魚の姫
三題噺もどき―にひゃくはちじゅうご。
昔ある所に、大きな川があった。
その川は、国と国の境としての役割を持っていた。
二つの国は、たいへん良好な関係を築いていた。
その友好の証として、川には大きな橋が架かっていた。
橋は、多くの人が行き交い、毎日が賑やかだった。
商人をはじめ、橋の近くに住む村人や、遠くから来た旅人、富豪の乗った馬車。
在りとあらゆる人々が、生活のためにその橋を使っていた。
しかしある日。
橋を渡る人が、パタリと途絶えた。
それぞれの橋の出入口が、封鎖されたのだ。
隣国同士の関係が悪化したとか、何かの争いが起きたとか、そんなことではない。
その封鎖に異論を唱えるものなど、誰一人としていなかった。
それは、告知されていた封鎖であったし、その理由もしっかりと伝えられていた。
その日。
一台の馬車が橋を渡った。
真白な二頭の馬。
彼らが牽くその車は、美しい装飾が施され、今までその橋を渡ったどの馬車とも異なっていた。
大抵の馬は、栗毛か黒毛だったし、車はあれに比べてしまえばすべて質素だ。
それもそのはずで。
むしろ、そうでなければいけない。
―乗っているのは、王族なのだから。
一国の王子である。見目麗しい、優しき王子だ。
隣の国のパーティーにご招待を頂いたようで、そのために馬車に揺られていた。
まぁ、当の本人は全く乗り気ではないので、馬車の窓を開いて。
外をぼうっと眺めていた。
つまりは、王族がその橋を渡るから、念の為に封鎖しておこうと言うことだろう。
それなりに国民からの人気も高い王子なので、何があるかわからないのだ。人が詰め寄りでもして、怪我人でも出てみろ。馬が暴れたりしてみろ。何が起こるかわかるまい。
用心に越したことはないということで、橋は封鎖されたのだ。
だから、その日。
その橋に人は居なかったし。
その馬が見られることも。
王子の顔を誰かが拝むことも。
誰の目につくこともなく。
橋を渡った。
―はずだった。
王子がぼうと見つめる先には、川が流れている。
橋がかけられている川だ。
どこまでも続く、広大な川。
その時にでも、王子が『ナニカ』の視線に気が付けば、その悲劇は起こらなかったかもしれない。
―ただまぁ、それは王子にはあずかり知らぬところで始まり、終わる。だから王子に否はないし、問いただしたところで何も分からない。むしろこの悲劇を誰が問いただすのか……当事者がいなければ居ないだろう。
その川には、たくさんの魚が泳いでいた。
海と繋がるその川は、多種多様な生物であふれている。
もちろん、魚の中にも、人間のように国があり、王があり、王妃があり、姫がいた。
魚の姫は、やんちゃで、聞き訳が悪く、年の割に頭も悪かった。
人に見つかれば捕らえられ、食われ、二度と戻ることは出来ない。そう、散々、王にも王妃にも教育係にも言われていた。それでも、姫は水面に浮かぶ。
その日も、姫は常に言われている注意を聞き入れず、水面に顔を出した。
そして、姫は忠告を聞かずにいてよかったと、心の底から思った。
―とても美しいモノを見たから。
それは、橋を渡る王子だった。
大変つまらなさそうな顔で、ぼうと外を眺めている。
憂いを帯びた、その顔は、姫にはとても美しく見えた。
初めてあんな素晴らしいモノを見た。
もっと近くで見たい。
―そう思った姫は、橋に近づこうとした。
その瞬間。
姫はナニカに捕まった。
なにに捕まったのかとくるりと視界を回せば、そこには人の形があった。
水から引き揚げられた姫は、息苦しさに襲われ、喚いた。
助けてくれと、咄嗟に。
もちろん、人にその声は届かない。
―が、姫は水に戻され、動くことは出来なくとも、呼吸は出来るようになった。
他の「人」が見れば、それには角が生えていたし、羽もあった。
それが、人ではなく「悪魔」であると、誰もが気づいただろう。
頭の悪い姫は、勉強もおろそかにしていたから、悪魔の存在も知らない。
この「人」は、魚の言葉が分かるのだと思ったのだ。
もちろん、人間に魚の言葉は通じない。
悪魔だから、通じただけだ。
そして、この世界には善人しかいないと思っている。
言葉が通じると勘違いした姫は、悪魔にこう告げた。
今橋を渡っているあの人に会いたい。もっと近くで見たい。人間のあなたならあの人のことを知っているでしょうか。あの人に会いに行きたいのです。どうか、どうか。助けてくれませんか―と。
悲し気に懇願する姫を見て、悪魔はこくりと頷いた。
悪魔は、どこまでも、悪だ。
頷いた悪魔は。
その代わりにと姫に告げた。
君の家に行ってみたい。魚の国があると言うのは聞いていたが、見たことがないのだ。貴女の国はどんなだろうか。あの箱がもう数刻すればこちら側にもっと近づくから、先にあなたの家に連れていってくれませんか。
―もちろん、悪魔は連れて行こうと思えば連れて行ってやれたし、もう馬車は渡りきる前だ。
そもそも、人間であれば魚の国のある底まで向かうこと自体が不可能だ。
悪魔だから、成し得る。
悪魔だと気づかずとも、そのお願いがされた時点で、おかしいと気づく。
が、この姫は、何度も言うが、頭が悪い。
自らの願いをかなえてくれるのならばと、悪魔の提案を受け入れた。
川の底にある、自らの国へと悪魔を連れて行った。
その後のことは。
想像に難くないかもしれない。
魚の国にやってきた悪魔。
思いのままに魚を喰らい、国を蹂躙した。
姫はただ唖然と、目の前で起こる出来事を見ることしかできなかった。
最後に残された姫は、にこりと笑った悪魔を見て。
もしや連れて行ってくれるのかとはしゃぎ。
ぐわーと開いた口に飛び込んでいった。
お題:悪魔・魚・馬車