52 傷の記憶
※虐待などの内容が出てきます。苦手な方はご注意下さい。
後日、尚香は道のアパートに来ていた。
きれいに修復してある鉄筋のアパートだが、オートロックではなく部屋は1K。洋子の家を知った後というのもあるかもしれないが、非常にこじんまり暮らしているように見えた。
昨日の一連の報告をして、章が現金で70万円持ってきたことも話しておく。
「……そっか……。また本当にごめんね。尚香ちゃん。」
「……大丈夫です。今回は洋子さんのことを分かって行ったので。」
章が来るのは予定外であったが、説明も省けたし、いろいろ知れたのでもういいということにする。
「……お願いしたのは前のお店じゃないんだね……。これまではピアノだけだったからかな……」
特殊なピアノだったので、ずっと同じ業者にお願いしていたのだ。ヴァイオリンもたくさんあるから、若葉さんという方がもう有名どころで頼んでしまったと言ってました。明細もきちんと残るでしょうし。」
「そうなんだ……。おじさんよい方だったのに。元気に過ごされているといいけど。」
少し残念そうだ。調律自体はもっと安いのか、もっと掛かるのかは見てもらわなければ分からないらしい。
「若葉おばさんにも交通費をお渡しして、お礼しておかないと。」
しかし若葉おばさんは言うであろう。「退屈な年寄りだから気にしないで」と。もうすっかり白髪になってしまったが、昔から山名瀬家を見ていてくれたのは、生まれは違うが東京下町育ちのそんな気丈なおばさんだ。洋子のことだからこちらのお願いで都心まで来てもらっても、食事などご馳走せずに逆にご馳走してもらっている気がすると、道がいろいろ悩んでいる。
「それから……、洋子さんのこと、聞いてもいいですか?」
「………?また洋子さんが何か変なことした?」
少し慌てる道に、尚香は淀みなく聞いた。
「洋子さん………。
章君をひどく扱ってきたんですか?」
「………!」
一瞬止まってしまう道。
「今で言えば………その……虐待です。」
「…………」
道だけでなく、空間も止まってしまう。
「……あのね、………尚香ちゃん。」
尚香は不安を隠す。
「どうしよう……どこからどう話そう………」
「………」
「どこまでどう言っていいのか分からないけれど……章を追い詰めてたのは確かかな………」
「………!」
ドクンと胸が鳴る。
「章のことが受け入れられなくて……、上のお兄ちゃんだけかわいがったみたいなの。……敢えて欠点を言ったり、何かの時に叩いたり怒鳴ることはあったけど…………
どっちかというとネグレストだったみたい………。
章だけが洋子さんの中にいないの……。」
!?
虐待という答えが返ってくるのは分かっていた。
分かっていたけれど……
実際に聞くと、胸の中が痛い。ひどくグジグジする。
それから尚香はもっと踏み込む。
「それで……道さんが知っているかは分からないのですが……もう少し聞きたいんです。」
「………」
道が力なく顔を上げると尚香は続けた。
「洋子さんも虐待のサバイバーですよね。」
「……!」
またしばらく沈黙が続く。
「……はぁ………」
道がどうしようもなく息を洩らした。そしてしばらく動かない。
けれど、ゆっくり顔を上げて言った。
あの二人を見ていれば、分かってしまうことだろう。
「洋子さんはね、けっこうひどかったみたいなの………」
「……?」
「昔で言うね、折檻とかしつけの名目でね………、京子おば様に聞いたんだけど……」
昔、道も、こうして来日していた伯母の京子に聞いたのだ。
『京子おば様!何かあったんですよね?洋子さんの御実家で!』
若い道は当時げっそりと、でも切羽詰まって聞いた。
思い出しながら、道は息が詰まる思いだ。
「力任せに蹴られたり殴られたりとかではないけれど、定規や教鞭で叩かれて。言うことを聞かなくても泣いても、頬や頭を叩かれて………。暗い部屋に閉じ込められたり、反省と言ってずっと同じ場所で立たされたり………
尚香も言葉がない。
「しかもね。あの当時はやっぱりしつけで片付けられて、当たり前のことで、それを止める人もいなかったみたい………」
「……ご両親にですか?」
「…………お父様がかなり厳格で融通の利かない人だったみたいで。洋子さんのお母様は、嫁ぎ先が合わなくて心労で早死されたって……。
京子おば様から聞き出した時、おば様、手遅れになるまで事情を知らなくて、あの子たちに申し訳なかったって泣かれたな………」
アメリカから来た夫と当時は海外にいて、事情を知った時には親子を引き離すことはできなかった。
「それも、兄弟の中で洋子さんだけ………」
「!」
洋子の母親は、最初の数年は夫に逆らう力もあったが、ある日、心を壊してしまった。
まだ新しい生活の何が正しく、何が悪いのかも分からなかったからだ。一見夫は正しい人にも見え、よく働き、家庭をよく支えている人にも見えた。
実際、傍から見ればそうであったし、そうしてロンドンの少々大きなアパートメントをどうにか維持してもいた。
体裁が大事だという時代でもあった。また、母はおそらく冷静に分析するよりも感情の人だったのであろう。あらゆることが受け入れられず、同時に良き妻でもありたかった彼女は、自分の心を見失ってしまう。
そしてその父は妻亡き後、徹底的に子供たちを模範的人間に育て上げようとしたのだ。
妻のように、情的で、か弱い人間にならないように。
絃一本、間違えのない生き方を強要された。
心身の成長期に、洋子は時に折檻を受け、時にただ逃げ回るだけの幼少期を過ごした。
まだ洋子が物心つく前から。
洋子は病床の母しか知らない。母は、何も助けてくれないただそれだけの人だった。
「なんでそんなに………」
「家系的にそいうのがあったのかもしれないし、当時は本当にしつけで済んだかもしれないし……。」
道は取り戻せない過去を思って苦しそうに言う。
「韓国もそうだったから、線引きが難しいんだよね……。私も悪さしたら、親や祖父母にふくらはぎを定規で叩かれていたし……。でも、私は大泣きしても全然お父さんやお母さんが本心で嫌いって思ったことはなかったけどね。その場では憎いけど。」
「……」
考えてみれば、日本も少し昔はそうであった。子供は親の所有物であり、しつけは当たり前のものであった。大人や父親の不条理など当然で、子供は従うだけの時代もあったのだ。
「あの。………変なことを聞きますが、娘に手出しするとか……そういうのはなかったんですよね……?」
「…………むしろすごい潔癖で自分も厳粛で、そういうことに嫌悪があって、男性と会話もさせなかったみたい。」
「……はぁ………」
いい事ではないが、一旦ホッとする。洋子を見てみれば気丈さは残っているのだ。ただ、洋子の祖母は名もなき歌手。夫の親族も夫も、そこは良く思っていなかったのかもしれない。
そして、父の教育は一見規律立った厳格なものに見えて、それはあまりにも矛盾していた。
外に出て働かなくてもいい。
良き妻であり、良き母でありながら、でも勤勉で賢く、社会に貢献する人間になれとも言ったのだ。
笑顔であり、でも男の前で媚を売るように笑うなとも。
それで一流の教育をさせ、なのに女性は男性の後ろで全てを控えめに支えろと。こんなに投資したのだ、役目を果たせと。
何もかも末端でしかいられなかった父の、無自覚の見栄でもあったのだろう。
ここまで聞いて、尚香も分かる。
こんなのよっぱど優秀でなければ、普通の女性だって務まらないし受け入れられない。むしろ優秀な女性なら家を飛び出して行くだろう。
でも自分の子はあくまで洋子だ。才女が生まれたわけでもない。
想像できる。その光景が。
京子おばさんは言った。
『洋子ちゃんはね……。章君よりもっと何もできなかったの。』
『…………?』
『言葉は2歳で話せたけれど、大きくなっても舌足らずでハキハキ物を言わない。運動もダメでダンスも下手で成績も最下位。』
それを聞いていた道も、当時の洋子の姿がありありと浮かぶ。
『動き回って光の速さで逃げ回っている章君と逆で、いつも泣いているだけで逃げるのもへたくそ。
よくつまずいて足も遅くて、家の中でも怖い場所には自分では絶対に行かなくて……』
『………』
『まあ、大きくなったらちょっと心配にはなるけど、私にはそれもとってもかわいく見えて。でも、最悪だったのね。父親との相性は。』
そう、父親との関係は最悪だったのだ。
当時はまだ発達に関する理解もなかったことであろう。
父親の言うことが理解できなくて、どうにかがんばってやってみても叩かれる。
時々叱られないので、叱られなかったことをしてみても、次の時には叩かれる。洋子には状況で物事は変わるという判断ができず、その違いが分からない。
毎日毎日、一時一時が目が回るような混乱であった。
洋子は自分のことも理解していなかったので、他の人間の、しかも大人の言うことなどもっと理解できなかった。
父も、洋子のような子を自分の子としてそのまま受け入れられず、半分世間から隠し、そして今までの教育も放棄しなかった。
父親もそれが自分が受けて来た教育だったからだ。
そして困ったのが、洋子が章を産んでから。
洋子は、自分が虐待を受けて育って来たという自覚がなかったのだ。
自分とは明らかに違う性質なのに、どこまでもそっくりな子供。
そのそっくりな子が、洋子の目をじっと見ていた。
まるで人形が、同じく作られた世界をじっと見通すように。
洋子は人の目を見ることができなかったのに、この子は射るように見てくる。
洋子は直感で感じた。
ああ、この子は自分と同じような人間だ。他の家族や他の人とは違う、とても厄介な子だと。
***
「尚香ちゃん、あまり考えないでね。」
「……そうですね……。」
考えないわけにはいかないが、今は一旦、道が用意してくれたお茶を少しだけすする。
けれど不思議だ。なら洋子のあの自信はどこから出てくるのだ。聞いている限り、八方塞がりの毎日。大人にとってはあっという間の毎日でも、子供には出口のない永遠の永遠に思えたはずだ。
しつけと教育の狭間で、父は愛情や家族や親子という言葉で、お互いを肯定していたのか。
……そうかもしれない。でも、それも違う気がする。
普通だったらそこまでか弱い子なら、どこかで萎縮してしまっていただろう。もしかして、洋子の鈍感さがそれをさせなかったのか………。生き辛いということにさえ鈍感だったのか。
聞くにしても、これ以上踏み込んではいけない気もする。
それは、他人である尚香が知らなくてもいい事だ。章との距離をとるならばなおさらだし、自分はカウンセラーでもない。洋子に頼まれたことの処理をする分だけでいいのだ。何かを知ることは。
「あ!」
でも、思い出す。
聞いていいのか分からないけれど、あまりに艶めかしいので、これだけはちょっとどうにかしておきたい。また多分、洋子の家には行くのだから。
尚香、迷っていたことを聞いてしまうことにした。
なにせ、洋子さんの距離感がなんというか、怖い。
「あの、道さん。ちょっと変なこと聞いてもいいですか?先の話とは別です。」
「……何?」
「……あの、洋子さん。私の手に指を絡めて来るんですけど……」
「指?」
道は目を丸くする。
「手?」
「はい、こうやって。」
かなり濃厚に。
「尚香ちゃんにそんなことしたの??!」
「一緒に寝て……」
「寝る???」
「あ、怖いからって普通に、朝まで、横で寝て……」
「それで………」
「…………」
「……寝入った頃に………洋子さん虚ろなのか、寝言なのか………」
道、かなり分からない顔をしている。そして何があったのかと、ちょっと不安そうだ。
「『道子』って言ってたんです………」
「!!」




