水曜日
「……今度は、なにしてるのよ」
冷ややかな声が、頭上から降ってきた。目を開けると、逆光の中に沙耶香の顔がある。制服のスカートが揺れて、その下の脚がピタリと止まっていた。
彼女は、教室の入り口に立っている。けれど、その先に進まない。進めない。なぜなら、今――俺が教室のドアの真ん前で、仰向けに寝転がっているからだ。
そう、これは計画だった。
今日は、沙耶香よりも早く登校した。そして、教室の入り口に身を横たえたのだ。まるで人間のフロアマットのように。ただひとつの目的のために。
この入り口は、教室へ入るためのたったひとつの通路。俺を跨がなければ、沙耶香は教室に入ることができない。そうすれば――その瞬間、俺の視界に晒されるのだ。沙耶香のスカートの奥、ふだんは絶対に見せないあの布地が。今こそ開陳されるのだ。
完璧だ。思いついたとき、自分の天才ぶりに鳥肌が立った。
沙耶香は足を止めたまま、しばし沈黙していた。その視線が、刺すように俺に降り注いでくる。俺は何食わぬ顔で、天井を見つめながら言った。
「おはよう、沙耶香。……どうぞ、遠慮なくお通りください」
「……」
彼女の溜め息が聞こえた。次の瞬間、俺の顔面に何かが飛んできた。
「うわっ!」
鈍い衝撃と共に、鼻の奥に懐かしい布の匂いが広がる。すぐにわかった。俺のスクールバッグだ。さっき横に置いていたやつが、俺の顔面に全力で投げつけられてきたのだ。
……そして、その直後。
「ぎゃああああっ!!」
頭に衝撃が走る。バッグの上から、ずしんと重みがのしかかった。沙耶香だ。俺の顔面に見事なヒールキックを決め、そのまま躊躇なく教室へと足を踏み入れていく。
たぶん、いや、確実に――今この瞬間、俺の頭上には沙耶香のパンツがある。そこにある。あって、しかるべきだ。
だが見えない。何も見えない。
スクールバッグが邪魔だ。俺の視界を、可能性を、すべて塞いでいる。しかも、踏まれているせいで息もできない。というか、めちゃくちゃ痛い。
「な、何すんだよ!」
這うようにして身を起こし、教室へと向かう沙耶香の背中に向かって叫ぶ。けれど彼女は振り返りもしない。ただ、スタスタと自席に向かいながら、いつものように涼しい顔をしていた。
そのとき、不意に別の女子の声が後ろから響いた。
「ちょっと……久我くんって、もしかして変態?」
俺は背筋が凍りついた。うそだろ……今の、見られてたのか? いや、そりゃそうか。今は登校する時間だもんな。他の女子生徒からしたら、みんなのスカートを覗こうとしているようにしか見えないよな。あはは。どう取り繕っても、もう無理だ。
「先生、教室の前に変な人が寝てます」
……は? 俺は跳ね起きた。振り向いた先、非難の目を向ける女子生徒たちの向こうに、担任の先生が立っているのが見えた。
「いや、これは……。違う! 違うんです!」
先生は俺の弁明に耳を貸すこともなく、ずるずると職員室へ引っ張っていく。そんな様子を、沙耶香がどこか遠巻きに眺めているのだった。
***
「……くそー。なんでこんなことになるんだよ」
午前中いっぱい、職員室でたっぷり説教を食らった俺は、ようやく教室へと解き放たれた。別に何か壊したわけでも、誰かに迷惑をかけたわけでもない。ただ、床に横になっていただけじゃねーか。……まあ、ちょっと場所は悪かったかもしれないけど。
肩を落として教室のドアを開けた瞬間、空気の温度がひとつ下がった気がした。女子たちの視線が、針のように突き刺さる。きっと、さっきの「事件」のせいだ。見なかったことにしてほしい。忘れてくれ。頼むから。
俺は居心地の悪さをごまかすように、とぼとぼと自席に向かった。そして、ふと顔を上げ、思わず足を止める。
……誰だ、お前。
そこに座っていたのは、俺じゃない。俺の机に、他の誰かが、当然のような顔で腰かけていた。
「そう。だから一ノ瀬さんに、手伝ってほしくて」
その男は、爽やかな笑みを浮かべていた。整った顔立ちに、無駄のない所作。ああ、知ってる。生徒会の、あいつだ。名前は……忘れたけど、とにかくいつも女子たちに囲まれていて、笑顔を向ければ誰もが頬を染める、そんな“選ばれし者”だ。……気に食わない。
そいつは俺の存在になど目もくれず、隣の沙耶香――いつも俺に毒舌を浴びせる幼馴染に、やけに柔らかい声で話しかけていた。
「私でよければ、いつでも力になるわよ。……じゃあ、明日ね」
沙耶香が軽く微笑んでうなずく。穏やかで、どこか親密さすら感じさせる空気だった。男は満足そうに立ち上がり、軽やかな足取りで教室を出ていった。その背中を、俺はただ呆然と見つめるしかなかった。
……なんだよ、あれ。なんで、俺の席に座って、沙耶香と話して……。
言葉が出ないまま、俺はゆっくりとスクールバッグを机に置き、椅子を引いた。
「あら、てっきり停学にでもなるかと思ったのに。残念だったわね」
すぐに、沙耶香がいつもの調子で刺してくる。俺はその挑発をやり過ごすように、机に肘をついたまま低い声で切り出した。
「……なあ、さっきのアイツ。なんなんだよ」
沙耶香は、きょとんとした顔で首をかしげる。
「桜井くんのこと? 生徒会の仕事で人手が足りないから、手伝ってくれって頼まれただけよ」
その答え自体は、特にどうということもない。ただ、沙耶香がそれを言うとき、どこか嬉しそうに目尻を緩めていたのが――どうにも気に食わなかった。
「……でもお前、生徒会でもなんでもないだろ」
「そうだけどさ、なんか“まじめで信頼できて、周りからの評判もいい人”に頼みたいんだって」
そう言って、沙耶香は少し照れたように笑った。軽く肩をすくめるその仕草が、妙に“女の子”っぽくて、またもや胸の奥がざわついた。
「だからって、別にお前じゃなくてもいいだろ」
思わず口をついて出た言葉に、沙耶香はくすっと笑う。
「でも“できれば一ノ瀬さんに”って言われちゃったんだもん。仕方ないじゃない」
沙耶香ははしゃぐように笑っている。俺の中で、どうにも収まりのつかないもやもやが、静かに膨らんでいく。
……そうなのだ。認めたくはないけれど、沙耶香は見た目がいい。愛想のないくせに、どこか整った顔立ち。大きな瞳に、すらりと伸びた手足。背は高めだけど、女の子らしい丸みもちゃんとあって、見るたびに少しだけ、ドキッとする。どこか他人を寄せつけないようでいて、笑うと意外と親しみやすい。
噂では、校内に“隠れファン”がいるとも聞いたことがある。成績もいいし、先生たちからの評価も高い。……そりゃ、生徒会が目をつけたって、おかしくはない。
わかってる。理屈では。でも――わかりたくないのだ。そんなふうに、沙耶香が誰かの“特別”に選ばれることが。
俺は目を伏せ、ため息をついた。
「……ふーん。そうなんだ」
そう呟いた自分の声が、やけに小さく聞こえた。