18 2階は不可侵領域
山名瀬章の生活は朝4時に始まる。
起きたら顔を洗って着替えて軽くストレッチ。30分ほど聖書や本を読んで、体を動かしてから柔軟。
それから発声練習…………
ではなく、
2時間ほどバイオリンを弾いて、また運動をして外にランニングに出掛ける。
走るのはだいたい5~7キロだ。天候や空気の悪い日は家かジムのランニングマシンで済ませる。イヤホンは片方だけか、もしくはしない。気分やその前後のスケジュールで、バイオリンを後に弾くこともある。より早朝の方が人に会いにくいと気が付いてからは、夏はランニングを先にするようになった。
以前は細かい回数や時間がすべて決まっていたが、ライブを始めたり、ツアーに出るようになってから気分で変えることができるようになった。というか、そうせざる負えなくなった。
それからさらに1時間ほど筋トレやボクシングトレーニングをして、最後にバレエ式の柔軟をする。アイドルをしていた時に、バレエ経験のある女子から一通り習ったのだ。そのせいか何なのか分からないが、身長180センチ以上ある体で今でも180度以上開脚できるので、周囲に変態と言われている。
いったんそのルーティンで、気が済んだら朝食を食べるという感じだ。
お気に入りはノンフライのジャガピコ。
そして、だいたい午前9時以降に誰かから「ボイトレはしたのか」「ふざけんな。鍛えんな」「朝から菓子食うな」と電話が掛かって来て、しょうがなくボイトレを始めるも、5分後にはまたバイオリンを弾いているという生活をしている。
というわけで、「毎日一生懸命生きている」と尚香さんに説明しているのは、「章君って仕事してるの?」「毎日遊んでるの?」「遊びもせずにダラけてるの?」「本当に年収100万もあるの?」と、心外なことを言われた章君である。
本当は尚香も、今となってはそれなりに収入はあるのだろうとは思ってはいるが、流れに流れるアーティストや芸能関係という水商売。仕事がなくなるかもしれない未来まで考えて、散財しないようにくせを付ねば将来やっていけまい。
「章君っておばかなの?」と、普通の顔で辛辣なことを言う尚香だが、章からしてみれば尚香の方が馬鹿である。
今日なんと、章にデパ地下の包みを持たせたのだ。
「章君、イットシーの女性の方に渡してね。」と。
んん?と、中を見ると『ショコラショコラ』というお店の生ケーキセット。
「チョコが苦手な人もいるかなと思って、抹茶とチーズと紅茶の4本セットだよ。」
「??なんで?」
「前の夜にご馳走してもらったから。お酒下さったプロデューサーさんにも伝わるようにしてほしいな。ナオさん真理さんにもありがとうって。」
「え?いつ?」
「真理さんの家で飲んだの。」
「??知らないんだけど。」
「章君たちはスケジュールあったでしょ?」
「え?それ、勤務時間だし!」
「社長さんが許可したみたいだけど。章君、自分は普段、勤務時間にうろちょろしてるのに何言ってるの?」
「ライブは別っしょ!……あっ!あの、真理ちゃんが来てたのにいなくなってた日か!!俺無視で!」
尚香が上下部屋着で人前に繰り出した日である。最悪な日であったので、そっちを思い出してほしい。
「残念ながら、女子限定でした。イットシーの皆さんにありがとう伝えておいてね。」
「………」
ボーと紙袋を見ていた章は、この人ばかだなと、尚香を見る。
「…………尚香さん頭大丈夫?」
「……何が?」
急に変なことを言われて章を睨む。
「俺に関わりたくないなら、一回飲みで奢ってもらったことなんて、ほっとけばいいんだよ。」
「名指しで1瓶貰ったのに、そんなわけにはいかないでしょ?プロデューサーさんからだよ?名刺までもらって、突然家にまで上がらせてもらったのに。」
それに、高そうな生ハムとフルーツを冷蔵庫から出されて、家主真理は「まりのご褒美なのに~」と文句と言っていた。他、チーズ各種、クラッカー、マリネなどみんな遠慮なく人んちの冷蔵庫を漁っていたのだ。あまりにかわいそうである。
「これもね。真理さんにアルマートの商品券も。家のものたくさん食べたから。」
高級食材のマートである。
「ないない!こんなものいらない!!真理ちゃんも加害者だし!」
「それと、家にお邪魔した件は別だよ?」
「別にしなくていいし!どうせ真理ちゃん一人では全部食べないよ。外食多いし、口は悪いけどそういうの気にしないタイプだし。」
人の生活を勝手に決めている。
「章君のことではありません!」
「…………」
ほんとバッカだな~と章は呆れる。自分がしたことながら、あの日の状況で尚香に非などあるわけがない。平手打ちして去っていいくらいである。
「尚香さんも地位に弱いの?プロディーサーからお酒送られてコネ作ろってタイプ?」
「普段、自分の面倒を見てくれている人たちに何を言ってるの?」
「自分??尚香さんの面倒?」
「章君に決まってるでしょ!!」
「??……!!」
尚香もエナドリファン同じく、章のお母さん役になってしまったのか。それとも、女性だけだったという事に気が緩んでしまったのか。ああ見えても、マネージャ―ナオは人を絆すプロである。
「………」
持たされた紙袋と尚香を交互に眺めて、章は変な気分になる。
「尚香さん、これホント、渡さなくていいよ。もうお見合いなかったことにするなら、人生からイットシーを消去しなよ。」
「なら、章君もウチに来ないでね。」
「それとこれとは違うし。」
「それで章君のしたことチャラにするから。」
最近、章が家にいても尚香は何も言ってこない。お付き合い相手どころか、完全に年下の従兄弟か弟である。
「……なら、尚香さんが渡しなよ。」
「もうイットシーの人とは会わないってば。だから章君に頼んでるんだよ。それで区切りつけるから、お願いね。」
「今日は行かなくていいし。」
「………?ライブは毎日じゃないの?」
そういうわけで、「章君はいつもウチに来て本当に仕事してるの?!」という先の話に戻るのである。
「毎日行かないし。月曜LUSH、お休みだし。」
「………仕事ない日はアルバイトでもしたら?50日間日給1万円として年50万。10年頑張れば500万だよ。」
下手したらばかみたいな税金になるが、それは言わない。
「無休で俺を殺す気?」
根性を抜いて考えれば、体力だけなら365日働けそうな顔をしている。働く気だけでも今から養っておかなくてはなるまい。
「ちゃんと仕事してっるってば。……だったらさ、ライブ来てよ!平日は夜。休日祝日は2回はするよ?会社帰りに来るサラリーマンも多いし。」
「……行きません。身内優遇とかで、この前叩かれてた芸能人いたし。放っておいてください。」
「………えー、大丈夫だよ。アイドルとかだと、家族とかライブに呼ぶ人多いよ。親子ってだけでテレビ番組出たりする人もいるし。スタジオだけじゃなくて、普通の一般人なのに海外旅番組出たりもするんだよ。」
「それは韓国の話でしょ?柚木さんに見せてもらった。」
自分家族じゃないし、と尚香は思う。まだ先月会ったばかりの上、お見合い相手である。
「よっぽど出しゃばったり性格が悪いとかじゃない限り、SNSとかに兄弟や親戚が出ても歓迎されて盛り上がるし。」
「だから、日本の話じゃないでしょ?日本はそうはいかないから。」
「だいじょーぶだってば。尚香さんどっからどう見ても、背景に馴染むし。ライブ来ても誰の記憶にも残らないよ。」
「………」
また、この男を睨んでおく。自分でも分かってはいるが、この男に言われるとムカつく。
「行きません。」
と、尚香はさっさと2階に行ってしまった。
2階は男子不可侵領域である。
***
そして、次の日。株式会社ジノンシーの方では新しい本部長が就任してきた。いつもより大きい会議室で全部署が集まり、朝礼が行われる。
「よろしくお願いします。久保木孝成と申します。」
簡単に自己紹介し、このフロアの全員が部署と名前だけ言っていく。その後少し説明があり、部長が締めてから解散した。
30代後半らしいが、新しい本部長はいかにも仕事ができそうな雰囲気もありつつ、笑うと柔らかい。そして思ったより若い。
「ヤバい、スパダリが来た。」
ディスクに戻ってぼやく兼代に、思わず尚香が聞く。
「スパダリ?何それ。バリスタっぽいの?」
「スーパーダーリン!」
「??」
ますます意味の分からない尚香。
「兼代君は男の人が好きなの?…」
「尚香さん、違います!スパダリとはこういうものです。」
と、川田が恭しくスマホの検索を差し出した。
「!?」
そこに出ていた画像は、ほぼ漫画絵のイケメン男性とかわいい女性。検索に「オフィスラブ、上司」も加えておいたので、スーツを着ている身長180を余裕越えな男性が、柚木や川田のようにちょっとフェミニンなOLを抱きしめている絵が凛冽している。時々、美香のような大人女子だったりもするが。おそらく漫画か小説の表紙であろう。
「オフィスラブ?」
「見た目お金、社会的地位レベルMAX!財閥子息も多し。家事までできて、ちょっとだけ主人公の前で抜けたところもある、激・溺愛系のパーフェクトスーパーダーリンの事ですね!」
「……??」
ますます分からない。
「わー!今月の運勢いいんだけど、玉の輿乗れちゃう?」
今日も楽しい柚木。よくある日週月占いって誰が見るんだと思っていたが、柚木のような者が見るのかと納得する皆さん。ただ柚木は全てをプラスに考える性格である。
「………………」
もう一度スマホの画像を見ながら、章を見るのと同じくらい、冷めた目で兼代を見てしまう。
「きょう赴任したばかりなのに……すごく失礼だと思う……。」
「本気で考えないで下さいよ。内輪だけの感想です!」
「……そう。みんな頑張ってね。」
「みんなって俺も込みですか?」
うるさい兼代。
どの絵にも全く似ていないし、久保木さんはこんなにキラキラしていない。青年誌のサラリーマン漫画に出てきそうと言われた方がしっくりくる。スパダリは、尚香の脳変換には全くピンと来ない系統であった。
「尚香さん!なんすかその目!だって、日英仏のトリリンガルで、日本では本部長ポジで、アメリカでも前職では幹部クラスじゃないですか!時計見ました?」
「ブランド物?」
「いや、普通のセイカーですけど。」
普通に日本ブランドだ。
「3万円もしなくてベルトと色違うけど、俺も持ってます。ここで、庶民派アピールですかね。でも、オーダーのスーツですよ?着こなしが違います。」
「兼代君だってオーダーでしょ?」
「店が違います!今日の俺はスーツの高木で、プラス1万円もう1着セールの時に買いました。」
「なるほど。言わなきゃバレないのに。」
「ちょっと兼代さん、一応ウチ、営業や外回りの部署でもあるのでもう少しいいの着てくれませんか?大手に行くことだってあるんですよ?」
川田が怒る。
「今日は内勤だし、元のスーツも6,9990円です!それに、みんなの知ってる時計をしてると、出先で時々盛り上がるんですよ。」
今日は、懐かしのZショッキングの腕を見せてイキる。
「…………」
これまでも曲者だとは思っていたが、兼代も章よりはまともなくらいだと、またゲンナリする尚香であった。
ただ、彼のような性格は、放置していれば勝手に盛り上げてくれるので宴会や営業では心強いのである。




