59 あなたが優しいから
「いい?洋子、結婚したら慌てないでね。」
若葉の家では敷布団で寝る二人。
道子が見せているのは、妊娠出産の本だ。
「……ねえ、道子。私………こんなことできないよ………」
「あのねえ、みんなするの。」
「じゃあ子供はどうしたらいいの?!」
「どうしたらも何も、こうして子供を作るの!」
「無理!無理だよ!」
「………あのね……、子供関係なく夫婦はこうして身を繋ぐの。」
「…………」
洋子は真っ青になっている。
なにせ、洋子、これまで学校の性教育から逃げて来たのだ。
それもそのはず。体の造りの基礎だけ勉強して、今度は世のあらゆる性の知識、性自認、世の事情、自慰、性交渉や避妊を教えた学校の性教育。
気が弱いと知られて、いろんな男子に絡まれる洋子は、学校内で手や肩を引かれて連れて行かれそうになったこともある。性教育をしてからは、さらに絡まれる。まだ小中学生なのに、あんな男子たちのためにこんなものを学ぶのかとすっかり気持ち悪くなって、それ以来その時間は休んでしまうようになった。
代わりに他の先生に学び直し、まず自分の意思と身体の尊重。その後に、犯罪に遭いそうになったり遭った時の対処、連絡先など教えてもらう。
最初に自身の身を守ること、重んじること。そして、コンドームもするしないの前に、性交渉自体をしない選択をしなさいとその先生は言いきった。ただ、いつかお付き合いをする人ができたら、状況で避妊すべき時もあるし、その時はよく相手と相談し合い、相談に乗れないような者とは付き合う必要もないとも言われた。清々しいくらいの言い切り。
無理にしなくてもいいのだと聞いて、初めて洋子は安心して眠れるようになったのだ。
そんな洋子だったので、おそらく普通の半分も感性の方の性の知識がないであろうと、二人でさらに学び直す。と言っても見ているのは、妊産婦の本だ。
「もう分かんなかったら、相手に教えてもらえばいいから!」
「………でも………絶対に……いや…………」
「何が嫌なの?結婚ってそういうことだし、子供を持つってそういうこと。」
「…………夫との…………こういう……のも……断れないの?………」
半泣きな顔だ。
「断る?いつ?ずっと?」
「………………ずっと。」
「………そんなの夫婦の勝手だけど、相手が知らないのに結婚前からそれはダメでしょ。」
「…………」
「…でね、ちゃんと夫婦が愛し合ってたら、子供は安心するんだって。」
「………そうなの?」
「そりゃあね。」
と言って、考えてみたら道子も愛し合う夫婦など知らない。父と母は、一体何で繋がっていたのだろう。お互い自身の見栄や欲に執着して、同じ屋根の下にいたというだけだ。ただ、京子おばさんたちが来るたびに、結婚ってなんてステキなんだろうとは思ってきた。
愛が分からなかった父と母。
いつも情熱的に愛し合う叔母夫婦。
道子は願う。洋子が誰よりも幸せになったらいいのにと。
目の前の洋子が幸せそうな顔をするだけで、父と母に埋められなかった道子のピースが少しずつ見つかっていくような気がした。
***
「ねえ、ミーちゃん。」
二人きりのある日、若葉が突然道子に聞いた。
「本当にいいの?」
「何がですか?」
「よーちゃんと正君の結婚。」
洋子と正一のことだ。
「………はい、どうして?」
「ミーちゃんには、正君が完璧で頼りある人に見えるかもしれないけど、私から見たら正君もかなり間が抜けてるんだけど。」
抜けていなければ嫌なのに人に言われてあれよあれよとお見合いなんてしない。あの歳で。
「若葉さん、山名瀬さんに失礼ですよ。」
「ってねえ、ミーちゃん。失礼も何も、男なんてみんなヌケヌケだよ?うちの旦那だって、すっごい理屈をこねて、だから何が言いたいのかって聞いたら、合理的に話せ!っていうの。」
「………」
「私からしたら、合理的って言うなら理屈をこねずに、サッサと相手の意図を汲んで伝わるように要点を話してって思うんだけど。」
「………はあ……。」
「それに、最初に一緒に暮らした頃、厳つい顔して自分のパンツも畳めないって言うの。」
「……パンツ……ですか?」
「要するに何にもできなくて、なのにお前は結婚前と変わってしまったって威張ってるわけ。パンツを畳ませるのに、何が変わったわけ?って、畳み方としまい方から教えたんだから。
洗濯をするのは女の仕事だったって、そんなこと知るかっつーの。」
「…………」
若葉としては、「正一さんは背か高いからいい」とそれしか言わない洋子に、「二人とも背が高いと、子供の背が高くなり過ぎて、それはそれで大変なこともあるよ。日本だと頭ぶつけて困りそう」と若葉が言ってしまうと、「え?!困るの?ならやめる!低い人と結婚する!」と、とんでもないことを言い出したからだ。
この子は大丈夫なのか。正一と暮らせるのか。
「まあ、パンツくらい畳めたとしても……正君もそんなもんだよってこと!」
「!」
「よーちゃんがちょっと心配な子だからって、全部正君に頼っちゃだめだよ?」
「………そうですね……」
「ミーちゃんから見れば、正君ってすごく大人でも、私から見たらガキンチョもガキンチョだから。大学の時もちょっとボーとした子だったから、まさかあんないい大学行ってるとは思わなかったし。」
「………」
29歳でそこまで子供では困るだろうと言いたいが、聞くだけにしておく。50代の若葉さんの世界で見たら20代なんてまだまだ甘いのだろう。
そして、夫婦になった二人が前途多難なのかも……と思うのは、結婚直後からである。
***
若葉の家から少し離れたマンションに新居を構えた二人。たくさんの人に祝福された夜。入籍と結婚式と新婚生活は、典型的な順序通りに進める。そういうものだと思って生きてきた洋子が混乱するからだ。
そしてもう最初の艱難である。
慣れない人と、慣れない夫との結婚式と身内だけの披露宴で精いっぱいだった洋子の希望で、いつか温泉にでも行けばいいとなり、新婚旅行は無し。二人での最初の夜のことだった。
なんと深夜に道子の携帯に電話が来たのだ。
「なに?どうしたの??落ち着いて話さないと分からないから!」
と、なぜか泣きわめく洋子に話していると、どうやら電話の向こうでは携帯を正一に取られたらしく、正一が出て若葉に変わってほしいと言う。正一のいつもと違う調子の声に、ドキリとしてしまう。
そしてその後が信じられない。
少し話してから20分後、新婚初日の嫁が夫と共に戻って来てしまったのだ。
アパートのドアを開けると洋子が道子に抱きついて来た。
「道子!!」
「洋子?!」
その後ろでため息をついている正一。
道子が見ると正一はいつもの格好と違い、白い長袖Tシャツにベージュのゆったりしたパンツ。足も裸足でサンダル。そして髪は洗ったままだった。
「…………」
思わず目をそらしてしまう。
「よーちゃん、一旦中に入って。」
そうして家に入れて、洋子から事情を聞くも、何を言っているのか分かりにくい。なんだか正一が洋子を襲ったような話になっている。
「???」
どうしていいか分からない道子と、横の部屋で正一から事情を聴いている若葉。
そして若葉も、ため息をつく。
「……よーちゃん。一旦落ち着いて。」
若葉が部屋から出てきて、宥めて一緒に部屋に移る。襖が開いている部屋を見ると、正一が少し二人から離れたようで、若葉がまず洋子だけに説明をしている。道子はなんだか聞いてはいけない気がして、心配ながらもお茶を入れる振りをして台所に向かった。
「あのね、よーちゃん。本で読んだことがなくてもその本には載ってなくてもね、それは大事なことなの。」
「………」
「ちゃんと心と体をほぐさないとね。うちの旦那はしょうもなかったから、初めての時私ね……って、ババアの話なんて聞きたくないと思うけど、あの人なんにも知らなくて、私、痛くて出血もあって……。そうしないためにもね………」
いろいろ話し終えたのか、若葉が少し離れたところにいる正一を呼ぶ。あれから20分ほど。洋子も落ち着いたようだった。
「正君、どうする?よーちゃん、今日はここに泊まる?」
そういうと、正一が答えた。
「いえ、帰ります。」
「………。」
正一はそれに関しては、はっきり言った。
「洋子さん、大丈夫だよね?」
正一が優しそうに聞くも、洋子は涙目で女二人に頼る。でも、道子だってこんなの返事ができない。
「大丈夫。洋子さん、今日は何もしませんから、帰ってゆっくり休みましょう。」
そう言って、洋子の反応を確認してから、そっと肩を支えた。
「お茶入れたけど……洋子、飲んでく?」
「………うん………」
少しだけすすり、そして、しばらくして落ち着いてから、新婚の二人は若葉に謝って道子にも礼をし、また夜の向こうに去っていった。
道子はそれを、見送ることしかできなかった。
二人が去ってから聞いてみると、予想した通りのことだった。初夜のあらゆることに驚いた洋子がパニックになって、帰ると言ってシーツをまとったまま走り出し、玄関まで飛び出しそうになったのだ。
正一が玄関手前で止めるも、洋子が何か呻き出す。
「洋子さん、何もしません。落ち着いて。裸のまま外に出ることになってしまいますよ。洋子さんのそんな姿を誰にも見せたくありません。」と宥めると、静かになって縮こまった。
玄関手前にくるまってしまった洋子の背中が落ち着くと、声を掛けて部屋に戻り、まず服を着せる。それから、的を得ないことを喚きながら泣き止まないので、仕方なく親代わりである道子と若葉のところに連れて行くことになったのだ。
「…………」
開いた口が塞がらない。洋子はともかく、男性としては苦渋の選択であっただろう。
でも、
それだけ優しい人なんだと思う。
自分の父だったら、新妻がそんなことをしたら、きっとその場で激高して叩いていただろう。絶対に家の外になんて出させず、呻き声も、泣き声も、全てを扉に隠して、次の日は何もなかったようにしているに違いない。
押し込められたその扉が解放されて、
そうやって、洋子が受けてきた傷が一つ一つ癒されたらと思う。
道子は、洋子しか飲まなかったお茶のコップ、二つを静かに片付ける。お茶も見なかった正一。
なんだかふわふわした気持ちでいると、若葉おばさんがそっと肩を抱いて、今度は道子のためにやさしい風味のお茶を淹れてくれた。
***
とっても幸せだったと思う。
時々どこかで公演に呼ばれて、そして二人は音楽教室の準備もする。
道子は留学生のためその範囲内のアルバイトで洋子の仕事を支える。
ロンドンの方のアパートメントは管理も全て人に譲ることになった。一室だけ、時々来る京子おばさんや帰って来た道子のために借り直して残してある。
そして、そのお金の一部で、祖母のものであるあの木目の中古ピアノも運んできた。
検疫関税などいろいろ聞かれ大変なことがたくさんあったが、一番大変だったのは同じ型がない、昔のピアノだったということだ。最初は専門家も扱いに困ってしまう。
ただ実際は、洋子が知っているように、家のお金がなくなるほどの運送費が掛かったわけではない。洋子は物を買うとき値段を見ないし見てもよく分かっていないため、お金を無駄遣いしないよう道子が脅しただけである。ピアノの手続きや設置まで道子が国を往復し、かなり大変だったのでそのくらい言っていいだろうと思ったのだ。新たな収入源がまだあるわけでもない。これから長く楽器を扱うにも、節約は必要だ。
そうして、
あっという間に一人目の子供が生まれて、その子もすくすく大きくなって。子供は想像以上にかわいくていい子で。
でも、どこかで何かが上手くいかなくなってしまったのは、山名瀬家の実家の方が大きく傾いてからだった。




