。今さら被害者ぶるなんて、笑えます」
胸の奥が苦しい。だが、止めない。
「結局、殿下は自分の都合の良い女が欲しかっただけです。私が意見を言うたびに顔をしかめていましたから」
母が息を吐く。
「……あなたは、これからどうするつもりなの」
「決まっています」
言い切ると、不思議なほど声がはっきりした。
「私は、もう王城の人間ではありません。殿下の感情処理係でもない。なら、私を必要とする場所に行くだけです」
◇
その夜、書斎で古い手紙を引っ張り出した。
辺境伯ハインリヒ・フォン・ヴァルデック。
数年前、視察で王都に来た際に知り合い、文通が続いていた相手だ。
穏やかな文章だが、感情が無いわけではない。
むしろ、毎回やたらと長い。仕事の愚痴も、不安も、苛立ちも、包み隠さず書いてくる男だった。
だが、王太子とは違い、人に頼るような感じはしない。
「……あなたも、大概ですわね」
思わず笑いが漏れる。こちらが長文で返せば、倍の長さで返ってくる。
気持ちを出すのを、恥とも弱さとも思っていない人間だ。
羽ペンを取る。
「破棄されましたわ」
最初の一文から、感情が溢れる。
「驚くでしょうけれど、私は今、怒っていて、悔しくて、腹立たしくて、それでも妙にすっきりしています。王太子殿下は、自分の弱さを私のせいにして逃げました。正直に言えば、清々しいほど卑怯でした」
書きながら、止まらない。
「私は感情が多い女です。喋るし、責めるし、言葉も長い。あなたは、それを面倒だと思いますか。それとも、受け止める覚悟がありますか。今、私は遠慮する気が一切ありません」
書き終えた時、胸の奥が少し軽くなっていた。
◇
返事は早かった。驚くほど、率直だった。
「あなたが黙らない人間だということに、私は逆に安心します。感情をぶつけられるなら、こちらも全て返します。逃げるつもりはありません」
思わず、声を出して笑った。
「……逃げない、ですって」
王太子には、最後まで聞けなかった言葉だ。
「あなたは今、怒り、悔しさ、誇り、全部混ざった状態でしょう。それで構いません。整理などしなくていい。こちらに来るなら、そのまま来てください。辺境は、静かです。いくらでも愚痴に付き合いますよ」
胸の奥で、別の熱が灯る。
決める事は、さっさと決める。
私は、父に縁談をまとめてもらおうと相談した。
◇
辺境伯領の空気は、王都とはまるで違った。
空が広いとか、風が冷たいとか、そんな生易しい話ではない。
人の距離が近く、視線が遠慮なく刺さってくる。
好奇心も警戒も、全部隠さない土地だと、馬車を降りた瞬間に分かった。
「……噂になる速度が早そうですわね」
独り言のつもりだったが、周囲の視線が一斉にこちらを向いた。
ああ、そういう土地か。
気取って黙る方が、余計に不自然らしい。
◇
応接室に通されるなり、扉が開いた。
「あなたが、エルヴィーラ・フォン・クロイツァー侯爵令嬢か」
ハインリヒ・フォン・ヴァルデック辺境伯は、大きな男だった。体格も声も、存在感も、全部が遠慮なく主張してくる。
だが、威圧的ではない。こちらを値踏みする目でもない。
単純に、正面から人を見る目だ。
「ええ、そうですわ。捨てられた直後で、気持ちが荒れています。今なら、どんな失言が出るか分かりませんが、それでも構いませんか」
我ながら、最初の一言にしては酷い。だが、取り繕う気は一切無い。
「構わないどころか、助かる」
即答だった。
「こちらも、その方が気が楽だ。遠慮される方が困る」
「それは結構。では最初に言っておきますが、今の私は、うるさいですよ。泣き言も言いますし、怒鳴ることもあります」
「全部、聞く。途中で遮らない」
「……本当に?」
「疑うなら、今ここで試せばいい」
その言い方が、妙に癇に障らなかった。王太子なら、そこで既に言い訳か、覚悟の無い優しさを挟んでくる。
「では遠慮なく。私は王太子に捨てられました。理由は、私の当たりが強すぎたからだそうです。分かってくれる女が欲しくなったそうです。聞いてどう思います?」
「率直に言う。そんな弱い男は別れて正解だ」
間髪入れず、そう言い切った。
「強い人間と婚約して頼っておいて、途中で耐えられなくなった。それを相手の欠点として処理するのは、逃げだ」
胸の奥で、何かが弾けた。
「そうですわよね? そうでしょう? 私は最初からこうでした。黙る女でも、従う女でもない。なのに、都合の良い時だけ寄りかかって」
「腹が立つのも当然だ。怒っていい」
「では怒ります」
遠慮なく声を張る。
「私は殿下の不安の掃き溜めではありません! 王になる覚悟も無いくせに、誰かに安心だけを求める人間が、偉そうに婚約を切るなんて、笑わせないでください!」
使用人たちが一斉にこちらを見た。だが、ハインリヒは眉一つ動かさない。
「続けていい」
「……止めませんのね」
「止める理由が無い」
胸の奥が、熱く、苦しくなる。
「私は、もう二度と、感情を押し付けられるだけの関係には戻りません。私の感情を受け止める気がないなら、最初から選ばないでほしい。都合よく逃げる男は、心底軽蔑します」
「なら、確認する」
彼は一歩、前に出た。
「私は、あなたを面倒だとは思わない。ただし、こちらも同じ量を返す。怒れば怒る。不安なら不安を言う。嫉妬も隠さない。それでもいいか」
「いいに決まっています。むしろ、それでなければ無理です」
「なら、縁談の話を進めたい」
即決だった。拍子抜けするほど。
「……早すぎません?」
「そこまで本性を見せて、様子見をする意味があるか?」
確かに、その通りだ。
「ただし条件がある」
「聞きますわ」
「喧嘩は止めない。黙って耐えることを美徳にしない。嫌なことは、その場で、お互いに全部言う」
思わず、笑ってしまった。
「それ、私が王太子に求めて、最後まで得られなかったものです」
「なら、ここでは必ず与える」
胸の奥で、怒りとは違う熱が灯る。安心とも違う。これからやってやるという熱情だ。
「決まりですわね」
「ああ。今日から、あなたはヴァルデック辺境伯家の婚約者だ」
即縁談。即決。
静かな確認も、間を取る余裕も無い。
だが、不思議と不安は無かった。
◇
辺境伯領での生活は、静かではあったが、穏やかではなかった。
感情が少ない日など一日も無い。朝から腹を立て、昼に笑い、夕方に不安を吐き、夜にまた言い合う。だが、それが消耗ではなく、充実につながる感覚だった。
「今日は機嫌が悪いですね」
「悪いですわ。あなたの言い方がいちいち癪に障りました」
「そうか。ではこちらも言う。あなたのその眉の動きが、今朝からずっと攻撃的だ」
「でしょうね。自覚があります」
こんなやり取りが、日常だった。
逃げない。引かない。黙らない。
それが成立している限り、愛情は腐らない。
◇
そんな折、王都から噂が届いた。
望まなくても、勝手に耳に入ってくる。
「……殿下が、荒れているそうです」
侍女が言いにくそうに切り出す。
「荒れている?」
「ええ。恋人のクラリッサ様と、連日のように言い争いをしていると」
思わず、鼻で笑ってしまった。
「でしょうね。そんなに都合の良い女がいるものですか」
聞けば、内容はどれも些細だったらしい。
視線の向け方、返事の速度、言葉の選び方。
だが、それを殿下は逐一拾い上げ、感情をぶつけ続けているという。
◇
王都では、ロレンツ・アーデルハイト王太子殿下が、完全に余裕を失っていた。
「どうして、そんな言い方をするんだ!」
「だって、あなたが不安そうだったから!」
「その不安を煽る言い方をするなと言っている!」
クラリッサは泣きながらも、言葉を止めない。
「私は、あなたを理解している! だからこそ、言っているのよ! 私だって不安なの!」
「それは、お前の問題だろう!」
「違う! 恋人なら、分かち合うべきでしょう!」
どちらも引かない。
殿下は、今さらまた耐えられなくなっていた。
「……エルヴィーラなら、こんな言い方はしなかった」
ふと漏れたその一言に、空気が凍る。
「は?」
クラリッサの声が低くなる。
「今、何て言ったの?」
「違う、そういう意味じゃない。ただ――」
「比べたわね」
彼女は、即座に理解した。
「あなた、比べた。捨てた女と、私を」
「違う! 私は――」
「違わない! あなたは、私に安心を求めているくせに、安心させる努力はしない! 不安になったら怒鳴って、過去の女を持ち出して、自分を正当化する!」
殿下の顔が歪む。
「君は、理解してくれていると思っていた!」
「理解することと、納得する事は違う!」
その言葉が、殿下の胸を刺した。
理解してほしかった。
だが、言い返されることまでは、想定していなかった。
◇
噂は広がる。
王太子が、感情的に怒鳴り散らし、恋人を責め、過去の婚約者の名を口にする姿が。
一方で、辺境伯領では、私が感情を隠さず暮らしていることも、同時に伝わっていく。
「辺境伯夫妻は、よく喧嘩をするそうだ」
「ええ。でも、翌日には並んで市場を歩いていたとか」
「喧嘩が絶えないのに、仲が良いらしい」
比較される。
それが、殿下には耐え難かった。
「……なぜだ」
夜更け、殿下は独りで呟く。
「私は、ただ安心したかっただけなのに」
その言葉に応える者は、もういない。
◇
最初に違和感を覚えたのは、朝食の席だった。
「王都から使者が来ています」
侍女の声が、必要以上に硬い。内容を察するには十分だった。
「……誰からですの」
「ロレンツ・アーデルハイト王太子殿下より」
思わず、舌打ちが漏れた。
「今さら、何の用ですか。殿下の子守なら、もう引き受けませんわ」
ハインリヒが、こちらを見る。
「行く気は?」
「ありません、と言いたいところですが……」
胸の奥が、嫌な方向にざわつく。
しかし、不敬な態度を取ったのも事実だ。
行ってはっきり言わなければ、最悪の事態もありうる。
取り繕いに行くのではない、決着をつける。
◇
面会は、辺境伯城の応接室で行われた。
逃げ場の無い配置。
王太子殿下は、到着するなり、感情を隠す様子もなく、こちらに詰め寄ってきた。
「エルヴィーラ、どういうつもりだ」
「久しぶりですね、殿下。第一声がそれですか。相変わらず、自分の感情しか見えていない」
「ふざけるな! 私は――」
「落ち着いて、などとは言いません。どうせ無理でしょうから」
ハインリヒが一歩前に出ようとしたが、手で制した。
これは、私の喧嘩だ。
「聞きたいことがある」
「聞きたくありませんが、どうぞ。どうせ勝手に喋るのでしょう」
殿下の顔が歪む。
「なぜ、あんな男を選んだ」
「……何様のつもりですか」
声が低くなる。抑えているのではない。怒りが沈んだだけだ。
「私が誰と縁を結ぼうと、殿下に関係がありますか。捨てた女の人生に、今さら口を出す資格があると?」
「私は、お前を想って――」
「やめてください。その言葉」
一気に距離を詰める。
「それ、都合の良い時にしか使わないでしょう。安心したい時、不安な時、孤独な時だけ。私が幸せそうだと分かった瞬間に、しゃしゃり出てきて、感情をぶつける。それを想いと呼ぶなら、殿下の愛情は害悪です」
殿下の声が荒れる。
「お前は、変わった。昔は、もっと――」
「黙っていました? 従っていました? 何を言われても肯定していました?」
笑ってしまった。
「それ、私じゃありません。殿下が見たい幻想です。そんな都合のよい女なんて、最初から存在していない」
殿下は、拳を握りしめている。
「私は、間違っていなかった。お前が、もっと優しくすべきだった」
「今さらですか」
即座に切り返す。
「強い女を選び、寄りかかり、逃げた。それだけの話です。そこに正当性を与えようとするから、みっともなくなる」
「私は王太子だぞ!」
「だから何です」
言葉が、鋭く刺さる。
「肩書きで正当化しないでください。王太子であろうと、ただの男であろうと同じです」
殿下は、ここで完全に理性を失った。
「戻ってこい」
空気が凍る。
「……何と仰いました?」
「戻ればいい。今の関係を解消して、もう一度、私の婚約者として――」
言葉の途中で、怒りが爆発した。
「正気ですか!」
声が響く。
「私がどれだけの感情を吐き、どれだけの言葉を使い、どれだけ否定され、捨てられたか、殿下は全部見ていたでしょう。それを無かったことにして、『戻ればいい』? 人の人生を何だと思っているんですか!」
ハインリヒが、はっきりと前に出る。
「失礼ですが殿下、我が婚約者の不敬は代わって謝罪しますが。我々は婚約解消はいたしません」
「黙れ!」
「出来るものなら、どの様にでも処罰を。しかし…」
彼の声は低く、だが感情が乗っている。
「あなたは今、彼女の意思を無視し、私との関係を踏みにじった。辺境伯家への侮辱だ」
「私は、彼女の元婚約者だ!」
「過去だ」
その一言で、殿下の顔が歪む。
「彼女は、私を選んだ。あなたが口を出す余地は無い」
殿下は、何か言い返そうとして、言葉を失った。
その様子を見て、胸の奥が冷える。
「殿下」
私は、はっきりと言った。
「もう二度と、私の人生に干渉しないでください」
追い打ちをかけるように続ける。
「私が幸せであることが、そんなに許せませんか。自分が捨てた女が、笑っているのが。なら、見ないでください。聞かないでください。私の名前を、二度と口にしないで。私はもう、王都にも社交界にも顔を出しません」
殿下は、何も言えなかった。
怒りも、後悔も、未練も、全部抱えたまま、立ち尽くしている。
◇
扉が閉まった後、私は深く息を吐いた。
「……踏み越えましたね。不敬罪でしょうか?」
「完全に」
ハインリヒが、即答する。
「だが、殿下と君の関係は、これで終わりだ」
胸の奥で、何かが静かに固まる。
◇
結局、私達は罰せられなかった。
殿下にも、少しのプライドは残っていたようだ。
未練がましい事が公けになる事はしなかった。
それとも、まだ私に未練があるからなのか…。
「……やっと、落ち着きました」
自分で言って、少し意外だった。
「それは、終わったからだ」
ハインリヒは即答する。
「終わる前は、怒りも未練も全部噴き出すだろう。だが、終わってしまえば、気にしても仕方がない」
「…そうですか」
「今は、別な方向を見ているという事だろう」
その言葉で、胸の奥に重しが下りた。
◇
数日後、辺境伯領では、私たちの関係が公の場に出た。
遠慮する筋合いもなかった。
「よく喧嘩をするそうですね」
夜会でそう言われた時、思わず笑ってしまった。
「ええ、しますわ。口数が多いものですから」
「大変では?」
「いいえ。全部言える相手ですもの。溜めるより、ずっと楽です」
それを聞いていたハインリヒが、横から口を挟む。
「彼女は、怒る時も泣く時も、全力だ。その分、信頼も全力で寄こす。こちらが中途半端だと、すぐ殴られる」
「手は出していませんわ。口で殴っているだけです」
「ほらな」
周囲が笑う。
この笑いは、嘲りではない。
はっきりとした関係性を前提にした、納得の笑いだ。
◇
王都では、同じ頃、別の噂が回っていた。
王太子が、情緒不安定だという噂。
恋人との関係が荒れ、些細なことで怒鳴り、過去の婚約を口に出すという噂。
それに加えて、必ず添えられる比較。
――辺境伯の夫婦は、喧嘩が多いのに、仲が良いらしい。
王太子は、それに耐えられなかった。
◇
私の元に、最後の手紙が届いたのは、その少し後だ。
差出人は、ロレンツ・アーデルハイト。
長い手紙だった。
後悔も、怒りも、未練も、正当化も、全部詰め込まれていた。
読んで、分かった。
彼は、まだ頼る相手を、私に求めている。
自分の不安を、私になんとかしてと、無意識に期待している。
「……もう、助けない」
声に出して、そう言った。
私は返事を書かなかった。
◇
その夜、ハインリヒに手紙のことを話した。
「返さなくていい」
彼は、少しも迷わず言う。
「冷たいと思いませんか」
「いいや。君は十分すぎるほど、気を使った。もう、義務は無い」
胸の奥で、何かがほどける。
◇
朝、窓を開ける。
冷たい風が入ってくる。
「今日は、何から喧嘩します?」
「昨日の続きだ。君が私の言い方を、まだ許していない」
「当然です。簡単に許す女だと思われては困ります」
「では、昼までやろう」
笑いながら、言い合う。
不安は無い。
疑いも無い。
誰かを罰する必要はない。
誰かを裁く必要もない。
私が幸せであること。
それだけが、最後で最大の断罪だった。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




