金曜日
金曜日の朝が、静かにやってきた。
勝負の最終日――のはずだった。けれど、俺の足取りはどこか重く、たった一人で何の策もないまま登校していた。
教室に着いても、特に何かをしてやろうという気力は湧いてこない。気合も、執念も、どこかに置いてきたみたいに。
昨日の階段での出来事が、まだ頭の中でくすぶっていた。特に、あの瞬間の沙耶香の顔――あれがどうしても忘れられなかった。
頬を染めて、目を伏せて、言葉を探すように立ち尽くしていた、あの姿。
今まで何度も見てきたはずの沙耶香とは、まるで別人みたいだった。
それを思い出すたび、なんとなく胸がざわついた。昨日までは、ただの勝負だったはずなのに。
沙耶香はというと、いつものように教室の自席に座りながらも、ちらちらとこちらを気にするように視線をよこしていた。
どこか、思い詰めたような顔。
俺の様子がいつもと違うことなんて、あいつに見抜けないはずがない。もう狙われていないことも、とっくにわかっているだろう。
それでも、何か言いたげな顔はしても、机の端に手を添えたまま、口を開こうとはしなかった。
***
その日の放課後、俺はいつもより早く教室を出た。
沙耶香を待つこともなく、一人で校門へ向かう。誰とも目を合わせず、誰とも言葉を交わさずに。
それは、つまり――勝負を投げたということだった。けれど、もうどうでもよかった。一日中、ぐるぐると考え続けて、ようやく気づいたのだ。俺がどうして、あれほど執着していた沙耶香のパンツに、もう興味が持てなくなったのかを。
夕焼けに染まる坂道を、足早に歩いていると、不意に背後から名前を呼ばれた。
「ねえ……颯太!」
思わず振り返る。そこには、息を切らしながら走ってくる沙耶香の姿があった。
制服のリボンが風に揺れている。あいかわらず短いスカート。でも、今の俺は、そこに目を奪われなかった。
なぜだろう。今はただ、その表情だけが、気になっていた。
沙耶香は、じっと俺の顔を見つめていた。何かを探るように、何かをこらえるように。夕陽の光が横顔を淡く照らしている。
しばらく沈黙が流れたあと、沙耶香は小さく息を吸い、迷いを帯びた声で言った。
「……いいの? 今日が最終日だよ? 私たちの、あの賭け」
その問いかけに、俺は少しだけ目を伏せてから、ゆっくりと答える。
「もういい。……やっぱり、沙耶香のパンツなんか、見たくない」
それは、偽らざる本音だった。ただの賭けだったはずだ。勝ち負けを競って、くだらない意地を張って、笑い話になるはずだった。でも、もうそういうんじゃない。俺の中で、もう“それ”は終わってしまっていた。
再び歩き出そうとしたとき、沙耶香が素早く前に回り込んでくる。
「……なんでよ!」
声が少しだけ震えていた。
「昨日まで、あんなに必死だったじゃない。バカみたいに追いかけて、変な作戦まで立てて……あれだけ見ようとしてたのに、なんで……なんで急に興味なくなっちゃったの?」
その声の奥にあるものに、俺は気づいてしまった。“パンツ”なんかじゃない。まるで――「なんで、私に興味がなくなったの?」と、そう言われた気がした。
沙耶香の目には、いつもの勝ち気な色がなかった。代わりに浮かんでいたのは、不器用な寂しさのようなものだった。
俺は、一度息を整えてから、ゆっくりと言葉を探した。
「なあ、沙耶香……お前、本当は……パンツ、見られたくなかったんだろ?」
自分で口にしておきながら、思わずバツが悪くなって、慌てて言葉を継ぎ足す。
「いや、もちろん、誰だって見られたくないのはわかってるよ。でもさ、あんな賭けまで持ちかけるくらいだから……ちょっとくらいなら、大丈夫なのかと思ってたんだ。どこかで、そう思い込んでた」
沙耶香は、何も言わずにこちらを見ていた。目も逸らさず、ただ、黙って。
「でもさ、昨日……階段で、あのときのお前の顔を見て、気づいたんだ」
俺はふと目を逸らし、鼻の頭をぼんやりとこすった。
「……本当は、嫌だったんだよな。恥ずかしくて、怖くて。見られるなんて、冗談でも耐えられなかったんだよな」
自分でも、どうしてここまで真剣に話してるのかわからなかった。だけど、言わなきゃいけない気がした。
「考えればわかることなのにさ。俺、ほんとバカだから、昨日までまったく気づけなかった」
その言葉と同時に、俺はもう一度、沙耶香の目をまっすぐ見た。夕暮れの光が、その瞳に映り込んでいた。
「……俺は、沙耶香が嫌がることはしたくない」
はっきりと、ひとつずつ言葉を置くように、ゆっくりと続ける。
「もし、お前が本当に、誰にもパンツなんて見られたくなかったなら――俺は、見ない。見ないって決めた」
静かだった風が、一度だけ髪を揺らした。
「……だから、俺の負けでいいよ」
沙耶香は一瞬、視線を落とした。長いまつげが伏せられ、唇がわずかに震えているのが見えた。
だがすぐに顔を上げ、まっすぐこちらを見据えて言った。
「それは、そうだけど……そうじゃないのよ」
意味がわからず、俺は思わず首を傾げる。
「え?」
沙耶香は、ぐっと眉を寄せたまま、少しだけ語気を強めた。
「そりゃあ、パンツなんて見られたくないに決まってる! 恥ずかしいよ、当たり前でしょ、女の子なんだから!」
そこで一度言葉を切り、息を整えるように間を置いてから、沙耶香は声を落とした。
「……でも、それでも。恥ずかしいけど、それでも颯太だったから……別に、いいかなって思ったの」
その言葉に、俺の思考が一瞬止まった。
……今、なんて言った? 俺にだったら、パンツを見られても……いい?
「で、でも……それって……」
うまく言葉が続かない俺を前に、沙耶香は顔を逸らしながら、めずらしく歯切れの悪い口調でぽつりと続けた。
「もちろん、自分から見せるつもりなんて、ぜんっぜんないけど。でも……なんかの拍子に、見られちゃうくらいなら、颯太だったら……まあ、別に、いいかなって……それだけ」
かすれるような声。でも、はっきり聞こえた。その瞬間、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「私が知りたかったのはね、颯太が――私のパンツを“見たい”と思ってるかどうかってことだったの!」
沙耶香の声が少しだけ上ずる。頬は、りんごみたいに真っ赤だった。
「……え?」
あまりに不意打ちで、情けないほど間の抜けた声が出た。
「だって、前に“人による”とか言ってたじゃん。見たい相手と、そうじゃない相手がいるって。じゃあ、私はどっちなんだろうって……私のこと、そういうふうに見てるのかなって……気になったのよ……!」
顔を真っ赤に染めたまま、沙耶香は絞り出すように言った。
「ねえ、颯太……私のパンツ、見たいの?」
沙耶香が、掠れた声で問いかけてくる。答えなんて、もう決まっていた。
別に、やましい意味じゃない。名前も知らない、誰かのパンツとも違う。俺は、沙耶香のパンツが見たいんだ。
「俺は……沙耶香のパンツを――」
見たい。言いかけた、そのときだった。
「や、やっぱり恥ずかしいから、なし!」
沙耶香が突然そう叫び、踵を返して駆け出した。一瞬、呆気にとられた俺の目の前で、沙耶香は道路に向かって一直線に走っていく。そして、同時に気づいた。
――前方から、車が来ている。
「バカっ! 沙耶香!!」
叫びながら、全身が勝手に動いていた。俺は一気に距離を詰め、沙耶香の体を抱き寄せた。そのまま、彼女を押し倒すようにして道路の反対側へ転がり込む。
直後、車が何事もなかったかのように、俺たちの背後を通り過ぎていった。息が荒い。心臓が、バカみたいに暴れている。
「いたた……」
「危ねーだろ、バカかお前!」
気づけば俺は、倒れ込んだ沙耶香の上に覆いかぶさるような格好になっていた。地面に打ちつけた肘がじんと痛むけれど、それ以上に心臓が、跳ねるように騒がしい。
沙耶香は、どこかばつの悪そうな声で言った。
「ごめん……なんか、急に恥ずかしくなっちゃって……」
「だからって、いきなり道路に飛び出すなよ! おい、怪我してないか?」
そう言いながら、俺は半身を起こし、沙耶香の体を確認しようと目を落とす。
――その瞬間、俺の体がぴたりと止まった。視界に、決して見てはいけないものが飛び込んできたからだ。
沙耶香も異変に気づき、目線を下に向け、あっと驚いた顔になる。
沙耶香のスカートは。くるんとめくれあがっていた。
もう本当に、天地が逆さまになったんじゃないかってくらいに、完璧に。風でもなく、偶然でもなく、ただ物理的に“そうなってしまった”感じで。
そしてその下に、何物にも遮られることのない小さな布地が、無防備にそこにあった。
沙耶香の、パンツだ。
「い、いやああっ!」
沙耶香が悲鳴のような声を上げる。
「だ、だめ、見ないでっ!」
叫ぶようにそう言われたけれど、俺の頭はもう処理能力を完全にオーバーしていた。
耳には届いていたはずの声も、どこか遠くに聞こえるだけで、俺の視線は、ただただそこに、釘付けになっていた。
目の前にあるそれは、小さな三角形の布地。普段は絶対に見ることのない、秘密の領域。
そして俺は、思わず息を呑んだ。
なんだこのデザイン――。真っ白な生地に、ぽつりぽつりと点在する赤い模様。それは、小さくて可愛らしい、けれど妙に主張の強い果実だった。
……苺。
沙耶香のパンツには、苺の柄が散りばめられていたのだ。一瞬、頭が真っ白になった。目の前の光景に、俺の理性は言葉を失った。
沙耶香は、苺パンツだったのだ。
「ああん……」
秘密を暴かれた沙耶香は、恥ずかしそうに声を上げる。俺は続いて、パンツに隠された、沙耶香という存在そのものを凝視する。
柔らかな曲線を描く太ももは、膝から付け根にかけて滑らかに伸びていて、思わず呼吸を忘れるほどだった。白く、きめ細かな肌は、どこまでも均質で、男のそれとはまるで別の生き物のように整っている。
そして、その中心。男には必ずある“あれ"が、そこには存在しない。ただ自然に、当たり前のように、淡く収まっているその場所が、どうしようもなく神秘的に見えた。それはいやらしさとは少し違う、ただただ圧倒的な違いとして、俺の目を惹きつけた。
思考がうまく回らない。目を逸らさなければと思いながら、どうしても逸らせなかった。沙耶香が女の子であるという、その事実が、苺の柄よりもはるかに鮮やかに俺の胸に刻まれていった。
「ねえ……っ、見過ぎだってば!」
沙耶香の声が震えていた。次の瞬間、俺の胸を両手で思いきり押し返す。
バランスを崩して、俺は無様に尻餅をついた。アスファルトの冷たさがじわりと染みる。でも、それでも――目を逸らすことができなかった。
彼女の苺柄の下着が、鮮烈に視界に焼き付いていた。
沙耶香は慌ててスカートの裾を直したものの、もはやその仕草に意味がないことを、彼女自身が一番よくわかっているようだった。
その顔は真っ赤で、悔しさや恥ずかしさや、たぶん別の感情もぐちゃぐちゃに混ざっているように見えた。
「……バカ」
ぽつりとそう呟くと、彼女はその場をくるりと背を向けて、早足で去っていく。
俺はただ、ぼんやりとその背中を見つめているのだった。