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スリーライティング・上 Three Lighting  作者: タイニ
第八章 夢のまた夢

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60 安心も変化も




あれはまだ、結婚して1年も経たない頃。



大きめのベッドの柔らかな布団で、一緒に(くる)まって語る二人。


今まで洋子の手を繋ぐのは専ら道子だったのに、今は全く違う人。不思議だ。




「洋子さんと道子さんは、本当に仲が良かったんですね……」

柔らかい寝間着の上から、厚くて大きな手が後ろから洋子の胴をふわりと抱える。その重さも心地よい。


ふんわり絡ませる、指と指。




正一(しょういち)は、洋子が親からひどい折檻を受けていたことを知っている。体に傷跡はないと言っていたが、まっさらな肌をよく見ると、薄っすら傷が残っていた。


と同時に、こんなに仲のいい姉妹がいるのかと驚く。


お互いにコンプレックスはないのだろうか、疎外感はないのだろうか。依存のようで、依存ともまた違う気がする。



双子にしても、自分の知っている双子はある程度の年齢で逆に距離を取ってしまい、格好も生き方も敢えて違うスタイルをしていた。この姉妹は性格も全然違うし、姿も敢えて揃えている感じではない。雰囲気も色合いも違うのに、いつもお互いのことを考えていて、時々どちらがどちらか分からなくなる。




「……私は道子に迷惑をかけてばかりでしょ?」

「………」

「…だからね、お父さんが怒った時だけは、……私が道子を守ってあげるの。」

洋子が優しく思い起こすように言う。


「道子が痛い思いをするのは嫌だから…………」

少しだけ眉間を歪める。

「お父さんはね、お母さんに怒鳴らなくなってから、道子にも怒鳴るようになったの………。だからね、そういう時は……私は大丈夫だから、道子がどこも痛くないようにするんだ………。体も、心も………」


母が思い通りの主婦にならなかったことに、そのまま自分の前から逃げるようにいなくなってしまったことに納得できなかった父の憤りは、双子に向かう。けれど計算もできない娘と、それなりに優秀でも全部には答えられないもう一人。




洋子は自分に降りかかるあらゆることに敏感だったけれど、世の中には鈍感であった。


道子は気が強いくせに、世の中の全ての痛みに敏感だった。


どこかで誰かの家族が亡くなれば、その人と残された人のために祈り、世の中には今もご飯が食べれらない子がいると知れば、自分の少ないお小遣いを寄付してしまうような子だった。教会の礼拝でそんなことを毎回祈っているのだ。


我が妹ながら、何をしているのか本当によく分からない。



洋子は、小さい頃は世界なんて何も知らなかったし、父と母の関係さえよく分かっていなかった。教会で祈るとかもよく分からないし、今週はお父さんの機嫌が良いようにしてください、自分の食べられるご飯が出ますように、くらいしか祈ることもない。お手伝いのおばさんが何でも食べなさいと意地悪して、洋子の嫌いな食事も出すからだ。



そして、両親の(いびつ)さを知った時にも、それでどうかとかもなく、どうだってよかった。



でも、その頃の洋子が感覚で分かっていたことは、自分に怒りが向いている時は、父は道子に何もしないこと。そして、道子の方がずっと愛を持って愛される人だということだ。

愛が何かなんて分からなかったけれど、道子の手も、道子の笑顔も、洋子にはいつだって胸が苦しくなるほどにうれしくて、大好きで、愛しくて、切ないくて。




「正一さんは知ってる?………あのね、教会の劇で見たんだけどね、神様はいつも『弟』を先に愛するの。」


「……ん……あの話かな?ヤコブとエサウが祝福を交差して………、その子ヨセフに、エジプトで兄たちが頭を下げるまではそうですね。」

人類学を習っていた正一は一応聖書を通読している。


聖書に出てくる双子、兄エサウと弟ヤコブ。そのヤコブの子、11人の兄弟と末っ子ヨセフの物語は知っている。

カインがアベルを石で打って殺して以来、初めて兄が弟に、兄11人が神の知恵を持った末弟に頭を下げたという歴史の幕開けになる。


兄エサウの位置と弟ヤコブの至誠。

この時、やっと、地上に現実の長子が立ったのだ。



「洋子さんも聖書とか読むんですか?」

「礼拝に行かされてたし、………道子が聖書、好きだから………」

好きの基準が全部道子である。



「………だからね、私も道子のすることは全部応援するんだ…………」


「…ステキですね。うちはひどかったんですよ。」

「………ひどい?」

「うちも父がけっこう昔の堅物で。母とはともかく、気の合わない兄とすごくぶつかって。父の機嫌が悪くて怒鳴っても、兄弟みんなそれぞれ自分の殻にこもっていました。弟は部屋から出もしなかったし。」

「……」


正一の父は結婚式の日に会ったが、そんなふうには見えなかった。兄と弟は遠方にいるらしく式に参加していない。正一の姉は来たが、海外に住んでいるためまた仕事に行ってしまった。

「誰も関心なかったんじゃないかな……お互いに。姉は成人した頃にいろいろ取り持ってくれたけど……みんな反応が悪くて……」

「……」

洋子には、他人の家庭の姿など聞いたところで頭で描けなくて、よく分からない。

「私もその関係が良くないと気が付くのに、大学に行くまで分かりませんでした。兄弟で助け合うって、発想がなかったんですよ。あのままじゃだめだって気持ちはあったけれど。ははは、すみません。そんなものです…。」

「…?……」


「洋子さんは、自分がなんでも不足のように言うけれど、そんなことはないです。自分が辛い時や怒りの時に、妹さんの安否や心を考えてあげられるだけでもすごいですよ。」

「………そう?………」



「そうですよ。私は自分のことばかり考えていました。」

と言うと、正一はグッと洋子の腰を引き寄せ、柔らかい髪の間に見える首筋にキスをする。



ふふっ、と洋子はくすぐったい。



そして、二人で合わせた手をお腹に当てる。もう結構な大きさだ。



洋子は、もう怖くない。

この厚い指も、強い手も。


同じ人間なのになぜ父と、正一の手はこんなにも違うのだろう。



きっと私たちは、たくさんの至誠を交差して、自分の知らない道を手にしていくのだろう。




***




……まだ夜の9時前か………。


目の前に広がる満点の夜景。心の中で、道子はしっとり呟く。



道子は以前三人で来たバーで、一人乳白色に水色の混ざったノンアルコールのカクテルを飲んでいた。


洋子に投入していた時間が多かったため、夜はすることがなくなってしまうように感じる。イギリスに戻って大学も卒業しなければならない。


ほっとしたような、さみしいような。


でも、昼間はこれまでも洋子と一緒の時間をよく過ごしていた。ピアノ、バイオリン、ボーカル教室。望めばギターも。趣味で音楽を楽しむ短期生徒を、女性限定で二人で数人見ていた。洋子のお腹が大きくなってきたためもうすぐ教室はお休みだ。



洋子が正一のことで笑うと、安心と切なさで胸が締め付けられる気がする。


なぜ?自分の中で曖昧にしてきたものが、胸をくすぐる。

他の未来があったのかもしれない。


でも、どんな未来があったとしても、正一が断らない限り道子はこの未来を選んだだろう。



ここの夜景がステキなものに見えるのは、洋子が初めて関心を示した光の世界だからだ。


この夜景は全てがキラキラしているけれど、本当の光の下はみんながみんな幸福なわけでもない。洋子が誰も知らないロンドンの片隅で、叩かれながら閉じ込められていたように、東京にもそんな悲しみがたくさんたくさんあるのだろう。


けれど、洋子と見た世界だと思うと、その中にいる誰もが幸せであってほしいと願う。



少し夜景を見てから、ぐびっと残りのカクテルを流し込み、勢いよく立つ。

「よし!」


「うわっ!」

すると、なぜか横に男性がいて、あわわと驚いて去っていった。

「?」

女性一人なのでナンパしようとしていたら、思った以上に長身で驚いてしまったのである。




***




長男の出産、子育ては道子がいなくてもほとんど平気であった。


どこまでも自由な若葉が、ほぼ義母状態で洋子を見てくれたし、真奈美の母や真奈美も折を見ては山名瀬家に遊びに行っていた。二人を知る職場の理解も大きかった。


息子は、お母さんのために生まれてきたのかというほど賢く穏やかないい子で、初対面でなければだいたいどの人にも懐くので、子育てが初めての洋子もどうにか回していけた。





でも二人目の出産で、長い間落ち着いていた洋子の状態が一気に崩れる。




道子がイギリスから会いに来る前に、子供が亡くなってしまったのだ。


原因は分からない。



正一は、亡くなった自分の子供に思いをはせる余裕もないほど、洋子の様子を見ていなければならなかった。




洋子だけでない、みんなあれからどう過ごしたのかも分からない。


夫婦二人とも、お棺のことも、葬儀のことも覚えていない。

正一は、こんな小さな棺があるのかと、思わずその上に涙が落ちてしまった、それだけだった。



道子がしばらく日本に滞在し、洋子を支えた。





そして大変なことは続く。

まるで二人を追うように、


正一の父が体調を崩したのだ。

彼は、戦後に兄弟と知り合いで共に事業を成功させ、それなりの従業員を持つ企業になっていた。しかし、後継ぎがいない。ほとんど家族企業のようなもので、外部の人間が非常に入りにくい状態になっていた。その上、既に事業は時代の波に乗れずにかなり傾いている。


もうこのまま会社を畳む方向で行こうと知り合いの役員が言い、それに激怒した父。長男や三男に戻って来いと言っても、何の連絡もない。娘も戻って来ない。父の兄弟の子供たちには同じく断られる。父の兄弟の二人は既に亡くなっていて、弟の二人が役職にいたが、それでは会社が傾くばかりであった。


従業員たちもいつかはそうなるだろうと思ってはいたが、みな先が漠然としていたし、製作所の商品の代用がまだないメーカーにもしばらくの継続をお願いされるため、従業員たちももう少し頑張りたかった。



そして、その白羽の矢が正一に立ったのだった。



20代で建築事務所に管理を任された実績、他の兄弟たちより話ができ、人当たりもよく性格もいい。



業界も業種も全く違う世界。今の仕事の責任もあるし、落ち着いては来たものの妻の状態も気になる。正一はずっと断っていたが、会社の人間や親戚、様々な人が何度も頭を下げに来て、遂に正一は折れた。


最初に話が来てから半年。



今の建築会社の仕事を整理し、山名瀬の実家によく顔を出すようになる。





それからだった。洋子がおかしくなりだしたのは。



結婚の時に、洋子の性格や状態をよく話し様々な配慮をお願いしていた。けれど、よく理解していなかったのか、彼らも歳をとったのか。洋子に経営者家族の夫人として、なにかと顔も出し、それなりの行動をしてもらうようにと周囲が言い出したのだ。


正一が会社を手伝う上での約束は、正一一家の私生活は変えないということだった。とくに妻と子に関しては。



けれど、実際に変化が始まると、そんなことはみんな忘れてしまったように、あれこれ注文が多くなったのだ。





※エサウとヤコブの物語り。(創世記 26:1~35:29)

旧約聖書の創世記、26章1節から35章29節まで。

兄と弟が交差し、アダムの直系が天使から初めての勝利を得る話。兄弟、姉妹の失敗から成功、協力の仕方までも描かれている。

この前後時代の各親、大人たち、兄弟たちの心の向き方が、この先の人類や民族の方向を決める。




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