10.悲劇にして喜劇
レオンはいまだマリエラのお人形である。そう断言した声の方を見ると、声の主はさっき話したあの令嬢でした。気高く胸を張り、意志の強そうな瞳をまっすぐに役人に向けています。
まだ戸惑っていた周囲の人たちから、少しずつ彼女に同意する声が上がり始めました。その声は次第に大きくなり、やがて大広間いっぱいに広がりました。
当のレオンはかわいそうになるくらい困惑しながら、マリエラの方に助けを求めるような目を向けています。一方のタチアナは全く動じていません。そしてマリエラは、怒りに煮えたぎった目で令嬢をにらみつけていました。視線だけで火傷してしまいそうになるほどの、それは恐ろしい目つきでした。
役人は静かな目でそれを見届けると、最後の羊皮紙の封を切りました。
「この三枚目は、客人の意見がまとまった時に開封するよう指示されています」
そして彼が読み上げた内容は、この場の全員の度肝を抜くものでした。
「……『もし、レオンが未だマリエラの支配を脱していない場合は、彼から公爵代理の身分を取り上げ、家から出すものとする。マリエラも家に残ることは許さない。公爵の座は、遠縁の者に引き継がせるものとする』……今回は、この記載の内容が適用されます」
先代公爵というのは、なかなかに思い切った方のようでした。おそらく、彼の生前からレオンとマリエラの関係は問題になっていたのだと思います。だから先代公爵はこんな手の込んだ遺言書を用意して、レオンに更生のための時間を与えたのでしょう。
しかし悲しいかな、その配慮は全く無駄になってしまったようです。きっと先代公爵も、今頃冷たい土の下で嘆いていることでしょう。
それともう一つ、レオンがまだ正式に公爵になっていないというのは初めて聞きました。彼もマリエラも、彼が既に公爵なのだと言っていましたし、周りの誰もその言葉を疑っていないようでしたが。
そんなことをのん気に考えていたその時、いきなり恐ろしい叫び声が響き渡りました。なんと、今までずっと涼しい顔をしていたタチアナが進み出て、役人にくってかからんばかりになっていたのです。
「どういうことですの! それでは、レオン様は公爵になれないということですか!」
「はい。この遺言書は正式な書式で作成され、先代公爵の署名もあります。これは問題なく効力を発揮します」
「そんなの聞いてませんわ! 私、公爵夫人になれると聞いてレオン様と結婚しましたのに! 家を追い出されるなんて、冗談じゃありません! でしたら、さっさと離縁させてくださいな! あなたは役人でしょう、早く離婚の書類を作ってくださいまし!」
どうやら当てが外れた形になったタチアナが、役人相手に八つ当たりを始めたようでした。そこに、髪を振り乱したマリエラが乱入してきました。ものすごい形相です。
「あなた、やっぱり地位目当てだったのね、この女狐が!」
その場のほとんどの人間が思わずたじろぐような恐ろしい顔をしたマリエラに、タチアナは一歩も引くことなく冷たく言い返していました。どうやら、タチアナは噂以上に気が強かったようです。
「ええ、そうですわ。それが何か? 少なくとも、事あるごとに暴力を振るってくるあなたよりはましだと思いますが」
結婚祝いの場から一転して、強烈な女性二人の泥仕合の様相を呈してきました。私はつくづく当事者でなくてよかったと思いながら二人の口論を眺めていましたが、隣のセルジュは少しばかりこの状況を面白がっていたようです。どうにかこうにか取りつくろってはいましたが、よく見ると目が輝いていました。猫の喧嘩でも眺めているような気分なのでしょうか。
と、どんどん白熱する二人の戦いにいきなり水を差す者が現れました。ここまでずっと黙っていたままのレオンでした。
彼は相変わらず頼りなさげな目つきのまま、マリエラに近づくとこう言いました。
「お母様、どうしましょう。家を出ろと言われても、僕にはどうしたらいいのか……お母様、いつものように僕がすべきことを教えていただけませんか」
とても公爵、いえ公爵代理とは言えないその情けなさに、客人たちからは一斉に困惑のどよめきがもれました。みなレオンがマリエラに頼りきりだということは知っているのでしょうが、まさかここまでひどいとは思っていなかったようです。私も、ここまでだとは思ってもみませんでした。
今までマリエラとやりあっていたタチアナが、呆れたような顔でレオンに声を掛けます。
「また『お母様』ですの? あなたがそんな体たらくだからこんなことになってしまったというのに、少しはしっかりしようとは思いませんの」
「タチアナ……そんなことを言われても、本当に僕には何も分からないんだよ。でも、僕が君を愛していることに変わりはない。どうかこれからも、僕と一緒にいてくれるね?」
「先ほどの話を聞いておられなかったんですの? 私はあくまで、公爵夫人としての座を得るためにあなたに近づいたんですのよ」
「そんなことはどうでもいい。僕は君を愛している。その事実があれば十分だ。僕たちは一生ずっと一緒だよ、愛しいタチアナ」
少々風向きが変わってきたようです。冷たくレオンを突き放すタチアナに、彼はあくまでもにこやかに笑いながら迫っていきました。真実の愛とやらも、ここまでくると不気味です。
その二人の間に気を取り直したらしいマリエラが割って入り、すっかり混戦になってしまいました。三人が三人とも、自分の主張だけを好き勝手に言い立てています。それはなんとも醜い争いでした。
客人たちは困惑した顔を見合わせては、一人また一人と退出していきます。私がぽかんとしながら三人の争いを眺めていたら、セルジュに腕を引かれました。
「俺たちもそろそろ帰ろうぜ」
「そうね。あの三人、いつまでああやってもめているつもりなのかしら」
「さあな。誰にも分からないな。もしかしたら一生あのままかもしれないし」
そこで彼は言葉を切り、まぶしい笑顔をこちらに向けてきました。
「けれどどうやら、お前の苦労もこれで本当に終わりみたいだな。良かったな」
私はただセルジュだけを見つめて、にっこりとうなずきました。そして一度も三人のほうを振り返らずに、彼と一緒に退出していったのです。