第12話 襲来! 空からの魔
ひととおりの「説明」のあと、ベリアルの垂れ流す天使と同僚への愚痴をBGMに、5人はだらだらとお菓子を食べていた。正義が大神邸に電話を入れると「せっかくだしゆっくりしておいで」とのこと。また「単独渡航者の物好きがそっちに行きたがっているからよろしく」とも。
そろそろ昼食でも用意しようか、と言う時間になって、ベリアルの愚痴が止まった。
「変な感じがする」
彼女は立ち上がるとまっすぐ窓まで行き、開けた。せわしなく周囲を見回し、身を乗り出して、今にも落ちてしまいそうだ。
「ねえ、あれ。見える?」
整えられた爪が空の1点を指す。全員、目をこらした。陽炎のように、そこだけ景色が揺らめいている。揺らめきは少しずつ大きくなり、心なしか色がついているようにも思えた。
「ーー怪獣かも」
通が言った。自分でも信じていないような口ぶりだ。
正義もテレビで何度か見たことがあった。突如出現する巨大怪獣。確か”獣”だとか呼ばれていて、それと戦うのは自分たちと同年代か、下手をしたらそれ以下の歳の女の子たちを。
いまや不明瞭ながらも輪郭を得て、さなぎを脱ぐ毒蛾の如く蠢いているのは、巨大な翼竜だった。
「まず近くにいる俺たちで押さえよう……どうすればいいのかわからないけど、とにかく行こう」
正義も夢を見ているような、あやふやな声で言った。彼の守備範囲はあくまで等身大サイズだ。それに比べ、あれは家1軒分くらいある。
「悪いけどあたしはパス。あたしが出ると、天使まで邪魔しに来るから余計面倒になっちゃう」
「アタシ行きます。後方支援で。普さんは待機がいいかと」
「うん、俺はさすがに足手まといだ」
臈も相性が悪そうということでパス。現場には正義と蘭子で向かうことになったが、問題は移動手段だ。いくら見えるところと言えど、走って間に合う距離ではない。
「ああ……ここんちにはあのコがいるじゃん」
「お呼びですよね」
ベリアルのつぶやきにかぶせるように、彼は入ってきた。
便宜上彼としたが、性別はわからない。中途半端な長さの黒髪に細面の、中性的な人物だ。
一見普通の人なのだが、普通でないものを片手に提げていた。
へこみ、汚れ、元の色がなんだかわからなくなったバケツだ。暗い色の液体が半分ほど入っており、やはりどろどろに汚れた刷毛が突っ込まれている。
「皆まで言わなくていいのですよ。アルファケンタウリのニュースサイトで昨晩オレンジとテクノポップスの比較検証動画が配信されましたから。デスクチェアのアプリケーションを断章が読み込むとスタンドアロンで猜疑心が起動され」
「あーはいはいストップ。時間がないのよ。知っているならわかるでしょ」
「報酬はカステラと紅茶で承りますね」
仮面のような微笑を維持したまま、彼は文字通り殴りつけるように壁を塗り始めた。あっけにとられる正義と通に「ある種の神様と思ってください」と蘭子が解説を入れた。
いつのまにか写実的な扉の絵ができあがっていた。大ぶりの刷毛を使っていたにも係わらず、恐ろしく精密な絵だ。
「切符は片道、片道となっております。ご利用は任意です」
「さ、行きますよ」
「え、いやいやいや」
蘭子は左手で正義の腕をつかみ、右手で「扉」に手をかけた。
絵の扉が、開いた。
***
学院内に警報が鳴り響く。
司令室には、異変前の7割程度しか集合しない。
それも、恐怖をぬぐえない表情の中等部生徒が多い。
戦い慣れた高等部の生徒は激増した出撃命令で疲弊し、また突如として世間にさらされたことで受けたショックも大きく、戦えなくなる者が続出していた。中等部の生徒は実力があっても後衛に配置されがちなため、実戦経験に乏しい者が多い。
「わたくし、出ます。当番ではありませんが、出ます!」
「駄目だ! これ以上は無理だ!」
中等部では異例の戦果を持つすずめは自主的に前線に出ており、今日も司令室に駆けつけたがさすがに教師に止められた。ほぼ毎日の出撃とあって、ありありと疲労の色が見える。
「まじるねえさまもいないのに、わたくしがいなくてあれと戦えますの!? 誰かわたくしより速く飛べますの!?」
「いいから、少し休んで!」
「いやっ! 戦わせてください!」
学院内のエースであるまじるも、度重なる能力の行使に耐えられず、丸2日ほど眠っていた。「頼りになる先輩」の代表格である彼女がダウンしたことは、士気にも影響している。すずめの取り乱し様も、彼女の「仇」を取りたいがためだ。
「大丈夫。神薙さんが出るから」
すずめと、司令室の生徒たち両方に向けて発せられた言葉に、少し雰囲気が緩む。空中戦に堅実な実績のある魔法科の生徒の名だ。すずめほど速くはないが、火力は高い。
そのとき、白衣の「養護教諭」が司令室に駆け込んできた。
「報告します! 神薙つばさ、出撃不能です……!」
「なんだって!」
「汚染が進みすぎました……魔法の暴発の危険があり、いまは鎮静剤と魔方陣で抑えている状態です」
「昨日まではぴんぴんしていたじゃないか! 神薙さん抜きでは……」
「なら、わたくしが! つばさねえさまの代わりに!」
「だから、針鉢さんも限界だ! 宿舎に戻って!」
教師とすずめはもはやつかみ合いになっていた。司令室の緊張は限界まで張り詰めている。
そしてーー弾けた。
生徒の1人がその場に崩れ落ちてさめざめと泣き始めた。この場では数少ない高等部で、つばさと姉妹のように親しかった娘だ。それをきっかけに、魔法科の生徒を中心に泣き崩れる者が続出、その余波を受けて精神感応系のエスパー科生徒2人が失神。うち1人は後衛の要として配置された娘だった。
司令室は混乱を極めた。
「どうしますか。もう尾白まじるを強制覚醒させるしか……」
「例の新薬か? 可能性はあるが……まだ2次テストしか通っていない。尾白さんが暴走したら総掛かりでも押さえられないぞ」
「この収拾をつけられますか? それに、非番の生徒も水際ですよ」
「しかし」
その続きが語られることはなかった。
1人の生徒が、教師の袖をつかんでいた。
「その、とりあえず……私を、私だけでも……出してください」
消え入りそうな細い声で、あさがおは言った。
「加重すれば、吹き飛ばされないですし、少しなら、押さえられると思いますから」
「蔦田さん、1人でかい」
「……まじるねえさまとは、2人で戦いました」
あさがおは決定打を持たない。完全な補助役だ。
敵を釘付けにすることに特化した性能であるが、それは主砲の攻撃を確実に当てるためであり、長時間の拘束は想定されていない。
「私、機動性はないから……誰か、速い人に、連れて行って欲しいです。あと、借りたい装備もあります。それで、戦える人が来るまで、なんとかしてみます」
「……わかった。頼むよ」
司令室の混乱は収まる様子を見せない。
この頼りない少女に、頼るほかはなかった。