前世の記憶
例えば、全く知らない景色や光景をふと思い出した所で、多くの人は、昔見た映画か何かから生み出された偽の記憶なのだと見做すだろう。
しかし、大木照彦は違った。
そうは思えなかった。
かなりの臨場感を持って思い出すことが出来るのだ。
これはもう、自身の子供の頃を思い返す時よりも現実感を伴っている。
夢や、妄想や、空想では──ない。
「それってさぁ、どんなことを思い出すの」
恋人の唯菜が首を傾げた。
照彦は少しだけ前のめりになりながら、その光景を語った。
「何処か山奥の……だけど、近くに海の見える村──そう、村に住んでいる。家々は今よりは少し古く見えるけど、そんなに古くもない。畑や田んぼがいくつか見えて、トンボが飛んでいる。その中を、僕は家に帰っている。ふと顔を上げると、崖から水平線に沈む夕日が見える。それが、物凄く綺麗でね」
うっとりとした口調で言うと、唯菜は可笑しそうに小さく笑った。
「すっかり心奪われてるって感じ」
「唯菜にも見せてあげたいよ、あの景色は」
ふぅん、と相槌を打ってから、唯菜は重そうな結婚情報誌を取り上げた。この所の唯菜は、こうして無言のアピールを続けている。
そろそろ覚悟を決めなければならないか、と考えながらも、照彦はそのアピールを見て見ない振りをしていた。唯菜が「この記事見て」と机の上に情報誌を置くのを覗いて「いいね」と適当な返事をする。
何処か、怯えているような、決めきれないような、そんな感覚を持て余していた。
──結婚、か。
そうして曖昧な状況をやり過ごす内、照彦は益々〝あの景色〟に、のめり込んでいった。
今や、あの景色は前世の記憶なのではないかとすら思い始めていた。思い出す度に、より鮮明になり、頬を撫でる風さえ感じることが出来るようになっている。
確かに、あの場で生きていた。
そう感じる程に、景色は現実味を帯びている。
前世の記憶だった、と考えると、今度はその場を実際に訪れてみたくなる。
しかし、いくら現実味を帯びているとはいえ、たったワンシーンの情報しかない。家々と田畑と山並みと海。
海辺の村を地図でくまなく探してみても、結局その景色には辿り着かなかった。
──でも、絶対、この景色は何処かにある筈なんだ。
そんなある時、照彦は〝前世の記憶〟の続きを、ふっと思い出した。
夕焼けに染まる道を家へと辿り着く。何処か湧いてくる高揚感。扉を開けると夕飯の良い香りが鼻をくすぐる。
「お帰りなさい」
と──唯菜が。
ハッと我に返った照彦は、慌てて唯菜に電話を掛けた。唯菜が喋り出すよりも先に、言う。
「君は、運命の人だったんだ」
「……え?」
唯菜の戸惑う声が聞こえ、すぐに乾いた笑い声が続く。
「急にどうしたの。これってプロポーズ? まさか電話口だとは思わなかったんだけど……」
落胆したように言う唯菜に、照彦は慌ててそれを否定した。
「違う。いや、違う訳じゃないけど……その話は改めてさせて欲しい。前世の記憶の続きを思い出したんだ。僕は、君と夫婦だった。だから、君は運命の人だ。前世から……いや、きっとその前から結ばれる運命だったってことだ。それを、思い出した」
「またその話?」
唯菜は少し気のない風に答えたが、暫くの沈黙の後、気を取り直したように明るい声で言った。
「その改めてする話って、期待して良いんだよね」
照彦は、逸る気持ちを抑えながら、電話口で何度も頷いた。
「勿論……!」
それから照彦は彼女の望む通りのプロポーズと結婚式を挙げ、新居に移り住んだ。
これで、運命的で完璧な夫婦が、この時代でも結ばれることとなった。
照彦は今まで以上に唯菜に優しくし、望みを叶え、唯菜はいつも機嫌よく愛情を返した。
完璧な夫婦──前世からの。
しかし、すぐに照彦は、その記憶に悩まされることとなった。
また、記憶の続きを思い出したのだ。
「おかえり」
そう言って、前世の唯菜が笑顔で出迎える。二人で慎ましい食事をし、仲睦まじく笑い合う。そうして──。
前世の照彦は、前世の唯菜の頭を斧でかち割ってしまうのだ。
判らなかった。
どうして、そのような凶行に及んだのか。
話している内容だって、日々の他愛のない話だった。前世の照彦は、夕焼けを見て、早く唯菜の許へと帰ろうと家路を急いでいた。
──それは、殺してしまう為だったのか?
何の為に。いくら考えても答えは出なかった。思い出せるのはそれっきりだったのだ。
家々と田畑と山並みと海。笑顔で出迎える唯菜と、頭を割られ床に倒れている唯菜。自身の赤く染まる手に握られた斧。
「どうしたの。元気ないね」
夕食を食べる手を止め、唯菜が訊いた。
「あ、あぁ……何でもない」
そう言って、照彦は黙々と箸を進めた。
どうして「前世のお前を殺したのだ」と言えよう。
元々、唯菜は耳を傾けることこそすれ、照彦の前世話はあまり信じていなかった。そうしたオカルトの類は、暇つぶしにでも楽しむものという感覚しかないのだった。
明るい話ならともかく、「お前を殺した」と言われて、喜んだり興味を持ったりする筈がない。
運命とは──。
照彦は日々悩み続けた。
仕事から帰り、唯菜が笑顔で出迎えても、頭の何処かで「この後殺してしまうのだ」という考えが離れない。
愛おしい筈の妻が、恐ろしい。
血塗れで床に横たわる姿が、目に焼き付いている。
前世は前世。今世は今世だ。
そう判っていても、まるで自身が斧を隠し持っているような錯覚に陥ってしまう。
悩み抜いた末、照彦はあの景色をすぐにでも見に行く必要があると、本腰を入れて調べ始めた。
調べる内、意外にも近場でその景色を見付けることが出来た。ある程度の面積を持つ大島。その隅にある集落だった。
早速現地を訪れた照彦は、感慨深く景色を見渡した。
今は住人も減り、朽ちかけた家々もあるが、歩いてみると細かい道までもを思い出すことが出来、いよいよ前世の記憶なのだと納得せざるを得なかった。
しかし、そう思うと前世での凶行も事実なのだということになり、暗澹とした気持ちにもなってくる。
うっすらと残る道を、前世で住んでいた家へと向かう。
「あれ、道に迷ったんかね」
その途中、腰の曲がった老婆に話し掛けられた照彦は、愛想よく笑い返した。
「あぁ、すみません。ちょっと……この先の景色は綺麗かな、と思って」
「景色……なぁんもないけどね」
老婆は、殆ど閉じているような目で照彦を見て、口をモゴモゴとさせた。
随分と廃れた集落の中でも、老婆の家は丁寧に手入れがされて、庭には色とりどりの花が咲いていた。あとは自然に呑まれるのを待つだけの場所で、此処だけがポツンと取り残され生きているようだった。
「この先に、お宅はないんですか」
照彦が訊くと、老婆は嫌そうに手を振った。
「あるけどね。いやぁな事件があった家だから。もしかして、アンタそういうのが好きな人かい」
そういう訳では、と一度誤魔化してから、照彦は「何があったんです?」と訊ねた。
暫くモゴモゴと口を動かしていた老婆は、それでも話し相手が出来たことが嬉しかったのか、皺の寄った手で道の先を示した。
「もう随分前だけどね。私がほんの子供だった頃。この先の家に若い夫婦が住んでたんだけどねぇ……ある時旦那の方が奥さんを斧で叩き殺しちゃった訳」
照彦は、声を出せなかった。
──本当だったのだ。本当に、唯菜を……。
痺れた感覚のまま、照彦はゆっくりと道の先を見やり、出来るだけ平静を装って言った。
「……それは、痛ましい事件ですね。その旦那は何でそんなことを」
老婆は首を傾げて黙り込み、口をモゴモゴとさせてから頭を振った。
「さぁねぇ。旦那も死んでたみたいだから、なぁんにも聞けなかった。こう……泡吹いてね。そりゃ酷いもんだったって。血とか吐いたものとかで汚れてて、もう本当に酷い有り様だったって」
「……え?」
照彦は目を瞬いた。
──旦那も死んでいた?
訊き返そうとする照彦を置いて、老婆は「ちょっと待ってな」と家に引っ込んで行ってしまった。
──妻を殺し、そして自らも死を選んだ。そういうことだろうか。
理由が判らないのであれば、他所から見て殺害理由になるようなことはなかったということか。
「ほれ、枇杷好きかい? いっぱい生ったから持って行きなさい。いやぁな話してすまなかったね」
老婆がビニール袋に入れた枇杷を差し出していた。それを呆然と受け取りながら、照彦はそのまま道を引き返した。
不安を拭う為に訪れた筈の〝あの景色〟も、前世の記憶であることが判明しただけで、より強い不安を生んだだけだった。
──不安。
「気が済んだ?」
帰宅すると、唯菜が少しだけやつれた顔で言った。
その顔を見て、照彦は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
仕事が終われば「前世の記憶が」と調べ物をしたり、思い悩んだりして、唯菜を気にかけていなかった。気が付けば、もう新婚と呼べる期間を終えていた。
前世の唯菜と、今世の唯菜の姿が重なって見える。
「ごめん……本当に、申し訳ない。これからは、ちゃんとする。君の幸せのことだけを考えて生きる。許してくれ」
頭を下げ、必死に謝罪する照彦の肩を、唯菜がそっと擦った。
「いいの。もう、いいんだよ」
照彦は、泣いて何度も謝罪を繰り返しながら、唯菜を強く抱き締めた。
──唯菜は、運命の相手だ。今よりもずっと……前世よりも大切にしよう。
その夜も、照彦は夢で前世の記憶を見ていた。
家々と田畑と山並みと海。笑顔で出迎える唯菜と、頭を割られ床に倒れている唯菜。自身の赤く染まる手に握られた斧。零れ落ちる胃に収めた筈の夕食。手が震え、斧が大きな音を立てて床に落ちる。
何故こんなことに。愛していたのに……。何故、こんなことを……。
強い疑問が頭を支配する。酷く気分が悪かった。体がいうことを聞かなかった。寒いような熱いような。痛みと、後悔と、不快感と……疑問。
「僕達は、ずっと一緒だ」
声は出なかった。でも、想いは変わらなかった。
ずっと一緒だ。誓い合ったんだ。だから、僕が死ぬなら、君も死ぬ。当たり前のことだ。
──そうして、何も、見えなくなった。
戸惑いの中目を覚ました照彦は、隣で眠る唯菜の寝顔に何処か安堵しながら、そっとベッドを抜け出した。
改めて自宅を見回せば、唯菜の手によって整えられ飾られた部屋は、どの部屋も居心地がよかった。
前世は前世。今世は今世。
前世で何かしらの理由があって、あのような惨事を生んでしまったのだとしても、今世ではそのようなことは起きないし、起こさない。
ずっと、一緒。それは今世で叶えて見せよう。
幸い、十分な暮らしをしていける程に、稼ぎも蓄えもある。少なくとも今世では生活に困らせるようなことはないだろう。
この所、思い悩んでいたせいか少しばかり体調はすぐれないが、それも唯菜の手料理を食べ、二人で温かい時間を過ごせば、きっとすぐに治るだろう。
リビングのカーテンの隙間から庭を覗くと、綺麗に整えられ、花々が月光に照らし出されていた。老婆の家にも咲いていた花だ。園芸には詳しくないが、きっと流行りの花なのだろう。
「そうだ。ガゼボが欲しいって言ってたな。買ってやろう。いや、作るのもいいな」
つい出た声に笑ってから、照彦は上機嫌で寝室へと戻っていった。
ずっと、一緒だ。前世から。




