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スリーライティング・上 Three Lighting  作者: タイニ
第七章 進むのに進めない

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49/90

49 海を渡って



その引き戸は壁一面の大きさで、家庭用にしてはそれなりの厚さがあり、上下は複雑なレールをしていた。サイドもしっかり締まるタイプ。ただ、重くはない。



そして、開かれた白い引き戸。


尚香は現れた光景に目を見張る。

その先の空間には、グランドピアノが置いてあった。


「……わぁ…………」


少しサイドに寄せてはあるが、真理の家ほど余裕はなく、ピアノが部屋を占領している印象を受ける。



けれど、何てきれいで、かわいらしいピアノなのだろう。


カバーは掛けておらず、最初に視界に広がるのはそのピアノ。

重厚なものを想像していたが、木目で色がやや明るい。



そしてよく見ると、壁側に家庭用の一般的なライトアップピアノと電子ピアノも置いてある。部屋が狭いのではない。たくさんのものが置いてあるから狭く見えるのだ。



洋子は、グランドピアノの蓋を触り静かに話す。

「業者さんが言うにはね、木目のピアノって手入れがすごく大事なんだって。私も使わなくても木の部分は時々ワックスで拭いてたんだけど。」

尚香が近くで見ると繊細な彫で『PINOA』とある。全く知らないメーカーだ。

「『ピノア』…………」


「日本のものじゃなくて、名前は今っぽいけど昔の工房で作ったものみたい。まだ木材に規制がなかった時代のものだからすごく贅沢に木が使われてるって言ってた。業者さんが調べてみたら、その工房も今はないって。」

「中古を買ったんですか?」

「中古?昔、家にあったのをイギリスから持って来たんだけど。」

「!」

これは素直に驚く。洋子は何も知らない顔だが、輸送費の方が本体より高いのではないか。


値段にビビるも、ついでに聞いてみる。

「イギリスに住んでいらしたんですか?」

「……母が死んで……父も死ぬまでは………。もう高校の頃だけど。」

「………亡くなっていらしたんですね。……ごめんなさい。」

「別に。母の顔は記憶にもないし。」

思い出させて申し訳なく思うも、そうでもないらしい。

「…………」


しかし、高校の頃なら覚えているかもしれない。

「輸送、大変だったんじゃないですか?こんな大きなもの。」

「さあ、知らないけど。でも、このピアノ、グランドピアノの中では小さい方だから。」

「……そうなんですか……」

親が亡くなってからも、ピアノを海外に送れるほどの金持ちということだろうか。船で送るにも、現地から港に運ばなくてはいけないのだ。


しかし、他人事のように洋子は言う。

「でもこのピアノの輸送でうちのお金がなくなったって言ってた。」

「…………っ。」

「もう少し安くならなかったのかしら。」

「………」

やはりすごくしたのであろう。



「あとのはいくつかのバイオリン以外、日本で買った物。正一(しょういち)さんが買ってくれたの。」

「正一?」

「前の夫。」

「!」

章の父親だろう。


「この子は全然手入れしなくても、電源さえ入れれば動いてくれるから好き。指も音も単調で軽いけどその代わりいろんな音が出るし。」

と、今度は電子ピアノをトントンと軽く叩く。

「長男が生まれる前だから………30年くらい経ってるのかな?放置しても全く平気みたい。」

日本最大手の昔の機種だ。でも、今の時代に作ったと言われても全く遜色のないデザインで、脚もサイドに細い板があるだけのシンプルでスタイリッシュなタイプである。年に数回埃を払うくらいで、全く修理も手入れもしていないらしい。



そして洋子がもう一つの扉を開けると、そこは少し広めの棚で、今度はケースがたくさん出てくる。


ヴァイオリンだ。


一本だけガラス棚に飾ってあるが、後はケースに入っていた。


揃った黒いケースが3挺ほど。

それより小さいものも7挺。

それ以外のものがいくつか。かなり大きなサイズのケースもある。大きなヴァイオリン?ギター?

空いているスペースは修理に出した物が収まっていた場所か。


「??」

初めは感心して見ていたものの、疑問しかない。洋子は元ピアノ教室の先生。


なら、ヴァイオリンは?これはもう教室があったことは確実であろう。防音があるので、誰かと共営していたのか。スタジオとして貸していたのか。


そしてここは誰の家?

結婚と離婚を繰り返して、どうやってこの楽器たちを移動させてきたのか。



少し戸惑いつつも、洋子に許可を貰って楽器の写真を撮る。初めは写真に難色を示したので、なるべく室内は写さないこと、見てもらう相手にも人に送らないよう約束してもらうことで安心してもらった。


棚全体を撮ってからヴァイオリンケースを開いてもらうと、一方は小さなサイズだ。しかも、中身は全部サイズが違う。

「かわいい!」

「全部子供用。」

そして、ピアノも全体をいくつかの角度で撮り、部分も撮っていく。突張棒も上げ、中や鍵盤も撮影させてもらった。



これでいいかなというほど撮影すると、尚香はスマホを目線から下げて、またこの部屋の全体を自分の目で見る。




やっと芽吹けるというような、生きていると主張したいような、


でも、音のない、静かな空間。




騒がしいのは、写真に懸命になっていた尚香の心だけだ。ここはきっと、メロディーが紡ぎ出されるはずの場所だったのに。楽器たちに申し訳なくて、息を整え自分を落ち着かせた。



この楽器たちは何年も眠っていたのだろうか。なんだか切なくて、胸が熱い。



洋子を見ると、部屋の隅に置いてある猫足のソファーに、いつもながら無意識にファッショナブルを醸し出して足を組んで座っている。ポケーとした感じで尚香を見ている姿が、ボーとしていいる時の章のようだ。



洋子と目が合うと、ハッとしたように尚香に聞く。

「?もういいの?」

「……あ、はい。ありがとうございます。」


「尚香さんは何か弾けるの?」

「私ですか?!」

「そう。」

なんでもない真顔で聞いてくるのも、何も気を使っていない時の章みたいで変な気分になる。

「ピアノです!バイエルを終えて、同じような青い本の曲をいくつかして、次のに移って……でも才能がなくて、最終的には好きな曲を2曲だけ弾けるようにして終わり……という感じでした……。」

「何の曲?」

元教師に言うには恥ずかしいので、こそっと言ってしまう。

「『水の炎』と、アリア・サーフの『主の鼓動と』です。」


両方ともかつてヒットした、いわゆるポップスだ。一つは人気アニメ映画の主題歌。もう一つのアリア・サーフは、アメリカの現代讃美歌の作詞作曲家であり歌い手である。若い人は知らないだろうが、サーフは昔、日本でも有名番組のテーマ曲に使われたりして未だファンが多い。


「あら?いいんじゃない?」

「……そうですか?」

「私のところにも、好きな曲だけ弾けるようになりたいとか言う人、何人か通ってたもの。」

「……」

「でも、この基礎を全部やってからって言うと、なんか逆らうから、言い返すとケンカになって出てくのもいたけど。」

「……そうですか………」

洋子の教室ではやっていけそうにない。けれど日本のポップスも知っていると分かり、なんだか意外だ。音楽で生きていくということは、人が好きな曲を知ることでもあるのだろう。



「弾いてみる?」

「へ?」

「楽譜なくても弾ける?」

「え?!いいです!無理です!!ずっと弾いてないし!」

本当は楽譜ではなく指で覚えていて、『主の鼓動と』は多分たどたどしくならどうにかいけるが、とてもピアニストを目指していた人の前では弾く気になれない。しかも中学生以来まともに弾いてもいないのに。

「いいの?」

「いいです!!」

「あ、そう。ピアノがあるのに勿体ない。」

「………」

自分が何か言われると縮こまるのに、何食わぬ顔で恐ろしいことを提案してくる人である。



むしろ、プロの曲を聴きたい。

「洋子さんは何か聴かせてくれないんですか?」

「………。私は弾かない。ずっと弾いていないもの。」

「………」

やはり洋子さんは身勝手な発言をする人であった。




そんなふうに時間を過ごしていると、インターホンが鳴った。


「あ……」

これも意外だ。こんな時間に、この家に訪問してくる人間がいるのかと。

「ちょっと待ってて。」

洋子は何もないような顔で、立ち上がって玄関の方に行く。しかも、洋子が警戒をしていないということは、知っている者の訪問だろうと考え、尚香は部屋にあった椅子に座って待つことにした。




しかし、おかしい。玄関先でなにか揉めているように聞こえる。


………大丈夫かな……

ちょっと見に行った方がいいのかと立ち上がろうとした時だった。


「待ちなさい!」

という洋子の声より先に入って来たパーカーの人物と目が合った。同じような顔をした、背の高い男子。



「………章君?」


そこには完全に怒っている章がいた。


「尚香さん、なんでウソついてんの?」

「……章君……」

「やっぱりこの人と会ってたんじゃん!!」


尚香が答える前に、洋子が怒って入って来る。

「だから何だっていうの?!何怒ってんの?普通に話せばいいじゃない!勝手に来てウチで騒がないでくれる?」

玄関に見たことのある靴があって言い合いになったのだ。

「あんたが呼んだんだろ!」

「私の電話に出ないから、尚香さんにお願いしたんじゃない!なのに来るから!!」

「他の人呼べよ!!」

「あの!章君、ごめん。ちょっと気になることがあったから………私も……」

「…………」

章は尚香には答えない。


そして、洋子に向く。

「……俺の生活圏に入ってくんなって言っただろっ。」

「あんたには関係ないでしょ?本当に何怒ってるわけ?おかしいの?」

「………俺のものを全部否定して、なんで俺の生活に首突っこんで来るんだよ。」


「あんたに付いた人間が、私を追い詰めたからでしょ?!あんたが私をあれこれ責めなければ!!」

「気付けよいい加減!!てめえのせいだって!!」

章が足で引き戸をガッと蹴る。

「やめて!!」

「……はっ。ほんと、自分のしたこと何にも分かってねーんだな。」


そう言ってから、章は封筒を洋子の足元に投げた。

「70万入ってるから。勝手に足しにすればいい。」

「!?」

楽器のメンテ代だろう。



「尚香さん、帰ろ。」


「…………」

洋子としては、こんな対応をされるとは思っていなかったのか。唖然として固まっている。


尚香も動けないでいると、章が呼んだ。

「尚香さんっ!」

「っ!」


でも、今帰るわけにはいかない。固まっている洋子の目がひどく動揺していた。今日は洋子に付き合うと決めたのは自分だ。ここに自分がいるのは洋子のせいではない。

「………章君、先に帰って。」

「尚香さんっ!」


それでも尚香が動かないでいると、ズカズカ章は尚香の前まで来た。大きくて怖い。

そして手を引かれそうになるところで、尚香が思わず手を引っ込めると、章はハッとして何も言わずに手を降ろした。



章は知っている。尚香は絶対に触られたくないのだ。



「………」

「尚香さん……行こ………」


怯えている洋子と、力なくそう言う章に、尚香は困ってしまった。




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