68 もえている
小さめ規格の6畳の畳部屋。
陽は話を続ける。言いにくそうに。
「…………尚香さんさ、何年か前に仕事で愛知県に来て………そのまま一度、行方不明になったんだよね……」
「?………」
章はまた陽の方を見る。
「東京の人から……連絡が入って、サンサンハウスの方に来てないかって。2日前に遊びに来て、その日に帰ったはずって言ったら、加藤さんって言うんだけどすごく焦ってて。」
「…………」
「変な気を起こしたんじゃないかって、電話越しで泣いてて。」
章、信じられない。
「みんなで必死に探してたんだけど、警察呼ぼうって時に、うちの園長が心当たりのある場所を思い出して、そこに行ったらいたんだ………」
『お父さんお母さんと行ったみたいだね』と、昔、園長が尚香に教えてくれた海岸の駐車場だった。尚香が施設に来た時に、その近辺のかわいいお土産のキーホルダーを持っていたからだ。尚香にその頃の記憶はほとんどない。
ただ一つを除いては。
「海の方の駐車場で見つかったんだけど、車内泊してたのかな……。全貌は分からないけど、ずっと一人で山やいくつかの場所に行ってたみたいで………」
「…………?!」
なんだそれ。
急にあまりにも飛躍した話をされて、章も戸惑う。
「その辺のこと、なんも知らないの?」
「……結婚がダメになったこと?」
「……………。章、尚香さんと会ってどのくらい経ったんだ?」
「……今年の7月の……初め頃……かな………」
「は?!まだ、4か月くらいやん!!」
驚かれる。そんな関係で身内みたいな顔をしてここまで来たのか。
自分も驚く。4か月なのか。もう1年ぐらいは経った気がする。
章には分からない。
自分の知っている尚香と、陽の語る数年前の尚香が一致しない。
章の知る限り、尚香は結婚が上手くいかないからと、周りを翻弄させてまでそんな大事をするように思えない。鬱だったのだのだろうか。
「まあいい。尚香ちゃんがなんも言ってないならもういい。」
今度は陽が横の布団に転がる。客の布団はいくつもないので、子供たちが小さい頃の背丈にあわない布団を敷きバスタオルを腰に掛けているだけだ。
そしてあれこれどうでもいい事を話していると、
「KOUが眠れないし!!」
と、星南に叱られて陽は寝室に連れて行かれた。
章は考える。
恐ろしの芸能事務所の社長に理論で食って掛かるような人が、モラハラ男に振られたからとなんだというのだ。自分もかなりアウトな人間らしいが、尚香はそれにも全然めげていないバイタリティーの持ち主だ。
そして、あの美香さんが泣いていた?そんな人には見えない。
もしかして暴行を受けたとか………?
分からない。
もしそうだとしたら、尚香は政木たち大勢の前で、そんな男と付き合っていたという話すら出さなかった気がする。
…………。
全てが違うパズルの、バラバラなピースのようだ。
それが全部混ざってしまって、元の形も、全貌も見えない。
運転の疲れもあるが、それ以上に章にとっては新しい人と出会い過ぎて、いつもと違う気も遣い、とても疲れていたのだろう。
いつの間にか眠っていた。
***
バイオリンの音が響く。
早朝の澄んだ朝。
ショパンの音色が天井のない無限の空間に響く。
章にしてはいつもより遅い5時に起き、地方には山などに面した人気のない大きな公園が多いので、そこで少し走ってから、さらにできる限り駐車場から離れた奥に向かう。
朝霧の薄っすらした名残もある中で、章は弓を引く。
湿気っても乾いてもいない朝。
誰もいないかと思ったら、犬を連れたおじいさんがベンチに座って聴いていて、目が合うと手を振られた。
音害にならないようにここまで来たが、章がどんな演奏をしても気にしていないような感じだったのでそのまま続けた。
この公園と、自分と、おじいさんと犬しか知らない朝。
章の音が響く。
弾きながら、ふと思い出した。
『ののさまは、なんでも知ってるんだよ』
後で聴いたら、観音様はあなたのしたことを知っているという意味らしい。
隠し事はできないのだ。行動も、心の底も。自身への戒め。
章は目をつむり、
天に願う。
尚香さんのことを知りたいと思う。
でも、それは知っていい事なのだろうか。
誰にももう、知られたくないことなのかもしれないけれど。
そして、自分のしたことも全て知られている。
バイオリンが上手く弾けないように、
自分が上手く生きているのかは分からない。
だけどどこかで少しでも頑張ったことが、誰かの助けになる形跡になればいいと。
***
「星ちゃん……おはよ。章君は?」
子供の重さに苦しんで目が覚めた尚香。
「おはよ。なんか朝、私が起きたらすぐに出掛けたよ。鍵が掛けれないからって、待ってたみたい。」
「………出掛けた?ランニングかな……。」
「車も出してたけど。」
「車?」
「でも、尚香ちゃん。本当にすごいね~。KOUだよ。功!」
「……そうだね……。すごいよ。あんなに変な人がこの世にいることにびっくりしてるよ……」
「昨日から胸のドキドキが止まらない!」
「………」
尚香も、功とこんな旅行みたいなことをしたと周囲に知られたらと、ドキドキが止まらない。
冷静に考えてみれば、同じホテルに泊まらなくとも結局一つ屋根の下だ。
章は朝6時半には戻って来た。
「章君。朝ごはん食べてね。」
「………いただきます………。」
子供たちも起きていて、章の横で一緒に食べている。パンに子供たちの好きなクリームも塗ってくれた。
「はい、しょうちゃん。」
「ありがと……。」
「とよちゃん、お兄ちゃんはクリームよりハムや卵挟んであげて。」
「いや。」
章はされるがままだ。
「これ、こうかちゃんのね。」
と、上のお姉ちゃんが尚香にも餡バターを作ってくれる。
「章君、いつも言ってるんだけど、よそのお宅におじゃました時は、直接取らないでお皿に取り分けて。」
サラダの話だ。
「いいよ。ウチ、気にしないから。」
星南がそう言うも、「いつも?」と、陽はまたまじまじと章を見る。
しかも声に出ていたらしい。
「いつもって言うか、章君絶対皿洗いとかしないでね。星ちゃん気を付けて。よく割るから!」
「男も家事をしろとか、するなとかほんと尚香さん身勝手なんだけど……。」
「ちいも、おさらあらいするよ!」
「ちいもしなくていいからね~。」
ちいちゃんもことごとく割ってしまうのである。
「…………」
陽はどう捉えていいのか分からない。同じホテルに泊まらないなら同棲をしている訳でもあるまい。家によく遊びに行くのか?尚香の家には両親もいるのに?尚香が男の家に行くようにも思えない。
そして二人は、朝食を食べてそのまま車を出すことにした。
「このICに入れば、行きより早く帰れるから。」
「尚香ちゃん、また来てね!」
「尚香ちゃん、なんかあったら俺でも星南でもいいから連絡してね。」
「うん。」
「………」
車に乗った尚香に声を掛けるも、なぜ後部座席に座るのかと思う。3時間半は運転するのだ。さすがの陽も、高速くらい横に座ってあげればいいのにと思ってしまう。
名古屋に行きたいなら寄るよと章は言ったが、尚香としてはたとえ夕方のライブでも早めに行かないと心配だ。ただでさえイットシーのスタッフに嫌われているっぽいのだ。尚香だって自分が運営側なら、音合わせなどもあるだろうにメインと連絡が取れなかったら非常に困る。今、ここにいることさえ恐ろしい。早く東京に帰らせたい。
下手をしたら、二人で出掛けていたこともあれこれ言われるかもしれない。そういえば土曜日もライブの日ではないのかと焦ったが、別のバンドがその日は一日単独ライブだったらしい。心からホッとする。
みんなに見送られながら二人は、この地を後にした。
長距離を走りながら尚香が一言。
「そういえば章君。私が運転変わろうか。この車、私、運転できる?」
「保険は入ってるけど……。尚香さんが?いいよ…」
「そんなに下手じゃないと思うよ。章君も休んだ方がいいし。」
「………なら俺が隣り座るけどいい?」
「…………うーん。ならダメだな。」
「………」
「尚香さん、起きてる?」
「……起きてるよ。」
「やっぱ付き合おうよ。」
「章君ってそれしか言わないんだねえ……」
「それ以外、言うことないし……。」
「………それしかボキャブラリーがないと、女の子嫌になるんじゃない?」
「尚香さんは嫌なの?」
「……さあ………」
「さあって……。気にならないならいいし。」
「……でもダメだなあ……」
「なんで?ここまで来たら、もう腐れ縁だし?」
「……ダメだよ……。考えてみらたら私、もえてるし。」
「もえてる?」
「もえちゃったらダメでしょ。」
「………?」
「もえにもえたんだよ。あっちこっちからあんなにもえるものなんだって。」
「………………」
「そうだ……。そうだった。章君もやっぱり距離を置いた方がいいよ……。みんなもえちゃうからね………」
「…………」
それ以上、尚香はその話は何も言わないかった。
***
「功!」
三浦が駆けてくる。
「昨日から都内にいなかったってどういうことだ!」
「……?」
土曜に休みなのは珍しいが、普段は休みの時にどこかにいても何も言われない。
「……なんで?」
「もしかして、誰かといたのか?」
「……尚香さん………」
「はあ?」
「でも二人じゃないよ。いろんな人いたし。」
「……功。しばらく気を付けろ。」
「CMと今回のMV出してから、いろんなところで沸いてる。」
「……」
「横で変な話が広まったら、尚香さんの方に迷惑が掛かることもあるからな。まだ反応が分からないから、一旦様子を見るまで大人しくしてろ。」
「………」
元k-popアイドル、ファンでも賛否が二分していた存在。アンチ多し。そして片親が韓国人ということもアイドル時代のファンには知られている。普段は口も悪く不愛想。
再度現れたのはバンド世界。しかもチビッ子が大きくなって戻って来た。
ネットを沸かせるのも、加虐心を沸かせるのにも十分な存在だ。
音楽界隈では既に地盤を固めていても、別の世界の人間まで入り込んでくると難しいこともある。
それに、これまでのアンチは、面白半分でもあった。音楽も人間関係も思い通りに行かなかった功に共感性も持っていたのだ。
沸くこと自体はマイナスではない。でもいろいろ見極めていかなければならない。




