木曜日
木曜日、四日目。依然として成果は、ゼロだった。
今日も沙耶香のスカートは相変わらず短かった。絶妙なラインを保ったまま、ひらひらと揺れては俺の理性を試してくるくせに、その内側には一歩も近づけない。どこまでいっても高くて遠い、見えそうで見えない壁。くそ、どんなバリアだよ。
もうこうなったら、いっそ“スカートを脱ぐ瞬間”を狙えばいいんじゃないか。そう思って、体育の時間、女子の更衣室近くで“偶然を装って”うろついてみたのだが――まあ、案の定、見つかった。
「久我、お前またか」と先生に腕をつかまれた瞬間、俺は何か大切なものをひとつ落とした気がした。
なんか最近、沙耶香のパンツのために、いろんなものを失っている気がする。信頼とか、名誉とか、校内での生存権とか。
だが、もう悠長に構えてはいられなかった。期限は“一週間”。だが、そのうちの土日には学校がない。つまり、沙耶香と自然に顔を合わせられる機会は、金曜日が、実質的なリミットだ。この木曜日さえも、無駄にできる余裕はどこにもなかった。
放課後、俺は一縷の可能性を信じて、沙耶香の後をつけた。廊下を行く後ろ姿、揺れるポニーテール、そして例の、どうしようもなく短いスカート。
……たぶん、気づかれてる。
いや、間違いなく気づいている。あいつの性格を考えれば、俺の視線にも、足音にも、とっくに気づいているに決まってる。
それでも沙耶香は、立ち止まらず、振り返りもせずに歩いていた。まるで、「ついてくればいいじゃない」とでも言いたげな背中で。
俺がどんな手を使おうと、どうせ何も得られない。そんなふうに高をくくっているのだ。だからこそ、意地でも見なきゃいけない。
しかし、沙耶香はそのまま帰ろうとはしなかった。
彼女が迷いなく足を向けたのは、生徒会室。俺は、少し離れた廊下の曲がり角から、その様子をじっと見つめていた。
扉が開く。中から顔を出したのは、昨日のアイツ――桜井だっけ?。やたらと女受けのいい、あの生徒会のエースだ。
「やあ。よく来たね。案内するよ」
そう言って、桜井はにこやかに沙耶香を迎え入れる。その笑顔がどうにも鼻につく。あんなの、わざとに決まってる。
扉が閉まり、ふたりの姿が見えなくなった。俺はそっと近づき、生徒会室のドアの前に耳を押し当てる。
中からは、かすかな話し声。ふたりで何かを話しているのは確かだ。でも、内容まではわからない。聞き取れない。壁一枚が、まるで音を遮る結界みたいに感じる。
くそ……中で、何が話されてる?
何を――どんな顔で――沙耶香は笑ってる?
いや、違う。ちがうちがう。これはあくまで、パンツのための作戦行動であって、沙耶香のことを気にしてるわけじゃない。誤解されちゃ困る。俺は別に、心配してるとか、そういうんじゃ……。
「……何してるんですか?」
不意に背後から声がして、俺は文字どおり跳ね上がった。
振り返ると、そこにはまだ幼さの残る顔立ちの男子生徒が立っていた。おそらく下級生だろう。首をかしげながら、怪訝そうにこちらを見ている。
……まずい。完全に見られた。
とはいえ、今のところ通報されるような雰囲気ではない。まだ間に合う。俺は努めて平静を装い、作り笑いを浮かべて言った。
「あー、いやいや。ちょっと知り合いがさ。生徒会室に用事があるって聞いてて……なんか、届け物があってさ。うん」
我ながら苦しい。だが、下級生はそれ以上詮索する様子もなく、淡々と口を開いた。
「ああ、体育祭の手伝いで呼ばれてた人ですかね。たしか、終わるの17時くらいですよ」
……は?
俺は一瞬、耳を疑った。今はまだ、四時ちょっと過ぎ――つまり、あと一時間近く、この前線に張りつく必要があるということか。
「まじかよ……」
思わず頭を抱える。そのとき、横で下級生が何の気なしに生徒会室の扉に手をかけた。俺は慌てて身を翻し、すぐそばのロッカーの陰に飛び込む。
頼む、バレるな。生徒会室の前に張りついてた理由が「パンツを見るため」なんて、絶対に知られてはならない。俺の社会的生命が終わる。
……いや、もう少し正確に言うなら、「意地でパンツを見なきゃならなくなった男の悲しき戦い」なんだけど。事情を話しても、誰も理解してくれないだろう。
息を潜めながら、俺はちらりと壁の時計を見た。
あと――五十八分。
戦いは、まだ続くようだった。
***
沙耶香が生徒会室から姿を現したのは、予定どおり時計の針が17時をわずかに回った頃だった。
その瞬間、俺の全身から、ずるりと力が抜けた。どれだけ待っていたか――いや、わかっていた。けれど、実際に扉が開くまでの一分一秒が、永遠みたいに長かったのだ。
出てきた沙耶香は、いつもどおりの制服姿。だけど、あの柔らかく解けたような表情を見た瞬間、俺の目にはなんだか眩しく映った。
……女神かと思った。
違う、違う。違うってば。単に疲れてるだけだ。一時間近く隠れてたせいで幻でも見たんだ。間違っても“そういう意味”ではない。……ないはずだ。
沙耶香のすぐ後ろには、さっきの下級生が、段ボールを二つも抱えてついてきた。見るからに重そうなそれを器用にバランスを取って運びながら、まるで当然のように彼女のあとを歩いている。
さらに、その背後。生徒会室の扉から、もうひとり顔をのぞかせたのは、桜井だった。あの、爽やかすぎてむかつく生徒会の顔面代表。
「今日はありがとうね、一ノ瀬さん。……さっきの話、今度、答えを聞かせてね」
その言葉に、沙耶香の頬がふわりと紅潮した。口元には、どこか照れたような笑み。その様子に、俺の心臓が思わず跳ねた。
なんだよ、“さっきの話”って。なんだよ、その顔は。いつもの生意気な沙耶香じゃなかったか? おい、嘘だろ。
俺は思わず物陰に身を縮めながら、耳をそばだてた。だが、もうそれ以上の言葉は届かなかった。
沙耶香は、生徒会室を出たあともすぐには帰らなかった。例の下級生と並んで、何やら話しながら廊下を歩いていく。
俺はこっそり距離を詰め、二人の会話が聞こえるくらいの距離まで忍び寄った。
「ねえ、その荷物、どこまで運ぶの?」
沙耶香の声は、いつもより少し柔らかかった。
「えっと……一階の倉庫と、二階の体育準備室です」
「え、二か所も? そんなの大変じゃない。私、どっちか持ってあげるよ」
そう言って、彼女はさりげなく段ボールに手を伸ばす。下級生は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です! 女性に持たせるなんて、そんな……」
「いいの、そんなの。私、力にはそこそこ自信あるんだから」
沙耶香は笑って肩をすくめる。言葉だけじゃなくて、その仕草まで、どこか優しさが滲んでいた。まるで、初夏の風みたいに。
……なんだよ。
思わず、心の中でつぶやいた。
俺にはあんな顔、見せたことないくせに。それが、なんであの下級生には、そんなに優しくできるんだよ。
胸の奥が、妙にざらついていた。イライラというよりは、もっと形のない、じっとりした何かがまとわりついてくる感じ。
俺は足を止め、ほんの少し距離をあけたまま、二人の後ろ姿を黙って見つめていた。
「じゃあ、二階は任せてね」
沙耶香はそう言い残し、下級生と別れた。腕には、あの大きな段ボールがひとつ抱えられている。重そうに見えるのに、彼女は平然とした足取りで廊下を歩いている。
俺はというと、もはやパンツを狙っているのか、沙耶香の表情を読み取ろうとしているのか、自分でもよくわからないまま、その背中を追っていた。
そして、ふと気づく。
……ん? 二階?
それに、あの荷物を持ったまま?
俺の中で、何かがかちりと噛み合った瞬間だった。それと同時に、沙耶香がぱっとこちらを振り返る。
突然の動きに反応できず、俺はバッチリ、目が合ってしまった。完全に不意打ちだ。ごまかす間もない。
けれど、奇妙だったのはその沙耶香の表情だ。
怒りでも、呆れでもない。そこにあったのは、明らかに――焦り。
そして沙耶香が、ばっと駆け出した。
その一瞬の動きに、俺の心臓が跳ね上がる。反射のように、俺もあとを追う。何も言わず、ただ沈黙のまま――でも、確かに二人とも、同時に悟っていた。
二階に上がるには、階段をのぼらなければならない。しかし、沙耶香の両手は、段ボールで塞がっている。そう、つまり――スカートの裾を抑えることができない。パンツを守る術が、彼女にはない。
あの短いスカート。軽やかに揺れていた、いつもの制服。これまで幾度となく階段でも覗き込もうとしてみたが、沙耶香は毎回、寸分違わず手でガードしてきた。完璧だった。
だが今、彼女の手はふさがっている。俺の視線から守る盾はない。
パンツが、見える――そう確信できる、初めての瞬間だった。
今しかない。
まさに千載一遇。奇跡のようなタイミング。
これを逃せば、きっともう二度と、この戦に勝つことはできない。
沙耶香が階段の下に足をかけ、ぎこちない足取りで駆け上がっていく。両手は段ボールで塞がれたまま、バランスをとるのがやっとの様子だ。
その姿を、少し離れた廊下から見ている俺の胸が、高鳴る。
スカートが――危ない。
遠目に見ても、それは明らかだった。慌ただしい動きにつられて、布の裾がいつも以上に捲れ上がり、白い太ももが大胆にあらわになっている。いや、もはやあれは太ももという領域を超えている。あと少し、下から覗き込めればーーパンツだ。
階段という名のステージは、登る者にとっては脅威であり、下にいる者にとっては好機そのもの。
向こうが高く上がれば上がるほど、こちらには角度という名の“神の視線”が与えられる。これまで数えきれない敗北を味わってきた俺にとって、今この瞬間は、まさに天が与えた最終決戦の舞台だった。
俺が階段下にたどり着いたとき、沙耶香はちょうど中間の踊り場で折り返しに差しかかっていた。
――勝負だ。
ここから先、どちらが先に階段を駆け上がるか。すべては、それにかかっている。もし俺が先に踊り場を越えて見上げる位置に立てれば、その先に広がるのは――そう、勝利の光景。沙耶香のパンツだ。
走った。いや、駆けた。風よりも速く、雷よりも鋭く。もはや俺は、階段を上るために生まれてきた存在なのではないか。そんな謎の使命感が、全身に電流のように走る。
一方の沙耶香は、明らかに苦戦していた。段ボールを抱えた両手が、バランスを取ろうとして左右に揺れている。もともと運動能力に性差はあるのに、その状態ではスピードなど出るはずがない。
追いつける――いや、追いついた。
俺は踊り場へと飛び込む。勢いのままに視線を上げる。視界の先には、まだ階段を登っている沙耶香の背中、そして、その、すぐ下にあるスカートの裾。
ひらり、布が持ち上がる。短いスカートは、守りの術を持たぬまま、彼女の動きに合わせて揺れていた。
あと一歩。もうほんの一段。そこには、俺の執念と、敗北の歴史をすべて帳消しにする輝きが待っているはずだった。
俺は息を止め、視線を定め、沙耶香のスカートの下にその瞬間を、捉えた。
そう思った、まさにそのとき。俺はその眩しさに、思わず目を閉じた。
夕陽だった。西の窓から射し込んできた、濃いオレンジ色の光。ちょうど俺が顔を上げたその瞬間、一直線に瞳を刺してきた。
「……ぐっ」
小さくうめきながら、まぶたの裏で光の残像が爆ぜる。視界が滲んで、現実の輪郭がしばらく戻ってこない。もどかしい数秒ののち、ようやく目を開けた俺の目に映ったのは――
階段の頂点。逆光の中、光を背にして立つ、沙耶香の姿だった。その顔が、こちらを見下ろしている。
「……み、見た?」
声は、いつもよりずっと細かった。震えていた。強がりでもなく、皮肉でもない。あれほど勝気だった沙耶香の顔に、初めて見るものが浮かんでいた。
頬が真っ赤だった。いや、それどころか耳の先まで赤く染まっていた。大きな瞳には、うっすらと涙の膜のようなものが浮かんでいて――まるで、別人のようだった。
あの沙耶香が、こんな表情をするなんて。
俺はその顔に、面食らった。心臓が不意に一度、大きく跳ねた。どきり、というより、ずしん、という鈍い痛みのような衝撃。
なんだよ、その顔。何を、俺は――。
気づけば、唇が勝手に動いていた。
「……見えなかった」
それは、嘘じゃなかった。確かにあの一瞬、俺の視界に何かが映った気もする。けれど、それが何だったのか、確かな形はもう残っていなかった。光が、すべてを塗りつぶしてしまった。
「……ほ、ほんとうに?」
沙耶香の声は、揺れていた。恐る恐る、確認するように。
「……ああ。まぶしくて、何も見えなかったよ」
その言葉に、沙耶香はふっと息を吐いた。胸をなで下ろすように、少しだけ肩を緩めた。
けれど、俺はと言えば――唇を、ぐっと噛みしめていた。悔しい、という感情だったのかどうかも、よくわからなかった。ただ、胸の奥が、ひどく騒がしかった。
勝てなかった。けれど、それだけじゃない。俺は今、何かもっと大事なものを、取り逃がした気がしていた。