第三怪 その2
ずず、と音を立てて壁が迫ってきていたのだが、僕はちっとも慌ててはいなかった。
能力を発動する。
後ろでまとめている髪が浮き上がって、発動したのは確実だった。
そのまま、迫ってくる壁に巨大なこぶしをぶつけるイメージ。
ばごん、という音と共に、あっさりと壁は破片に変化してしまった。
階段を上って二階。いきなり襲ってきた罠だったのだが、肩すかしもいいところだった。
これなら矢でも撃たれたほうがなんぼかは脅威だっただろう。
「見事だね。即応能力としては一流の魔術師が用いる魔術と遜色ない」
「ありがとうございます」
眺めていたヘムロッドさんが褒めてくれるのはうれしいのだが、素直には受け入れづらい。
……僕個人の考えとしては、あまり魔術とかそういうオカルトの世界にどっぷり浸りたくはないのだ。平凡、平穏、そういった単語のほうに僕は惹かれてしまう。
現状、その望みは叶えられそうにもないけれど。諦める気にもなっていない。
「つまんない。わたしも暴れたいのに」
笠酒寄お嬢様はご不満らしい。
が、そんな不穏な発言は無視するに限る。コイツは単に暴れたいだけだ。人狼を制御することは出来ているようだが、精神面は多少の影響を受けていると見える。
「それで、どうしますか? このまま階段で上りますか? それとも天井でもぶち抜いていきますか?」
一旦階段から出ようと提案したのはヘムロッドさんだった。
なぜかは教えてくれなかったのだが、意味のないことをする人ではないので僕と笠酒寄は大人しく従った。
これで、『なんとなく』とかいう理由だったらかなり脱力することになってしまうけど。
「そうだね、空木クンの提案も悪くはないんだが、建物自体がもろくなっている可能性があるから天井は止めておこう」
ごもっとも。
僕の能力だと対象は一つにしか発動できないし、笠酒寄じゃあぶち抜いた天井の破片に埋まってしまう可能性がある。
となると、やはり階段を上ることになるのか。
延々と階段を上るというのはうんざりするのだが、無駄に体力を使ってしまうよりもいいだろう。少なくとも、何らかの戦闘になることは確定しているのだから。
そう考えて僕は踵を返したのが、ヘムロッドさんは微動だにしなかった。
?
「ヘムロッドさん? 階段を使うんじゃないですか?」
「いや、使わない」
「はい?」
なんじゃそら。
意味が分からない。
階段も使わず、天井をぶち抜いていくわけでもない。
ならどうやって上の階に移動するというのだろうか?
疑問を浮かべている僕と笠酒寄を放置して、ヘムロッドさんはかつかつと靴を鳴らして窓のほうに寄っていった。
滑らかな動作で鍵を解除して、そのままからりと窓を開ける。
え、まさか?
僕の予感は的中して、ヘムロッドさんは軽やかに窓から身を躍らせた。
「ちょ、ちょっと! ヘムロッドさん⁉」
慌てて僕はヘムロッドさんの安否を確認するために窓に駆け寄る。
窓から身を乗り出すようにして下を見る。
僕が見たのは、壁に『立っている』ヘムロッドさんだった。
さも当然と言わんばかりに余裕の表情でヘムロッドさんは重力に逆らって立っていた。
えぇ……なにそれ。
「建物自体を痛めずに、その上で罠も回避しやすくなる。この方法でいこう」
いや、まあ、そうなんだろうけど。
「……いや、僕や笠酒寄は壁にひっつくなんてことは出来ませんよ」
虫じゃないんだから。いやヘムロッドさんも虫じゃないけど。
おそらくは魔術なんだろう。
しかし、生憎と僕も笠酒寄も使える魔術なんて無いに等しい。
室長ならあっさりとヘムロッドさんが使っている魔術を真似して、ひっつくことぐらいは鼻歌交じりにやるのだろうが、僕達には不可能だ。
「安心したまえ。魔術は私がかけるから、キミ達は飛び出してくれば良い」
安心できない。
くそ、なんでこうも室長といい、ヘムロッドさんといい、精神的な無茶を平気でさせようとしてくるんだ⁉ ちっとは僕みたいな凡人の感性というヤツを考慮して欲しいんだけど。
「ミサキ、行きまーす」
僕が躊躇していると、そんな呑気な笠酒寄の声が聞こえた。
振り向く間もなく、僕の隣をなにかがすごい勢いで通り過ぎる。
笠酒寄だった。しかも手足が人狼化している。
勢い余って三、四メートルほど飛び出していたのだが、ヘムロッドさんが指をさすと、まるで重力が壁から働いているかのように、笠酒寄は地面ではなく、壁に着地(?)した。
見事な三点着地だったので、このまま映画のワンシーンにしてもよかったのかもしれないが、やっているのが女子高生なので、今一つ締まらないだろう。
コイツはコイツで、なんでこうも躊躇いがないんだろう。僕の周りは感性がイカれているヤツばっかりだ。
「空木くーん。早く早くー」
すげー気軽に言ってくださるなぁ! 笠酒寄お嬢様は!
二階とは言っても、もし着地をミスってしまったらそれなりにひどいことになる。確かに僕はなりそこない吸血鬼ではあるのだが、それでも痛いものは痛いんだ。未だに純粋な人間だった時の感覚を引きずっているのは愚かなことだと言われるのかも知れないが、それでも、僕は笠酒寄ほど思い切れない。
というわけで、僕は不格好にも窓から這い出るようにして脱出した後、魔術によって壁にひっついた。
おおう、妙な感じだ。
まっすぐに立って前を見ているというのに、空が見える。
一瞬、平衡感覚がおかしくなりそうになるが、多少のふらつきを覚えたぐらいで徐々にそれは緩和していった。
「なに、始めは慣れないだろうが、そのうちに順応するよ。人体というモノは思っているよりも適応力が高いからね」
僕もそうであることを望む。
結局、ヘムロッドさんの言は正しかった。
程なくして僕はきちんと壁に立つという常識外の状態に対応してしまったし、特に罠にひっかかることもなく最上階までたどり着いてしまったのだから。
現在僕達は再び窓から室内に入り(今度は窓ガラスをぶち破ることになってしまったけど)、ちゃんと床の上に立っている。重力も正常に働いているので全く問題は無い。
……重力がしっちゃかめっちゃかになってしまったので、精神状態はあまりよろしくないかもしれないけど。知ったことじゃないか。
最上階はどうやら倉庫のようだった。
あちこちに雑多な品物が置いてあり、視界は悪い。……僕にはあまり有利な状況とは言えない。
まあ、笠酒寄とヘムロッドさんがいるのだからあまり関係はないだろうけど。
「ふむ」
感嘆とも、安堵とも言えない、微妙な感じのヘムロッドさんの呟きだった。
「どうしたんですか? あまり良くない知らせですか?」
思わず尋ねてしまう。
「いや、鵺が潜んでいることは間違いないんだろうが、どうしたものかと思ってね」
「見つけてぶちのめして、殺生石を取り返すだけでいいんじゃないですか?」
いっつもそんな感じだし。今更知的な推理をご披露という状況じゃないだろう。すでに犯人は明らかになって、隠れ家まで追い詰めているんだから。
「そうだね、最終的にはそういう風になってしまうのは間違いないんだけどね」
間違いは無いのか。それもそれでどうかとは思うのだけど。
じゃあ、ヘムロッドさんは何を考えて足を止めているというのか?
「待ち伏せ、とかですか? それとも実は助っ人がいるとか?」
「その可能性は低いね。私達が壁を歩いて来ている時点で仕掛けたほうが勝率が高い。その好機を逃すような甘い相手じゃないだろうしね」
ごもっとも。
となると、なぜヘムロッドさんは何かに対する懸念を示しているのかがわからなくなってくる。
何が待っているというんだ?
「う~ん、よくわかりません。とりあえず進んでみたら良いですか?」
「……そうだね、考えていても埒があかないね。進もう」
笠酒寄の考えなしの提案もたまには役に立つようだった。
ようやっと、ヘムロッドさんは一歩踏み出した。
途端、僕達は真っ黒な霧に包まれていた。
「な⁉」
「えっ」
「ちっ!」
初めて聞くヘムロッドさんの舌打ちが聞こえたのと同時に、僕の視界は真っ黒に染まってしまっていた。
見えない。
真っ黒だ。
視界は黒一色に染まってしまっている。
どうなってるんだ?
つい先ほどまで僕達は一緒に居たというのに、今はその残滓さえも感じることができない。
他者の気配。そういったものが一切感じられなくなってしまっていた。
確かに今は真冬で、冷え込みも非常に厳しいが、僕はそれ相応の格好をしていたのでそこまで寒さは感じていなかった。しかし、今感じているのは別種の寒さだ。
孤独。
そういった類いの情感から発生する類いの寒気を僕は感じていた。
ほんの数十秒。たったそれだけの時間。それでも僕の背筋に冷たいものが走るのには十分だった。
「へムロッドさん、どこですか⁉」
大声を上げてみるが返事はない。
相変わらず真っ黒な霧は存在しているし、二人の気配も感じられない。
くそ、どうなってるんだ?
うかつに動くこともできない。
下手に動いて僕だけで敵に遭遇してしまったらどうなってしまうのかわからない。
まとわりつくように迫ってくるこの黒い霧も問題だが、二人とまったく連絡が取れないというのもまずい。
行動方針を僕がきめあぐねていると、不意に霧が晴れた。
まるで、風に散らされてしまったかのように。
だが、僕の脳みそは更に混乱を極めることになった。
なぜならば、僕は廃墟みたいな建物の倉庫にいるのではなく、二学期の始めに笠酒寄と戦った、あの稲木公園にいたのだから。
?
疑問符しかでてこない。
待てコラ。なんで僕がいきなり稲木公園にいるんだよ! しかもなぜか時刻は夜だ。あまり昼間と変わらない様に見えるが、それは僕がなりそこない吸血鬼だからに過ぎない。
室長曰く、吸血鬼の視力は本来夜間に発揮されるべきなのだそうだ。ゆえに、昼間は日光を
まぶしく感じてしまうんだとか。
いやいやいやいや、現実逃避している場合じゃない。
時間も場所もぶっ飛んでしまっている現状を分析する方が先だ。
何はともあれ、情報が不足している。
とにかく何でも良いから情報を仕入れないと。
そんな風に考えて、僕は辺りを見回して気付いた。
ジャングルジムの上に誰かがいた。
ソイツは、ごく普通の学生服に身を包んでいた。
ソイツは、男のくせにポニーテールだった。
ソイツは、どこかひねた目つきをしていた。
ふわりと、むかつくぐらいの優雅さでソイツがジャングルジムから飛び降りる。
「やあ、こんばんは。初めてだけど自己紹介はいらないよね? だって、キミは僕の事を誰よりも知っているはずなんだから」
くつくつと愉快そうにソイツは笑う。
ああ、知ってる。なんと言っても――
「だって僕はキミなんだから」
ソイツは、僕だった。