ビターチョコレート
夕焼け色に染まった単線電車の線路沿いの通学路を一人で歩いている途中で、私はふと、足を止めた。
今日は少し寄り道をして帰ろう。
私の自宅は、今通っている高校のすぐ近くにあったので、日が暮れて辺りが真っ暗になったとしても夕飯の時間には家に帰れたので、それほど急いで帰る必要もなかった。
立ち寄ったのは、自宅の近所の公園で、小学生の頃、よくここで遊んでいたことを思い出す。公園はそれほど広くはなく、砂場と滑り台、ブランコが密集したような形になっていた。
私は、鎖の錆が夕日に照らされ、静かに前後へと揺れるブランコを見つめる。確か、一番好きな遊びがブランコだったっけ......小学生の頃の私も、人付き合いが苦手で、いつも一人でブランコをこいでいた。
私は、ブランコに近づくと辺りを確認する。よし、誰もいない......さすがにこの歳にもなってブランコをこぐのを誰かに見られたくなかった。
私は、ブランコに座ると、ゆっくりと前後にこぎ始めた。
ブランコをこいでいると、小さい頃のいろいろな思い出が蘇る。私は、それを缶入りドロップを1つずつ味わうようにして思い出した。
確か、初恋の始まりもここだった。
小学生の頃のある日、私は、公園で泣きじゃくっていた。理由は覚えていないが、とにかくとても悲しかったのだ。
そんな時、後ろから誰かが私の肩をそっと叩いた。振り返ると、その頃の私と、同じくらいの歳の少年が、ポケットから出した拳を私の前へ差し出してきた。何かを握っているようで、それを私にくれるらしい。私は、恐る恐る手を差し出すと、少年は、私の手のひらの上で、そっと拳を開いた。
私の手のひらにのっかったのは、透明なプラスチックの包み紙に包まれた一粒のチョコレートだった。私は、そのチョコレートの包み紙を広げると、チョコレートを口の中に放り込んだ。が、口の中で溶けて広がっていく味は想像していた甘いチョコレートの味とは全く違い、私は、顔をしかめた。
「うっ......苦い......」
「はは、当たり前だろ。ビターチョコレートって言うんだぜ」
少年は、いたずらっぽい、満足のいったような笑みを浮かべると、ポケットからさっきと同じチョコレートを取り出し、口の中に放り込んだ。
私は、そんな彼の満足そうな顔を見て、なぜか笑顔になった。気が付くと涙はもう止まっていた。
その次の日、私が、一人でブランコを小さくこいでいると、少年はまたやってきた。あのいたずらっぽい笑みを浮かべ、私の方へと歩いてくる。
「よっ。また会ったな」
少年は、私に昨日と同じチョコレートを渡すと、私の隣のブランコを、板には座らずに、板の上に立って、膝を曲げたり伸ばしたりして勢いよくこぎ始めた。いわゆる立ちこぎというやつだ。私もチョコレートを口の中に放り込むと、再びブランコをこぎ始めた。
それから毎日のように、私と少年は、公園で遊ぶようになり、私は、少年に特別な感情を抱き始めた。少年のあの笑顔を見ると、胸が締め付けられるような感覚に襲われるのだ。それが恋だと知ったのは、それから数か月後のことだった。
その気持ちを少年に伝えることは、とても勇気のいることだったが、私は、思い切って少年に全てを伝えることにした。どんなことを言ったのかは覚えていないが、少年は、とても驚いたような、戸惑ったような顔をしたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「ごめん、俺、お前の気持ちには答えてやれない」
「そっか......話、聞いてくれてありがとうね」
その後は、お互い一言も言葉を交わさないまま、黙ってブランコをこいだ。
気がつくと、辺りは暗くなり、公園の蛍光灯の明かりがつき始めた。
「もうこんな時間、帰らなきゃ。じゃあね!」
私は、ブランコから飛び出すように降りると、出口へと駆けていこうとした。
「待って!」
呼び止める少年の声に私は、足を止めた。
振り返ると、少年はブランコから降り、ゆっくりと私の前まで歩みよって目の前で立ち止まった。
しばらくの沈黙の後、少年は、口にチョコレートを放り込むと、そのまま唇を私の唇に重ねた。
少年の口からチョコレートが私の口の中に転がりこんでくる。
口にチョコレートの苦い味が溶けて広がった。
それ以来、少年は公園に来なくなり、彼とは会うことがなかった。しばらくした後、近所のおばさんから、少年が親の会社の都合で遠くへ引っ越してしまったことを聞いた。
私は、ブランコをこいでいた足を止めて空を見上げる。もう日は完全に落ちていて、それに代わって月が優しい光を放ちながら夜空に浮かんでいた。
ふと、コンビニで買ったチョコレートが制服のスカートのポケットの中にあったのを思いだし、私は、チョコレートを取り出すと、口の中に放り込んだ。
初恋の苦い味が口の中に溶けて広がった。