32 複雑だけど、単純な
「…私が?……なんで?ギフテッドじゃないし。」
「そんなことないよ。人を繋げる仕事をしていて、おじいちゃんおばあちゃんを大切にしていて。俺みたいなムカつく奴のこともちゃんと相手してくれるし。」
それは章君がしつこかっただけだけど、と思う。章がしつこくなければ、尚香にとって章は通り過ぎるだけの、名前も知らない、ただの記憶の一つであっただろう。
少し嫌な、脳裏のどこかに消えていくような……。
「俺は、道さんとか兄ちゃんとか、自分だけじゃなくて誰かを大切にできる気持ちを持って生まれたことの方が、ずっと才能だと思う。これだけ人が他人を邪険にする時代に。
きれいごとのようだけどさ、文句言ってる奴も、自分はそういう人間を隣に望んでるんだから………勝手だよな。」
道が去る時、涙を流した祖母、
いなくなってからも時折、道を呼ぶ祖父。
そんなに去ってほしくなかったなら、大切にすればよかったのに。
「………」
「道さんだって、本当は父さんが死んだ時点で山名瀬家から逃げても、俺を捨ててもよかったんだ。」
少し辛い顔をしている。
やはり章君は、人の心が分からないわけではないのだと思う。
「俺だったら、自分みたいなガキは放置するか、他に押し付けて逃げるけどね。
ムカつく奴はマジクソ食らえ、地に落ちろとか、堕ちぶれろって思ってたけど、道さんはそんなことしなくてさ………」
「……………」
「それはさ、何よりも大きなギフトじゃない?」
あの頃の章は世の中のことをよく理解していなかったけれど、四十九日のあの日に、親類に深く頭を下げた道子のことを忘れない。
1年と少し前に現われた外国人、
籍を外せと親戚に迫られた時、
章が成人して自立するまでは私に預けて下さいと。
少なくとも父親が死んだ時点で、章の親戚は誰も章を引きとりたがらなかった。施設という直前で、道が頭を下げたのだ。章はおそらく施設でもやっていけない。家にいても、時々どこかに逃げだしていたのに。
四面楚歌だった道と章は、同情した親戚がどうにか父の遺産を分けるように取り持ってくれ、援助もしてくれなんとかやって来たのだ。
「…………道さん本当は、シスターになりたかったんだって。施設で働く。聖句に感動して全部天に捧げるつもりで。父さんとの結婚も、父さんというよりは俺を見るためにしたんじゃないかな?分かんないけど、韓国のばあちゃんたちがそう言ってた。」
「…………え?」
「それに道さんはプロテスタントだったから……」
知っているのか分からなそうな尚香に説明する。
「………プロテスタントってカトリックと違ってシスターいないからさ、なるなら改宗することになるから、兄弟親族に反対されて、普通に結婚しろって大変だったみたい。」
「……」
普通な日本人の尚香にはよく飲み込めない話だ。
「諦めたと思ったら、年の離れた日本人の後妻になるし。今でも許さないって親族がいるらしくて、人の人生なのに勝手だよね。
言いたくなる気持ちも分かるけど。」
最後の一言は向こうの立場に立った場合の本音だ。自分が道の親なら、シスターにもこんな子供の保護者にもさせないであろう。
「そんな経緯があったんだ……」
家格の高い家はけっこうクリスチャン家系がいると大学に行って知ったが、尚香はびっくりする。
「あ、韓国多いんだよ。普通にクリスチャンが。あっちこっちシスター歩いてるし。有名人いっぱい寄付するのも税金対策とかだけじゃないよ。エナドリ時代のメンバーも3人そうだし。宗派もすごく多いし。でも、クリスチャンじゃなくても情があるから寄付はするけどね。昔は自分の国で精いっぱいだったけど、する人はするよね、寄付。韓国は両極端だけど。」
「日本とはいろいろ違うんだね……。」
東京ならともかく、日本は地方に行くと教会の『きょ』の字も見ないことが多い。あっても気が付かないほどか、フィリピンやブラジルなど移民の教会だ。
「道さんは子供の時から、自分の人生を天に捧げたかったみたい。それでシスターになるって、やっと方向性を見付けた時になぜか結婚したらしい。
あまり分からないと思うけどさ、そういう信心の根って日本人が思ってるよりずっとずっと、深い場所にあるから。」
「……………」
二人がアメリカで教会に頼ったのも、そのベースがあるからだ。
「章君がそういう話ができるのは道さんの影響?」
「知らない。でも、ウチもよく分からないけどおじいちゃんか誰かがイギリスにいた日本人らしいから。
イギリス音楽畑も多いよ、クリスチャン。現代音楽のベースが教会音楽でもあるし。」
ということは道は、結婚も断ちシスターになって人生を捧げて、多くの介護や子供たちの施設などの運営に関わりたかったのに、章の面倒を見ることになったのだ。
一体どんな経緯だ。神様が線路の切り替えポイントを間違えたのか。
「道さんは、この世に捧げようとした人生を、全部章君にあげちゃったってこと?」
「………」
また章が嫌な顔をする。
「……俺が全部かっさらって行ったような言い方しないでよ。」
「……まさにそうだよね。」
「………そうには違いないけど………」
正にその通りである。
「この世に捧げたでも当ってるけど、天に捧げるって認識から地に降りるんだよ。」
「ふーん。難しいんだね。」
「………ギフテッドは道さんかもね………。私にそんな精神はないな………。
章君にそんなこと言っても、私もこんな世の中、正直誰かを守るより投げ出したい側だから……」
ほんと言うと結婚も半分あきらめていて、両親が亡くなった後に、セルフネグレストで死んでしまうのではと思うほど、世に希望がなく疲れている時がある。実家暮らしでなければ、ゴミ屋敷まではいかなくとも掃除せずに1か月放置とかはあったであろう。
布団のシーツや布団も長いこと洗っていなかったので、道さんにお願いしてしまったばかりである。潔癖そうな章には悪いが、冬はほとんど替えない。そのくらい生活が回らないのだ。
「……俺も、歌、覚えられてもそんな崇高な精神ないからね。そういう心の方が、よっぽど価値あるよ。」
なぜって、
呼び掛けても誰にも聞こえない天の声に耳を澄まし、
ただ一人、海原に出ようとしたかつての道。
章は遠くを見る。
だってそうだ。こんなにたくさんの人がいるのに、
正論や正義を語る人はたくさんいるのに、
平和のために祈る人はこんなにもいるのに、
人を愛する人はとても少ない。
「………」
尚香は道さんが世界に捧げたかった愛を、独り占めしたこの男の顔を眺める。
「何?……やっぱり俺に惚れた?」
「目の前のマザコン章君がどうしたら結婚向きになるか考えてる。」
「……だから自立してるし。」
「…………」
「……僕と結婚してからあれこれ教えてよ。」
「何言ってるの?結婚してからでは後の祭だし、章君と結婚する女の子もどんな子か分からないから、少しぐらい料理や洗濯も覚えないと!私も結婚なんて経験ないから分からないし。」
「洗濯くらいはしてるよ。結婚生活は俺で経験付けよう!」
乾燥までしてくれるドラム式なので干したことはない。
「それは後の祭りどころか、最初から結果が見えすぎてるよ。無駄なことはしたくない。」
「なんで分かるの?決めつけるの?尚香さんひどすぎ。」
そう言って、1時間くらい話して席を立つ。
***
夜の喧騒。
「尚香さん送っていかなくて本当にいいの?夜だよ。」
「うん。電車さえ乗れば、いつもの道だから平気。」
章は地下鉄が苦手らしいので、車か歩きだ。
「尚香さんちの近くの店にすればよかったね。」
「心配しなくて大丈夫だよ。」
章の車は駅の近くの駐車場。
それなりに高い駐車料金がワンメーター上がりそうだったので、尚香は急いで車を出させる。15分で330円もするらしい。深夜料金が適用される時間だが、知っていたらもう少し考えたのにと思う。章は全然気にしていないが、毎日車を使っているようなので、こういう感覚もどうにかした方がいいのではないかと思ってしまう。うちに来ている時はどうしているのかと調べてみたら、尚香のいる世田谷区は住宅街が多いせいかもう少し安いらしい。
***
章の車を見送ってから少し歩き、眼鏡と帽子を取って尚香はため息をつく。
「…………」
最初は平面的に見えていたただのイキった若者が、どんどん立体になっていく。しかも、章だけでなく、たくさんの面と角度を持って。
暑いのでカーディガンも脱いで、カバンに入れた。
その時だった。
「ちょっと。」
と、かわいい声で誰かが目の前に現われ、ハッと目を上げる。
「!」
するとそこには、驚くほどきれいな女の子が立っていた。
「……先、駐車場で見送ったの、LUSHの功ですよね?」
「……?どなたですか?」
男性なら逃げるが、思わず見入ってしまう長い髪の美少女に立ちつくしてしまう。
こんな夜でも髪の天使の輪が、本当に天使のように輝いていた。
「……功は私の仕事仲間なんですけど。」
「え?、あ、はい。」
「………」
「…………」
尚香はそれ以上どうしていいのか分からなくて、困ってしまった。仕事仲間だから何なのだ。章君から面倒事や嫌がらせでも受けているなら聞いてはおくが。無意識で尚香は、顔を隠すように帽子を被り直した。
「少し話ができるからって、調子に乗らないでくれますか?」
「……あ、はい…………。え?」
「バカにしてるんですか?!」
「え?イットシーの方で?」
「どうでもいいでしょ!!」
「……こんな言われ方して、どうでもいいわけないです。」
尚香は冷静になってくる。ファンではなくて、同業者か。
「あなたみたいな人は、功に似合わないと思うんですけど?自分で身を引いたら?」
「………」
なるほどと理解する。ただ、自分で自覚があることでも、いきなりこんなことを言われる筋合いはない。それに今は家族ぐるみの付き合いのようなものだ。でも、それもこの女性に話すことでもない。
「いきなりそんなことを言われて、あなたに説明する理由がありません。もしかして、今まで追いかけて見てたんですか?」
「そんなわけないじゃない!うちの最寄駅なんだけど!」
「………」
これは功とは縁の遠い人間か、近くてもお互いプライベートは明かし合っていないかの人間であろう。知っていたら章はこの駅を選ばなかっただろうから。
「すみません、失礼します。」
と、通り過ぎて駅の方に向かおうとした時だった。
真っ赤になったその女性に、被っていた帽子をバッと取られる。少し髪も持っていかれた。
……えっ?
と、思った瞬間、その帽子を思いっきり顔にぶつけ返された。
「っ!?」
痛くはないけれど、不意打ちを食らって一瞬縮こまってしまう。
そして、顔を上げると、女性は憎しみのこもった焼けるような顔で尚香を睨んでいた。
「………っ」
「ファンの間で、LUSHのバスタオル被った変な女がスタッフに追いかけられてたって噂が立ってるけど、あんたのことだよね?功やスタッフ困らせるの、やめてほしいんだけど!!」
「……!」
「無理やり間に入ろうとしてるわけ?奇行で気を引いて!」
「……?」
自分の中ではもう終わった、あの日の流れるような一連のことが、知らない人たちの間で共有されていることにぞっとする。あの日は尚香だって、実際の地図も思考も、前後も左右も分からず必死だった。
尚香は落ちた帽子をサッと拾って、駅に向かって走り出した。
先の女性は追いかけては来ない。
でも、いつまでも後ろをちくちく刺されているようで―――
胸まで刺されないように背中を盾にして一気に走っていった。




