20 何も知らないから
今日はすがすがしい月曜の青空。
「ねえ章君、ずっと気なってたんだけど、章君がいつも背負ってるのってヴァイオリンだよね?」
と、おじいちゃんに呼ばれて出前のカツどんを食べ終わった章に、尚香が声を掛ける。今日はお母さんは外出。道もいない。
「これ?」
畳に置いたケースを指さす。
「そう。それ、ヴァイオリンだよね?」
「そうだけど?」
「ほんと?章君弾けるの?」
「え?俺上手いよ。尚香さんバイオリンに興味あるの?」
「……昔、聴きに行ったことがあるんだ。ピアノとのデュオで、歌もすごくて。私が園や学校とか以外で見た初めてのコンサート!それで憧れて、私もピアノを習って。」
ちょっとうれしそうだ。こんな尚香を初めて見るので、驚いてしまう。
「尚香さん、ピアノできるの?」
「はは。できるというか、あんま上手くなくて、3年やってやめちゃったけどね。」
「尚香は上手だったぞ。コンサートでお母さんの手作りのワンピースを着たんだよな。」
お父さんも楽しそうだ。
「へー!」
「章君、ヴァイオリン見てみたいな。ちょっと弾いてよ。」
「え?…………」
章は突然沈黙してしまう。
「………………」
「え?あ、ごめんっ。お仕事道具なのにごめんね。近所に響くしここじゃだめだね。」
「……あ、いいよ。」
少し止まった後、章は居間の机にケースを置く。
「いいよ、そんな無理に………」
「無理じゃないよ。」
そう言ってお父さんと尚香の前で、頑丈そうなグレーのケースのロックを外す。
金本親子二人が覗き込むと、そこには飴色の美しいバイオリンが入っていた。
「…………へー。」
その輝きが年季を得たものなのか、塗り直した物なのかは分からない。
ただ、傷もたくさんある。そこに何度も塗り重ねたようなニス。
ケースには弓が4本しまえるようになっていて、湿度計も付いていた。
「貰い物だよ。ケースは丈夫なの買ったけど。俺よく弓毛や絃、緩めたり切っちゃうから4本常備。」
「…………」
尚香は無言で眺めている。
「触る?」
「え?いい!大事な物なんでしょ?」
「いいよ。触っても。」
「いい!」
先の反応を見て怖くなるも、章は優しく笑う。
「多分、俺よりぞんざいに扱わないと思うから大丈夫だよ。」
「?」
ぞんざい?章君、ギター叩きつける人みたいに、ヴァイオリンも叩きつけるのかな?と考えてしまう。
「はい、どうぞ。」
と、ケースから出して尚香に差し出すので、
「うわ!うそ!」と、声にしてしまい、慌てて両手で下から支えた。
この家を構成するものと同じ木なのに、初めて触るような不思議な感触。慣れない不思議なカーブ。
そして、緊張のせいか、持ち方のせいか、思ったより重く感じる。
「……………」
固まってしまう。どうすればいいのだ。
そして、少し眺めてそのまま章に返す。何かしてしまったら恐い。
「いいよ。尚香さん、弾いてみて。」
「へっ?いい!弾けない!!」
「そう?」
章は受け取り、ウクレレのように抱きかかえ、指だけで簡単にメロディーを弾いた。
小さな居間に、小さく軽快な音が数秒流れる。
「へー!すごい!」
「きれいだな。」
4小節ほどの意味もないメロディーなのに、お父さんは手を叩いてくれる。
「普通に弾くと音大きいから。こういうことすると叱られるんだけどね。一時期お琴や三味線に憧れてて、よくお琴みたいに使って子供の頃叱られてた。」
章君らしいと尚香が笑う。
「でも、小さい時頃なら、弾き方なんて分かんないもんね。」
「そう?」
音楽ができる人に囲まれていると、いろいろ直されたり叱られたりするけれど、一般の人は音のイロハも楽器のイロハも分からないので、どう扱っても何も言われないことにほっとする。正解など知らないのだから。
章は思い出す。ずっと昔を。
まだ、指を口に咥えているほど小さかった頃。
「何その持ち方!教えたのになんでそんなふうに弾くの?!バカにしてるの?変な癖付けないで!!」
ひどく怒鳴られた記憶。
それからある日。
パチンと何かが弾かれる。
「何をしているの!!」
こんなふうにも音が鳴るんだと、家に数本あったバイオリンの一本を床に直置きにして、一人で夢中で弾いていた。すると、いきなり部屋に入って来たピアニストに叩かれたのだ。
「楽器をバカにするってことはねっ、その歴史もバカにしてるんだから!!だいたい触るなって言ってんでしょ!!」
「勝手に使ったら、手垢や汗の手入れができないのに!あんたが拭くの?!貴重な木なんだよ!」
神経質だったあの人。
あの声を聴くと、世界がチカチカした赤になるから、無色の場所を探して一生懸命逃げていく。
あの人はピアノにもバイオリンにも普段は近寄らせてくれなかった。
しょうがなく章は無言で隣の部屋に走って行き身を隠す。少し時間が経ってもあの人が来ないと分かると、狭い出窓に寝転んで、隣から聞こえてくるピアノの音と、他の生徒たちの音をじっと聴いていた。
でも分かる。
圧倒的にきれいな、でも何か重みがないと出せない、渋みのあるその人のピアノ。
震える背筋。低く、でも高くもあるあの、どこかの声。
けれどそれは、
いつまでも完成されない。
思うように楽器を持たせてもらえなかった章は、その人のピアノを聴くか、父の書斎のコンポの使い方を教えてもらい、クラシックから民謡からポップスまで3000枚近くあった祖父からの父のコレクションを延々と延々と、延々と聴いていた。
「ねえ章君。」
「ん?!」
「LUSHでも弾くの?」
「LUSH?」
「バンドでもヴァイオリン弾くの?」
「っ………」
しかしそれは禁句だったのか、章は直ぐは答えられない。
「……バイオリンは………あんまないかな……。とくに要らないし。」
「そうなの?」
「ウチ、普段ギターいないんだけどそういう音の方が、今作ってる曲には合うから。」
「そうなんだ。でも、毎日持ち歩いてるのに。」
「………いつか役立つ時のために………」
「そっか………出番があるといいね。」
はっきりしないことを言うも、尚香はそう答えてくれた。
「あ!そうだ。忘れてた。そういえば真理ちゃんが怒ってたよ。」
思い出すように章は言う。
「真理さん?」
「1万円で縁切りされた!ライブ誘ったのに無視されたっ、着信拒否までされた!って。」
「え?なんで?」
「真理ちゃんにさ、1万円も要らない!借りが増えただけじゃん!こんな縁切りする人のお金要らない!って、怒って突き返された。」
「………うそ……」
そうなるとは思わずに、驚いてしまう。
そして、カバンから章に預けた商品券を出されるのでショックを受ける。本当に突き返されたのだろう。
「あ!もしかして!!」
そう、あのメールで来たチケット。もしかして真理からだったのだのか。
「あ……そうだ。忘れてた………」
飲み会の日、ちょうど二人で話し込んでいた時、真理はピアノも電子オルガンもサックスも、ギターも弾けるとなって、すごーい!と盛り上がっていた。お酒に強いとは言っても、気は大きくなる尚香。酔うと何でも面倒を見たくなるタイプだ。
『真理さんはいくつですかー?』
『24です。』
『じゃあ、自分のことは『私』と言って下さい!』
『ほっといて!まりはまりなの!!』
『真理さんおばあちゃんになっても、まりって言うの?』
『ワラワでも拙者でもオラでもまりの勝手です!!まりの人生に関係ないのにあれこれ言わないで下さい!』
『……そうだね……。功君と距離も置かなきゃいけないしね……』
『え?じゃあ、うちのライブ聴かないままお別れするの??』
『そうですねー。』
ウイスキーが回って、程よく気持ちいい。
『それはダメ!!まりがライブに誘います!!』
『イットシーは無理かな……』
『まり、今度別のライブハウスでジャズするんだよ?イットシーじゃないよ。』
『ジャズ?イットシーじゃないの?』
『だからそれ聴きに来て。功も関係ないし。』
『他で演奏できるの?イットシーとの契約とかは?』
『大丈夫です。時々社長も来る店だし。だから来て!まり頑張るから!』
『………』
『来てってば~』
『うーん。イットシー関係ないなら行く!』
『わーい!じゃあ、番号教えて!今度チケット送るから!』
………という一連のやり取りをなんとなく思い出す。
イットシーとナオと和歌が強烈過ぎて、尚香的に強くない真理が記憶から抜けていたらしい。世の中的には真理はかなり強烈なキャラだが、尚香の中で章と同じ枠にしてしまったためすっかり忘れていたのだ。というか、後回しにしていた。
久保木本部長のこともあり、このところイットシー自体を忘れていたのだ。
「………はぁ………」
「真理ちゃん、泣いてたよ。」
「うそ!」
「ほんと、ほんと。」
やってしまった。あんな話し方なのにメールは敬語とは。多分タメ口でも消していたけれど。
「約束しておいて着信拒否とか、ほんと尚香さん最悪だよ。」
ぬけぬけとほざく、この男。
「尚香、何か約束したなら、果たすにしてもできないにしても、きちんとしてあげなさい。」
お父さんも横で言う。
「………」
申し訳なさそうに何か考えている尚香に、章は「やっぱり尚香さん、ばっかだな~。うちのメンバーなんてみんな打たれ強いからほっとけばいいのに」とまた思うのであった。




