第四怪 その2
3
土足で室内に入るというのは、なんとも据わりが悪かった。
板張りの廊下だからそれほどでもなかったのだけど、それが畳だったのならばかなり気持ちが悪いものだったに違いない。
そんなことを考えながら、僕は見たこともないぐらいに立派な屋敷の廊下を土足で歩いているのだった。
「……おかしいね」
「? 何がおかしいんですか」
足を止めないままでヘムロッドさんが呟いた言葉に僕は反応する。
「いや、派手に結界を踏み越えてきたからね。向こうはすでに侵入者に気付いているはずなんだが一向に迎撃してこないな、と思ってね」
「……ちょっと待ってくださいよヘムロッドさん。結界なんて踏み越えた覚えがないんですけど」
「言ってないからね。あの無駄に広かった玄関にあったんだよ。人払いのやつとかじゃなくて、感知の為のものだったから空木クンや笠酒寄クンでは気付けなかっただろうね」
かなりクリティカルな事態になってしまっている気がするのだけど、思い過ごしだろうか?
「それって、攻撃してくるやつとかだったらどうしたんですか?」
笠酒寄は僕の疑問を代弁してくれた。
「まあそうだね、適当に解除していたかな。結界術は専門じゃないのだけど、多少の無理はできるつもりだからね」
才能ある相手っていうのはこれだから手に負えない。
凡人がいかに手練手管を用いても、正面から粉砕してくれるのだから。
だが、それならそれで別の疑問が発生する。
「でも、ヘムロッドさんは結界に気付いても壊しませんでしたよね?」
その通りだ。攻撃性を持っていなかったからか? いや、僕の予想だとそういうものじゃない。
「少しは相手の戦力を分散できると思ったんだが、生憎と誘いには乗ってきてくれなかった。薄情なものだよ」
警報装置が働いたのならば、確認したくなってしまうのが人情というものだ。
それを逆手に取って、ヘムロッドさんは先遣隊を返り討ちにして敵戦力を削るつもりだったようだ。
しかし、それは空振りに終わっている。
意外にも、相手は徹底的に迎撃の体勢を崩すつもりはないようだ。
こっちの戦力は三人。一方、向こうの戦力は未知数。
笑えてくるぐらいに絶望的だ。
正直、なんでヘムロッドさんが自信満々に乗り込んでいるのかがわからない。
ここは統魔に連絡して応援を待つのが得策なんじゃないだろうか? そんな風な考えが思考の端に浮かんだことは否定できなかった。
「空木クンの言いたいことは大体予想がつくよ。だがね、黒幕は統魔日本支部の統括なんだ。決定的な証拠が無い状態では統魔は動けない。となれば現場を押さえるしかない。……いざとなったら私個人の暴走という形にして収めるつもりだからね。そのときは二人が操られていた事にする」
責任はあくまでヘムロッドさんが取る、ということか。
僕も笠酒寄も協力していたのではなく、協力させられていた。そのスタンスで行くつもりらしい。
「さて、おしゃべりはここまでにしようか。この先に元凶がいるようだ」
ヘムロッドさんが足を止めたのは、何枚も横に並んだ襖の前だった。
引き返すことはできない。
全てを得るか、全てを失うか。
殺生石なんて物騒なモノを使って何をするつもりなのかは知らないが、少なくとも室長にかけたちょっかい分は言ってやらないと僕も収まらないのは確かだ。
手を握ってきた笠酒寄の顔をじっと見てから、僕はヘムロッドさんに向かって頷いた。
「どけ」
ヘムロッドさんが発したのは短い一言だった。
その一言で、並んでいた襖は全て吹っ飛んだ。
……室長といい、ヘムロッドさんといい、魔術師はまともに出入りするのが嫌いなのだろうか?
奥に向かって吹き飛んだのではなく、横に吹き飛んだ襖達は二度と使用に耐えない程度にはぶっ壊れた。
そして、僕は見た。
襖の向こう、まるでお寺の伽藍堂のような広い空間。
その中には数人の人間がいた。
その中央に鎮座していたのは間違いなく殺生石だった。
ヘムロッドさんの手が閃く。
飛んでいった金属片は十三。
室内にいた人間の数と一緒だった。
いくつかは命中し、そのまま皮膚にへばりついて体内に侵入し始める。
他の者は、防御するなり回避するなりして何かの印を組んでいた。
しかし、遅い。
ごぎん、ぼぎん、めぎん、ばぎん。
端の方から順番に僕の能力で指を滅茶苦茶にする。
視線さえ通っていれば下手な魔術なんかよりも僕の能力のほうが早い。
かなり痛々しい悲鳴が上がったのだけど、今だけは気に留めない。そんなことをしたら僕達のほうがひどいことになってしまうのは火を見るよりも明白だったからだ。
なんと言っても、部屋の中にいた人間達の視線の鋭さと言ったら無かった。
あのキスファイアでもここまで明確な殺意は向けていなかった。
今は、それが仇になったのだけど。
明確に敵意を向けてきてくれているのならばやりやすい。ここに来るまでに大分色々苦労させられたんだ。僕もちょっとばかり凶暴な気分になっている。
次々に指をへし折って、余裕こいてる最後の一人の指を折ってやろうとした瞬間、僕は違和感を覚えた。
僕は確かに能力を発動しているのだ。しかし、その人物の指はひしゃげるどころか、微動だにしていなかった。
ここで初めて僕は、無事に立っているその人物の顔を見た。
老人だった。
ヘムロッドさんよりも見た目は年上。七〇歳は軽く越えているだろう。
痩身を和服に包んで、悠然と僕達を見ていた。
だが、その深く刻まれた皺からにじみ出る狂気は隠しようもない。
なんというか、立ち姿から異質だった。
「やあ、木角。殺生石なんてどうするつもりだい? それはB指定ではあるが、発見された場合は一度回収して調査するのが基本だということぐらいは知っているんだろう?」
ごく軽い調子で、友人にでも話しかけるかのようにヘムロッドさんは言った。
「……ヘムロッド・ビフォンデルフ。統魔本部の者が何用だ? 勝手に敷地内に立ち入って申し開きがそのような言葉であるとは……外人は礼儀を知らんとみえる」
憎悪に満ち満ちた目線をヘムロッドさんに送りながら、木角と呼びかけられた老人は答えた。
おそらく、この老人が統魔日本支部統括、木角利連なのだろう。
親でも殺されたかのようなその敵意は、老人の周りを渦巻いているかのように見えた。
「礼儀なんてものは二の次だよ。それよりも私の質問に答えてくれないかな? こっちはこういう物を持っているんだよ」
ヘムロッドさんが取り出したのは、あの白い林檎が描かれたペンダントだった。
だが、木角はまるで子供だましの玩具でも目撃したかのように鼻で笑った。
それは、開き直りだったのだと思う。
「ふん、そんなものは知らん。ここは日本で、儂の屋敷ぞ。他人に口を挟まれる筋合いはない」
歪んだ顔で表現したかったのは、笑みだったのだろうか? 僕にはただただ嫌悪感しかなかった。
老醜を晒す、そんな言葉なんかじゃ生ぬるい。これは、もっと毒々しい物だと思う。
もっと原始的で、感情的で、抽象的で、そしてなによりも利己的な……僕が感じ取ったのはそういった類いのものだった。
「知らない? キミは日本支部の統括なんだろう? 好き勝手にできる立場には無いと思うのだけどね。……それとも、いつでも私達ぐらいならどうにでもできるという自信かな?」
「何のことやらわからぬな。濡れ衣を着せられるようならば、木角利連の名を以て抗議せねばならんのだろうが、生憎と今は多忙ゆえ後日にしてもらおうか。……今なら無礼は不問にしてやろう」
すっとぼける木角だったのだけど、そんなことを許すヘムロッドさんじゃなかった。
「私が受けている命令はこうだ。『日本支部において行われる可能性のある反魂術をいかなる手段を以てしても阻止せよ』。……安倍晴明の復活なんて未知数なことはさせられないね」
安倍晴明、という名前が出て木角の表情が変わる。
言いようのない嫌悪感を覚える表情から、わかりやすい憤怒の表情に。
歯を剥き出しにして、充血した目で見られるなんてのは普段なら遠慮したかったのだけど、あの気持ち悪い顔よりも何倍かはマシだった。
しかし、安倍晴明ときたか。
それぐらいは僕も知っている。
おそらくは、日本で一番有名な陰陽師なんじゃないだろうか。
誰しもどこかで聞いたことがある名前だろうし、題材にされている作品も数え切れない。
逸話には事欠かないし、その謎めいた人物像がいやに魅力的なんだろう。
そんな、おとぎ話の登場人物並の遠い存在を蘇らせようというのか、この老人は?
「……貴様ッ! 何処まで知っている⁉」
「なに、これまでキミが関わってきたであろう事件を追っていくとわかるさ」
唾を飛ばして詰問してくる木角に対して、ヘムロッドさんは全く平然としていた。
「まず八月の事件。私の弟子が拘束されたときに回収するはずだった三つのアイテムがあった。しかし、一つだけ回収されなかった。『反魂術応用』。死者の魂を呼び出し、それを使役するための方法が記してある」
八月、夏休み最後の事件。
そう、僕が一番後味の悪い思いをした事件だ。
「次に、阿次川雑路。彼は元を辿ると陰陽師の傍系にあたるそうだね。情報を掴むのには苦労しなかったはずだ。接触して、ヴィクトリアをおびき出す餌にした。そして、食いついた魚を漁師が獲った。まあ、時間凍結の魔術で拘束したのは予定外だったのだろうけどね。なにはともあれ、感づきそうなヴィクトリアを封じた」
室長が拘束されてしまった合成獣の事件。
僕や笠酒寄には阿次川雑路の情報は回ってきていなかったのだけど、ヘムロッドさんにはきていたらしい。いや、もしかしたら独自に調べ上げたのかも知れないけど。
「そしてファフロッキーズの怪。これは多分、囮用にしようと思っていたんだろうね。本来はヴィクトリアの目を逸らすためだったのだろう。あわよくば、騒動になって統魔の目をそちらに向けることも考えて、か」
降臨させようとしていたのは熾天使。
確かに、成功していたら一騒動なんかじゃ済まなかっただろう。ミカエルなんて降臨してしまったらそれこそ統魔全体で必死の隠蔽工作を図る羽目になってしまっていただろう。
「最後に、殺生石。九尾狐の要素を満たすこの石は、狐が母親であるという逸話を持つ安倍晴明復活の媒体としては上々だろうね。以上の点から、私はこの事件群の背後にいるのは統魔の中でもそれなりに上の地位にいて、高い実力を持ち、更には現状に不満がある人物。……歴史の影で細々と続いていたが統魔に吸収された陰陽寮のまとめ役の家系、木角家になるだろうと推測した。何か誤謬はあるかい?」
突きつけるようなヘムロッドさんの推理に、木角は様々に顔を変化させていたのだけど、やがてそれは一つに収束した。
憑きものが落ちたかの様な顔。
本来ならば、歓迎するような顔のはずだ。
だが、こういう時にされるのは非常に嫌な予感がする。
「……か、か、かかか……クカカカカカカカカカカッ」
まるでざりざりと神経を削られていくかのような、気味の悪い笑いだった。
「カハハッ。そこまでわかっておるとは……流石に多少は頭が回るか! カカカカカカ!」
その目は一切笑っていない。僕にだってわかる。
これは、自棄になっているヤツだ。
「ヴィクトリアに掴ませたローグアイゼン師の教本は偽物だね?」
「そうだ! あの気に食わぬ女が引っかかったのは痛快だったわ!」
……そんな、室長は偽物なんかのために拘束される羽目になってしまったのか?
そんな、理不尽があってもいいのか? ……いいや、ないだろ。
僕は木角をにらみつける。だが、当の木角はヘムロッドさんしか目に入っていないようだった。
「なるほど。これでキミを拘束するのには十分だ」
静かにヘムロッドさんは再び金属片を取り出す。
今までの物とは違って、それは毒々しい赤色だった。
「木角利連。罪状は並べると長くなるから省略するが、キミは拘束指定とする。今すぐに投降するなら五体無事だ。どうする?」
「ほざけっ! 悲願を目の前にして止める阿呆がいるものか! 前鬼! 後鬼!」
叫びならば木角が放った札がぎちぎちと音を立てて膨張し出す。
あっという間に、それは二体の巨大な鬼の姿を取った。
「式神術。陰陽師ならば基本だろうが、最高位の前鬼、後鬼を使役するとはやるね。しかし、キミの命運はすでに尽きたんだよ。……木角利連。土御門に連なる一人よ、ここでその妄執は終わる」
「ほざけぇ! この木偶がっ!」