56 ガラス越しの光
その頃、道子と洋子は休み期間を利用して日本の親戚の家にしばらく滞在する。
親戚と言っても、父も死に、祖父の代でイギリスに来ていたため遠い血縁だ。ただそこの家は、オーストラリアから毎年ホームステイを受け入れていたため、二人を快く迎えてくれる。しかも、きれいな双子がピアノやバイオリンをサラッと弾くのだから、皆喜んでくれた。
そんな道子に、ある日あの『山名瀬』さんからメールが届いた。今度日本に行くと、道子が伝えていたからだ。
地方の町民福祉施設の開所式が開かれるらしい。
ロビーにピアノも置かれるので、演奏をどうかと頼まれたのだ。
観光ビザなのでお金が発生すると面倒なため、無料ということで静岡県の端に向かう。ステイ先の高校生、真奈美も一緒だ。
「洋子見て!あれが富士山だよ!キレイ!」
「……ただの山だよ?」
「でも、ああいうのを見て、過去の詩人や画家がステキな絵を描いたんだよ。」
「ふうん………」
と、洋子は関心がない。
「お姉ちゃん、富士山の歌!」
「?」
「あーたまを くーもをの~」
真奈美が小さい声で童謡を歌い出す。
道子も声を合わせると、洋子は何の感嘆もない顔で、少しだけ窓の外を眺める。
そうしてハミングしてくれるので、満足な道子。
道子と真奈美は、洋子の分まで笑った。
「道子さん!」
バイオリンを抱えた道子と久々に会った山名瀬さんは、やはりいい人であった。
「一緒にこちらまでご案内できなくてごめんなさい。」
「いえ、大丈夫です。洋子、ご挨拶して。私の姉です。」
「………洋子・リースです……」
「ようこそ日本に。私は建築家の山名瀬正一と申します。」
「…………」
洋子は礼だけして、正一に関心がない。
そして、職員の女性が三人を案内する。
「開所式はまだですので、先にピアノをご覧になられますか?控室のロッカーに荷物を置いて好きに弾いてもいいし、館内も好きに見学して下さい。」
そうして、急な依頼にもかかわらず、その日の開所式と小さな演奏会は無事に済んだのであった。
その後はいくつか館内や敷地でイベントがあり、皆自由に寛いでいる。
真奈美に見てもらいながら、洋子がロビーで柔らかな演奏を続ける中、正一と道子はその空間からあけっぴろに続く子供広場を見学していた。既に数組の親子がそこで遊んでいて、この日は午後10時まで全館解放されている。
「これが言ってらした、無理にでも遊技場を作ってしまうっていうのですか?」
クスっと笑うと、正一も笑う。
「そうですね。でも、ここは最初から企画に組み込まれていたものですけど。ただ、子供の図書コーナーは図書館に入れずにこちらに本棚を作りました。多少子供が騒いでも大丈夫なように。」
と言って、正一は絵本を一冊取りだす。
道子が見るとその本棚には絵本だけでなく、育児関係や子供の家庭の医学の本も置いてある。
そしてさらに気になったのが、小児病や難病だけでなく、子供の違いに関しての本も置いてあったことだ。道子は親に厳しく日本語を教えられたため漢字はある程度解るが、新しい言葉や難しいものはまだ分かりにくい。でも絵が豊富でなんとなく示していることが分かる本もある。
道子はその辺りの本を取り出す。
「……」
それに気が付いた正一が教えてくれた。
「それは、発達障害。日本ではまだあまり知られないない分野で、今、徐々にって感じかな……。英語だとDevelopmental Disorderですね。いろいろ言い方や違いはあるかと思いますが。」
「関心があるんですか?」
「子供の領域に関わると、調べざるおえなくなるんです。安全にも関わるし。福祉センターや公民館にはそういう問題を抱えたご家族もよく訪れるので。」
「…………」
「それに、ウチの家族にもそうだろうな……っていう者がチラホラいて………。」
正一が少しため息がちに言う。
「お母さん方に、病気やいろんな特性の子供が行き来する施設に求めるものを聞いたりもします。スキマに入ったり、どこでも登ってしまう子もいるし。よく言われるのが、吹抜けの上階は手摺壁を高くしてほしい、足を掛けるところをなくしてほしい。階段の手すりに子供が通過できる隙間をなくしてほしいがあります。」
そう言った正一は、将来自分の子供が雨樋も登ってしまうような子になることを、まだ知らない。自分の子には安全対策など意味がないのである。
「……他の意見として……親が見られる範囲にカフェコーナーを作ってほしいとか。」
「それで、そこにテーブル席やベンチあるんですね。」
少しだけ離れたところに、自動販売機もあり、小さなブランチができるカフェテリアがその先にあった。
「今の日本は、こういう形になっている福祉会館や公民館も多いと思います。昔は飲食店があっても、出入り口が別だったり空間が完全に分けててあったんですが、今は一体化や半一体化も………」
そう言って語る正一は、出会いや仕事の場で自分語りをする男性たちとは何かが違った。
「ただここは広いし、観光地でもあるので向こうに落ち着いたレストランも別に作ってあります。昼はお弁当が配られれたから……、夜、洋子さんと真奈美ちゃんも一緒に行きませんか?」
「ぜひ!」
正一は帰るが、みんなはここで二泊することになっている。
そんな先に、もう一冊、正一が本を取った。
「絵本の伝記ですね……。珍しい。」
最近はすっかりなくなってしまった、子供のための伝記絵本だ。
キュリー夫人やシュバイツアー、伊能忠敬、田中正造、南方熊楠など20冊くらい置いてある。
「司書の方、すごいですね……。もうほとんど絶版になっている本です。」
そのためか、直接日が照らず子供が取れない少し高い位置に置いてある。
ここは未就学児しか遊べないが、横のカフェスペースと一体化しているし、付き添いでそれ以上も入れるため大人や小学生も使うらしい。
「私も、田中正造や南方熊楠は大好きです!」
「知ってらっしゃるんですか?」
海外住まいなのにと驚くと、道子はそのコーナーにあった人物は全部知っているらしかった。
「日本人でも知らない人、多いと思いますが……」
「そうなんですか?」
「最近の日本では、あまり学びませんよね……。教科書にちょろっと載っている人なら試験で出るので名前はなんとなく分かるでしょうが。」
「私、伝記や郷土史とか好きですよ!」
「女性なのに、珍しいですね………」
「世の中にはとんでもない習慣もあるけれど、昔は小さな地域が全てで、そこで必死に生きていた人たちがいるんだなと思うと、たくさんのものを愛したいな……って思うんです。」
「…………」
ん?と、正一は道子の方を見る。歴史に関心があってもこんな事をいう人はなかなかいない。
「高校の時にイギリスの大学で、和平交渉の講義を受けて、それから大学で歴史を教えている人の講義も聞いて。その方、ご夫婦で違う国で講義をされていて、講話がすっごくおもしろくて……。
日本人なんですよ!対戦もあった国でそれぞれ講義されていたんです。」
「……?海外で歴史の講義をしているということですか?日本人が?」
「そうです。それぞれの国で!」
「奥様の教授のお話だったのに、2日目は旦那様もサプライズで来られて。聞いてないって、奥様怒っていたけれど、会場大盛り上がりですごく楽しかったんです。旦那様の教授は小柄で頼りなさげな感じだったのに話し出すと全然違って、みんな熱中して聴いていました。奥様に負けると思ったら、対話で言い返してました!」
嬉しそうに話す道子。
「でもそれじゃあ、対立しか生みませんって受講生に言われて、みんな笑ってしまいました。」
あの日の大学の講話は。本当におもしろかったのだ。
それから遠くを見るように、少し先の風景を見た。
「………私も、あんな夫婦になりたいなって……」
「…………」
目の前で語る女性を思わずボーと眺めてしまう正一。
カラス越しにささやかに降り注ぐ外からの光に照らされ、何てかわいくて美しい人がいるのだろうと。
「山名瀬さん。」
「……あ、はい!」
「今日は誘っていただいて、本当にありがとうございます。」
「あ、いえ。こちらこそこんなに突然、遠方まで来て無料で演奏までしていただいて……。せめて宿泊費だけでも……」
「大丈夫です。今回は地方観光もしたいと思っていましたし。それに結構、いいホテル取りましたから、三人分もお値段大変ですよ。」
「……はあ。でも……。無理やり旅行させたみたいで。」
「大丈夫ですって。草津温泉も軽井沢も行くつもりでしたし、一つ旅行先が変わっただけです。」
今回はステイ先の真奈美の分まであるのだ。彼女も私はツインズ姉さんたちの荷物持ちです!と大張り切りだった。
楽しそうに話す道子に、正一はもう1つ申し訳ない思いで謝る。
「それに、演奏会と軽く持ち掛けてすみませんでした。」
「?何がですか?」
二人の歌や技術が、想像以上にすごいのだとなんとなく分かった。
時々演奏会に出ると聞いていたので、日本にいるなら、お話していた建築を見てもらいたかったし気分転換にもなるだろうと思ったのだ。
けれど、同じ町の文化会館から来た職員が異常に褒めて感謝していたので、演奏も物凄かったのかもしれない。今度は正式に興行ビザで来てほしいとまで言っていた。
「歌声もすてきでした。あんなに………深くて、いい声なんですね……。」
「…………」
歌手として褒められるのは嬉しいが、目の前ではっきり言われれ道子はちょっと照れる。
そう。道子の声は、明るくて明朗としているのに、どこか落ち着いた優しい響き。
今、少し向こう側にいる洋子は、深くて渋く、でも甘い、ジャズやシャンソンの響き。
「それに正一さん。あまりすみませんとか言うと個々の職員さんや聴いてくださった聴衆の皆様にも失礼ですよ。」
「……あ、そうですね……。」
無料ですると言ったのは道子なのに余計な気を遣わせてしまう。
最終的には町からレストランでディナーをご馳走してもらえ、観光地と温泉の券までいただいた。
それから数日後。
正一と道子と洋子はまた都内で会うことになる。




