土曜日
翌朝、目を覚ましたのは窓ガラスに何かが当たる音だった。
パチン、パチンと、乾いた小さな音。まるで木の枝か、石ころでもぶつかってきているような軽い衝撃が、断続的にガラスを叩いている。最初は夢の続きかと思った。でも、あまりにもしつこいので、寝ぼけ眼のまま窓を開けると、少し離れた隣家の窓から、沙耶香が顔を出していた。
「ねえ、今日……空いてる?」
髪はまだとかされておらず、寝癖でぼさぼさのまま。それでも目はまっすぐにこちらを見ていた。窓の向こうに広がる彼女の部屋を目にするのは、なんだかずいぶん久しぶりな気がした。
「まあ……空いてるっちゃ、空いてるけど」
そう返すと、沙耶香はふっと口元を緩めた。
「おけ。じゃあちょっと付き合って。10時、下集合ね」
そう言い残し、彼女はあっさりとカーテンを閉じた。俺はしばらくその白い布の揺れを眺めたあと、やれやれとため息をついて立ち上がる。
着替えをして、髪を整えて、階段を下りていく。さて、今日はどんな顔をすればいいんだろう。そんなことを思いながら、俺は玄関のドアを開けた。
「おはよう」
沙耶香がそう言ったときの表情は、あのいつもの勝気な顔と、最近よく見せる恥ずかしげな女の子の顔の、そのちょうど中間くらいだった。
俺もなんとなく気恥ずかしくて、ぎこちなく「……おはよう」と返す。
「どこに行くんだよ」
「どこってわけじゃないよ。適当に、散歩しよ」
そう言って、俺たちは並んで歩き出す。少し肌寒い朝の風が、二人の間をすり抜けていく。気づけば足は、いつもの公園へ向かっていた。
気まずい沈黙が続くのもなんだか落ち着かなくて、俺は思わず口を開いた。
「なあ、そういえばさ」
「ん?」
「生徒会の桜井……あいつ、なんか言ってたろ。『今度答えを聞かせて』とか、そんな感じのやつ」
ふと横を見ると、沙耶香は立ち止まり、こっちをじっと見た。目が合う。そして――口元がにやりと釣り上がる。
「ふーん。盗み聞きしてたんだ? 行儀悪いんだね、颯太って」
図星をつかれて、俺は少しだけ言葉に詰まった。
「べ、べつにそんな気にしてたわけじゃねーよ。ただ、なんか……なんとなく、何だったんだろうって思って」
「それを“気になってる”って言うのよ。ほんと、素直じゃないんだから」
うまく言い返せずに黙り込んだ俺を、沙耶香はしばらく楽しそうに眺めていたが、やがてあっさりと口を開く。
「生徒会に入ってくれって言われたの。……断るつもり」
「へ、へぇ?」
間の抜けた返事が出てしまった俺を無視して、沙耶香はつづける。
「人手が足りないんだって。色んな人に声かけてるみたいよ。けど、私はそういうの向いてないし、やる気もないし、パス」
「でもいいのかよ? あの……桜井ってやつの頼みなんだろ?」
俺がそう言うと、沙耶香は少し目を見開いて、本気で驚いた顔をした。
「は? だから何?」
ぴしゃりと断言するその口調に、俺は思わず身を引いた。
「桜井くんとは、おとといが初対面だし。そもそも、何とも思ってないし」
言い切った沙耶香は、どこまでもあっけらかんとしていた。まるで本当に、その話に一片の余韻も引きずっていないように。
その様子に、俺は――正直、ほっとした。でも同時に、なんとも言えない複雑な気分が胸に残った。なんだよ、それって俺……ただのバカじゃねーか。情けないやら恥ずかしいやらで、頭をかきながら俺は思う。
「あれ、もしかして妬いてたの? ほんと、バカね、颯太って」
沙耶香がニヤニヤしながらこっちを見てくる。その顔が妙に腹立たしかったが、否定しきれない自分がいるのも事実で、俺はただ、口をつぐんで視線を逸らした。
「……あ、私クレープ食べたい」
突然、沙耶香が声のトーンを変えて言う。指さす先には、公園の一角に停まっているキッチンカー。看板にはカラフルなメニューの写真が並んでいる。
そのまま当然のように並び、沙耶香は迷いもなく甘そうなクレープを二つ注文する。
「はい。お会計、よろしく」
「はあ? なんで俺が奢らなきゃいけないんだよ」
反射的に返すと、沙耶香はふっと口元をゆるめ、俺のすぐ近くに顔を寄せてきた。思わずドキッとする距離。そして、俺の耳元に小さな声で囁く。
「だって……私のパンツ、見たでしょ。クレープくらい、奢りなさいよ」
その一言で、俺の顔は一気に真っ赤になった。でも、ちらりと横目で沙耶香を見ると、沙耶香の頬も、真っ赤だった。
ああもう、なんなんだよこの感じ。頬をかきながら財布を取り出す俺を、沙耶香はどこか満足げに見ていた。
クレープを受け取ると、俺たちは並んでベンチに腰掛けた。風が吹き抜けると甘い匂いがふわりと立ち上る。普段こんなもん、まず食わない。でも、ひと口かじると驚くほど甘くて、なんだかそれが少しだけ嬉しかった。
たまには、こういうのも悪くないな、なんて思っていた矢先。
「……あーあ、見られちゃったな〜」
沙耶香が、ぽつりとつぶやいた。
その言葉に、俺の全身が一気に熱を帯びた。何のことかなんて、考えるまでもない。昨日見てしまった、沙耶香のパンツ。昨晩何度も何度も思い出してしまったことを、俺は必死に顔に出さないようにする。
「……まあ、結果的に言えば、俺の勝ち、だな」
なるべく平然とした声で言う。バカみたいに汗をかきながら。沙耶香はじろっと俺を見て、わずかに口を尖らせた。
「なによそれ。“俺は負けでいい”とか言ってたくせに」
「言ったけどさ。結果は結果。ルールには従うタイプなんで」
とりあえず理屈っぽく答えておくと、沙耶香はふうっと小さく息をついて、どこか遠くを見るような目つきでつぶやいた。
「……あーあ、男にあんなにがっつり見られたの、初めてかも」
そう言って、自分の頭を抱える仕草をする。
「ご、ごめんって」
思わず口をついて出た謝罪に、沙耶香はすぐさま首を横に振った。
「……いいよ。まあ、颯太だし? 昔は散々お風呂入ったりとかしてたしね。ギリセーフよ」
その一言に、俺は思わずしどろもどろになる。
ふ、風呂……だと? そんなこと、本当にあったか……?
「あれ、覚えてないの? ラッキー。じゃあ、そのまま忘れといて」
沙耶香は、にやりと悪戯っぽく笑った。嘘じゃないのか、それ。……でも、確かに幼稚園の頃とか、そんなことがあったような、なかったような……。
曖昧な記憶を必死でたぐり寄せようとしたその瞬間、沙耶香の指が俺の額を軽くこづく。
「……えっち」
「なっ……!」
その一言に、俺の顔は一気に赤くなった。クレープの苺より赤い自信がある。
沙耶香はそんな俺を横目で見ながら、今度は少し悔しそうにぼやく。
「でもさ、まさか颯太に見られるとは思わなかったな……。恥ずかしいってのは置いといて、純粋に……悔しい。あんなにガード甘かったとか、ありえないし」
「まあ、あの状況は……しゃーないだろ」
俺は肩をすくめて応じる。そして、クレープの紙をくしゃっと握りながら、口元を吊り上げて言った。
「それに――」
ちょっとだけ間を置いて、にやっと笑う。
「俺もまさか、沙耶香が苺パンツだとは思わなかったけどな」
その瞬間、沙耶香の顔がパチンと音を立てるくらい真っ赤に染まった。口をパクパクさせながら、何か言おうとして言葉にならない。
よし、どんなもんだ。これは完全に仕返し成功だろ。
「い、いつもあれ履いてるわけじゃないからね!?」
沙耶香は怒ったような、言い訳するような声で言った。
「本当はもっと、大人っぽいやつとかも履いてるし……だから、あれはたまたまで……」
必死に弁解しているその様子がなんだか可笑しくて、俺は思わず口元を緩めた。
「へえ? じゃあ今度は、別の柄のパンツも見てやろうかな」
そう言ってにやりと笑うと、沙耶香はすぐさま、きっと眉を吊り上げた。
「言ったわね!? ぜーーったい見せてあげないから!」
顔は真っ赤だけど、どこか楽しそうに叫んでくる。
「この間のは単なるまぐれでしょ。もうあんたに見られるほど安いパンツじゃないんだから!」
「はいはい。……たしか月曜日も、そんなこと言ってたっけな」
肩をすくめてそう返すと、沙耶香は目を細めて俺を睨む。でもその目の奥は、ちょっとだけ笑っていた。俺もなんだかおかしくなって、ふっと吹き出してしまう。
一週間が終わっても、俺と沙耶香の"戦争"は続いていくだろう。たぶん、これからもずっと。
――つづく。
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