1.悪夢の婚約
「アンジェラ、お前に婚約の申し込みが来ているんだが……」
お父様が手にした封筒、そこに描かれた公爵家の紋章を目にして、私は思いっきり顔をしかめました。淑女としてあるまじき行いですが、どうにも我慢がならなかったのです。
婚約を申し込まれるということは令嬢にとって光栄なことですし、申し出が来たなら普通は大喜びするものです。
しかし今回は、相手が悪すぎました。できることなら何も見なかったことにしたい。けれど格上の家からの申し出を突っぱねる訳にもいきません。なにせ私の家は、古いだけが取り柄の何の変哲もない伯爵家に過ぎないのですから。
私のしかめっ面を見たお父様は申し訳なさそうに肩を落とし、ため息をつきました。
「こんなことになる前に、お前にちゃんとした嫁ぎ先を見つけておくんだった。本当に済まない」
「お父様、過ぎたことを悔やんでも仕方ありません。こちらから断ることなんてできませんし、うまく逃げるしかないでしょう。……他の令嬢たちのように」
「ああ、そうするしかないな。私の方でも、何かいい口実がないか考えておく」
一通の封書がもたらすであろうこれからの騒動が嫌というほど予想できてしまって、私はお父様と浮かない顔を見合わせました。
私に婚約を申し込んできたのは公爵家の当主レオン。私とそう年の違わない彼は、父親が亡くなったのをきっかけに、若くして家を継ぐことになったのです。
しかし彼は良縁に恵まれず、婚約を申し込んでは破棄することを繰り返していました。彼と婚約した令嬢は、みな原因不明の病に襲われ、床を出ることすらままならぬようになってしまったのです。そしてほどなく彼女たちの実家から、どうか婚約を破棄してくれ、という申し出がされるのが常でした。こんなひ弱な娘を嫁がせるのは申し訳ないと言うのが、親たちの言い分でした。
何も事情を知らない大多数の貴族たちは、彼の相次ぐ不幸に同情していたようでした。けれど私を含む一部の貴族は、その不幸の真相を知っていました。今までに彼と婚約した令嬢たちは、みな仮病を使って婚約を破棄に導いたのだということも。そこまでして婚約から逃げたくなるだけの事情が、そこにあったということも。
小さくため息をつきながら、私はレオンのもとに向かいました。まるで、断頭台に向かう囚人のような心持ちで。
線が細くひ弱そうな面差しに、どこか頼りなさげに揺らいでいる黒い目。良く言えば育ちがいい、悪く言えばかなりの世間知らずといった雰囲気を漂わせたレオンは、それなりに整った顔に人の好さそうな笑顔を浮かべて私を出迎えました。
「よく来てくれた、アンジェラ。君が僕の申し出を受けてくれて嬉しいよ」
その晴れやかな笑顔に、私の胸はほんの少しだけ痛みました。彼は婚約が成立したことを純粋に喜んでいるようでした。しかし私は、どうにかしてこの婚約を破棄に導こうとしているのです。
しかしそんな罪悪感も、次の瞬間見事に吹き飛びました。彼のすぐ後ろから、ねちっこい声が私に投げかけられたのです。
「あなたがアンジェラね? レオンの妻としてふさわしい女性となれるように、私がしっかりと教育するからせいぜい覚悟しておくことね」
さかりのついた猫の鳴き声のように妙に後を引いた甘ったるい声の主は、彼に寄り添うようにして立っている中年の女性でした。ところどころ白いものが混じった黒い髪の彼女が、レオンの母マリエラです。
彼女とレオンは、顔立ちそのものはよく似ているようでしたが、浮かべている表情があまりにも違っているせいで、まったく違った印象を与えます。レオンはどこまでも頼りなく、マリエラは恐ろしいほど我が強く傲慢。それが、私が二人に抱いた第一印象でした。
そして彼女が高らかに言い放った言葉は、かつてレオンと婚約していた令嬢たちに投げかけられたものと一言一句違うところはありませんでした。
何を隠そう、彼女こそがレオンを襲っていた不幸の原因でした。息子が可愛くて可愛くて仕方がない彼女は、いつも息子のそばにいて彼の世話を焼き、恐ろしいほど甘やかしていたのです。まるで、幼い子供の世話をするように。
それだけならまだ目をつぶることもできたのでしょうが、彼女は息子のためだと言って、息子の未来の妻となるだろう令嬢たちをそれは厳しく教育したのです。ただの教育ならば何の問題もなかったのですが、マリエラのそれは度を越していました。伝え聞いた話では、それは教育ではなく虐待に近いもののようでした。
彼女は令嬢たちを客人として自分の屋敷に滞在させ、朝から晩まで見張り続けては一日中ねちねちと嫌味を言い続けていたのだそうです。「そんなことでは、我が家の当主の妻は到底務められないわ」「レオンに恥をかかせるつもりなの」「これだから、格下の家の娘は困るのよ」などと。こんなのはまだ可愛い方らしく、とても人には聞かせられないような罵倒も多々あったのだそうです。あと、しつけと称した暴力も。
公爵との縁談が持ち上がるだけあって、令嬢たちはみな品性と教養に優れた素晴らしい女性ばかりでした。王家に嫁がせても恥ずかしくないくらいだと、そう言われていたほどの人物ばかりだったのです。だからマリエラの行いは全くの見当違い、あるいはただの嫌がらせに過ぎなかったのです。
最初にレオンと婚約した令嬢は、あっという間に心を病んで床に伏しました。次に彼と婚約した令嬢は、すぐに身の危険を感じて実家に逃げ帰り、両親にすがってずっと震えていたそうです。仮病という逃げ道を編み出したのは彼女たちでした。
それからもレオンは婚約と婚約破棄を繰り返し、そのたびにマリエラの被害者は増えていきました。さすがに彼らが公爵家の者だということもあって大っぴらに噂されることはなかったのですが、それでも年頃の令嬢たちは陰でささやきあっていました。絶対に、彼のところにだけは嫁いではいけない、と。
最初にこの話を聞いた時、私はレオンもマリエラの被害者なのではないかと思いました。恐ろしい母親のせいで縁談がまとまらない可哀そうな息子なのではないかと。しかし被害にあった令嬢たちによると、彼もマリエラと同罪なのだそうです。
レオンはマリエラの行いを全て知っていて、それでいて一度たりとも彼女を止めようとはしなかったのだそうです。それどころか「やはりお母様は頼りになるな」などと見当違いの感想をもらしていたのだと、令嬢の一人は怒りをあらわにしながら証言していました。
その上彼は「お母様は一番偉くて誰よりも頼れる方なのだから、君もお母様の言うことに逆らっては駄目だよ」と追い打ちをかけることすらあったそうです。さすがにその時ばかりはレオンを殴ってやりたかったと、被害にあった令嬢は目をぎらぎらさせながら話していました。それを聞いていた他の令嬢たちは、みな恐ろしさと気持ち悪さに震え上がったものです。もちろん、私も。
彼と婚約した令嬢の一人は、それでもレオンに多少なりとも惹かれていたようで「私かお義母様か、どちらか選んでください」と彼に迫ったのだそうです。しかし彼は「もちろん僕は、お母様を選ぶよ。当たり前じゃないか」と即答しました。百年の恋も一度で冷めるような、それは見事な返答っぷりだったと彼女が冷ややかな目で語っていたのをよく覚えています。
ともかく、私は何としてもマリエラの毒牙から逃れなければなりません。全身をなめまわすようににらみつけてくる彼女の視線を感じながら、私はぶるりと身震いしました。恐怖からくる震えなのか、それとも武者震いなのか。それは私にも分かりませんでした。