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スリーライティング・上 Three Lighting  作者: タイニ
第八章 夢のまた夢

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61 そこを走り抜けたのに




道子だって、あの時どうすればよかったのかなんて分からない。



正一(しょういち)と洋子の関係も、親子の関係も上手くいっていたのだ。



けれど、だんだん、だんだんと、洋子の周りは洋子の手に負えないものになっていく。洋子が日本語を流暢に話せたのもよくなかったのかもしれない。日本の習慣が分からないということを、周りも理解していなかったのだ。イギリスの常識も人任せだったのに、日本のことなんてさっぱり分からない。



「洋子さん、正一君が仕事を頑張っているのに、家で何をしているんだ。」

「法事に顔も出さないわけ?」


出したら出したで叱られる。

「そんなところでいつも子供と遊んでて、挨拶やお茶出しや片付けの一つでもしたらどうなの?本当はあなたがする仕事を、他の人がしてるんだよ?」

「どうして、お寺さんにご挨拶もできないの!」

「そんな堂々とした体をして、何が不満なんだ?笑うこともできないんか。」

「ちょっとは感謝してほしんだけど。」


「家業を手伝わないならパートでもしたらどうなの。」

「あなたピアニストっていうけれど、真似事のようなものでしょ。何もしていないじゃない。」

「きれいなお手てが汚れるものね。」



「…………」

ほとんどの場合、そう言われても洋子はじっと下を向いていた。言葉が出てこないし、自分がしたくないことできないことを、他の女性たちが代わってしていることはなんとなく分かっていた。子供の葬儀の時の業者や弔いに来てくれた身内のことも、彼らが全部対応してくれたのだ。


そして、いつまでも何もしない大の大人。嫌味の一つでも言いたくなることだろう。


正一の母は、直接何かを指摘したりはしないが、敢えて洋子を助けたりもしない。声を掛けても洋子が何も言わず、俯いてしまうのでどうしようもなかった。向こうも嫌われていると思ったのだろう。



正一もなるべく洋子に家にいるように言うも、365日そんなわけにもいかないし、叔母など自分以外の人間が洋子を連れ出すのでどうしようもなかった。




けれど、そんな洋子の堰を切ってしまったのは、正一の父だった。


「なんであんたは顔も出さないんだ!!」


っ!!?

その叫び声に、縮こまる背の高い女性。




『なんでお前はこんなことも分からないんだ!!』


そう言って、記憶の彼方で教鞭を握る父。

逃げるべきか、大人しく叱られるべきか、洋子の心が揺れ動く。




もともと昔堅気の正一の父であったが、体も会社も子供たちも思い通りにならない苛立ちか、歳か、家業を継いだのに何もしない洋子に怒鳴るようになったのだ。



洋子の記憶の底にあった傷が疼く。





「洋子?」

「………う゛………ぅ」

夜、おかしくなっていく妻。慣れない仕事に、急に濃くなった親戚付き合い。正一も何から片付けて行けばいいのか分からない現状。息子は公立の幼稚園には入れたかったが、洋子には持て余しそうなほど利発な子だったので、高い授業料でも私立の幼稚園に。送り迎えも園とのやり取りも、基本正一がした。




ついに洋子は、人前でもパニックになるようになってしまった。




たくさんのことが、崩れていく。




でも、そんな時に夫婦を助けてくれたのは、まだ小さい、息子の正二(せいじ)だった。


「お母さん、ぼく大丈夫だよ。全部大丈夫。」

「…………」

「お母さんがちょっとおかしくても大丈夫だよ。」

「………うぅ…………」

「大丈夫。ずっとずっと大丈夫。」

「…………ぅぅ…………」




それから二人はもう一度、家庭を立て直そうと、温かい手を絡め合う。




死んでしまった次男はもう空に送ったのだ。

一人で頑張っている正二に兄弟ができたらいいなとも思った。


弟の悲しい記憶に一番耐えてきたのは、長男正二でもあったのだ。楽しみにしていた赤ちゃんが、かわいい棺に入れられて去ってしまったあの日。それを受け入れられない母の痛み。


小さくて何もできないようでも、それをずっと見ていたのだ。




毎日ずっと、ピアノを弾く不思議な母。



それも、全部、全部見てきたのだから。




だから、誰よりも、お兄ちゃんを大切にして、そして強くて、同じように優しい子が生まれてきたら、と二人は願った。





そして、洋子が三度目の妊娠をしたのは、次男が死んでから3年の頃。


うれしさと心配が重なるも、それは朗報であった。妊婦である間は洋子も家で休めるし、しばらくはいろいろ言われないであろう。また子供に何かあったらと怖かったが、正一にはそんな安心もあった。



けれど、今までつわりも軽かったのに、その妊娠で洋子はひどく不安定になる。次男のこともあるが、ここ数年慣れない環境を行き来したのが良くなかったのか。それとも、たまたま三度目はそうだったのか。



手に負えなくなった正一は、頼りたくなかった人に遂に連絡をする。



道子だ。


道子は遅れながら今年大学修士を取るためにずっと勉強や実地に励んでいた。1年さらに他の国にも行っている。



道子が頻繁に日本に来ることがなくなってから、洋子は道子の名を口にしないようになっていた。


でも、今回は「………道子……道子……」と、ずっと泣いている。



妻がどこかに消えてしまいそうで怖くなった正一は、若葉(わかは)に相談したうえで、遂に道子に頼った。




***




「洋子!」

「道子!!」


抱き合う二人。



ホッとする若葉と正一(しょういち)、そして長男正二(せいじ)


正二はその様子をキョトンと見ている。次男が死んでからは葬儀と、その半年後もう一度。そしてしばらくしてあと一度しか来ていない。


「おばちゃんのこと、覚えてるー?」

「おぼえてる。もう一人のお母さん。」

「きゃー!かわいい!!天才ー!」

と、道子は正二をギュッと抱く。




それからは道子がいる間、何もかも上手くいった気がする。



「つわりはひどいの?」

「入院するかしないか言ってたら、少し収まって来て……道子は?」

「私は少し肩とか痛かったり頭痛とかあるけど、それは前からだし………」

「ちゃんと病院に行って!」

「イギリスに戻ったら行くよ。ホームドクターにも掛かってるしから。」

「根詰めて勉強し過ぎないで………。」

「はは、大丈夫。みんなこんなもんだよ。」



つわりが落ち着いた時も沈みがちだったのに、洋子に笑顔が浮かんでいた。





二人は久々に演奏をする。


そして歌う。



二人の楽譜を。



完璧なダブルス。

二人なのか一つなのか分からなくなる、流れるようなアンサンブル。



「…………」

正二がまた目を丸くする。



母一人の時の、重さと鋭さのある演奏と違って、軽くて優しい。



沈んでいたピアノまで喜んでいるようだった。




妊娠5か月過ぎた頃に洋子の調子が戻ると、二人は胎教にもいいだろうと、久しぶりにコンサートをすることにした。イギリスにいた頃の実績と簡単なデモテープを持って道子が営業に出掛け、小さな公民館でのライブやレストラン演奏などに加えてもらう。道子はやはり観光ビザなので、儲けはほとんどないもののゲスト出演という形である。


自分たちのためだけに来る人はいないと思ったが、かつての日本での演奏を覚えてくれていた人たちが、チラシやコンサート情報を見て集まって来てくれる。名も無きファンたちがいたのだ。




久々のデュオなのに、二人は何もかもが一つ。


何年も何年も、毎日毎日練習したかのように、全く違う色が、全てが一致する。



だって、もともと一つだったものだから。



こんなに楽しくて、こんなに幸せで。


一度イギリスに戻り、弁護士にもお願いしビザも改めしばらくの滞在。全部で4か所6回公演。その内3回は正二も同行。若菜や真奈美親子、以前の会社の知り合いも招待し、最高に幸せな時間だった。





「道子、行っちゃうの?」

「ごめんね、洋子。出産前後にまた来るから。」

「………送り迎えできなくてごめんね……。若葉おばさんも、ごめんねって。」

「大丈夫。何があるか分からないから来なくていいよ。」


若葉はその日は家の用事。空港まで送りたかったのにと、家で送り出してくれた。



「道子さん、本当に空港まで車出しますよ。」

「……大丈夫です。」

正一がそう言ってくれるも、道子は地下鉄までで断っていた。




道子は行ってしまう。




そして、道子もみんなにさよならを言う。






昨夜、若葉の家で、道子は若葉に聞かれた。


『ミーちゃん。恋人はできたの?』

『……んー。今は勉強や仕事が忙しいですし。』

『………ほんとに、もう………』


()()()も、好きな人がいたって………本当は違うんでしょ?』

『!』

若葉の顔も見ずに道子は固まってしまう。


『ミーちゃん、責めてるわけじゃないよ。』

『…………』

『ミーちゃんにも幸せになってほしいから………』



しばらく沈黙が続き、道子が若葉を見た。

『……!』


その柔らかで美しい弾むようなブラウンの髪。

その合間から、涙を流す道子の目が見える。


『………ミーちゃん………』

『……あ、ぁ、……私…………私…………』




止まらない。


涙が止まらない。



次々に涙があふれてくる。




幸せだ。すごく幸せだ。


母が死んだとき、こんな幸せが自分たちに見付けられるなんて思ってもいなかった。必死だった。ただ生きることに。出口を見付けることに。




小さな家に閉じ込められた、小さな女の子が出口を見付けるまで。


誰にも捕まらず、あの迷路を抜け出したかった。洞穴を駆け抜け、自分の時間を歩きたかった。




そして、洞穴を走り切って、


そこで見つけた優しい人。




そしてこんなに幸せなのに、


悔しさもない、悲しみもない。たくさんの、胸からあふれ出るような幸せ。



でも、切ない。




『……ばかな子ね…………』

『……ぅ…………』


『…………本当にばかな子…………』

若葉が柔らかいタオルで道子の目から溢れて溢れ出てくる涙をそっと抑える。1度では足りなくて、優しく押さえるのに涙は止まらない。


そしてもう、ギュッと抱きしめる。

『ぅ…ぅ………』



『ミーちゃん。幸せになって……。誰よりも………』





道子は空港に向かう道すがら、ギュッと抱きしめてくれた若葉に感謝しながら。







それからは、誰も予想していなかった。



数人の電話に何度か連絡が入る。






空港で人が倒れたと。


そしてそのままその人は、運ばれた病院で急死してしまったと。









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