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ずっと蕎麦に

作者: アソート

時空モノガタリさんのお題小説コンテスト「蕎麦」に投稿した作品です。タイトルオチ。

誇らしげな父を尻目に、わたしは両の手のひらを宙に差しのべた。目の前に広がっていたのは、それは立派な大海原だった。金色の月の光が白波に映え、わたしが指をふわりと動かせば、その影が魚のようにひらりひらりと水面を泳ぐのだった。

「父さま、わたくし…」

ふと我に帰って振り向く。でも、父はもうそこにはいない。

「父さま…?」

先ほどまでの高揚感は影を潜め、激しい不安。焦燥。だんだん大きくなる父を呼ぶ声に、チリンという気だるげな風鈴の音が重なった。


目が覚めると、簾越しの風に涼しげな色調をした風鈴が揺れていた。不快感に身じろぎをして、胸元に手をやる。じっとりと汗ばんだ感触。浮いたあばらの下で、心臓が飛び出さんばかりに激しく脈打っていた。とても嫌な夢を見た。

軽く目を閉じて、夢の内容を反芻する。思い出したくもなかった、幼い頃の思い出。海に行きたいと駄々をこねる私を、父が蕎麦畑に連れ出したんだっけ。自分自身に降りかかる不幸も知らずに躍り回る、幼い自分の姿。何て滑稽なんだろう!お前は学を修める前には悪病に取り付かれて、出歩くことすらままならなくなるのだよ。無邪気な笑顔の横でそう囁いて、今の自分の苦悩を知らしめてやりたかった。

「失礼します」

律儀に帽子を脱いで、一人の青年が部屋へ入って来た。はいからな印象を漂わせるその青年は、いつの間にか最も足繁く私のもとへやってくる人物になっていた。英嗣という名前で、職業は画家らしい。この部屋に入ると決まってベッドそばの出窓に向かい、季節の静物のスケッチを飾って見せるのだ。

雑多な画材が見え隠れする鞄を探りながら自然な調子で話しかけてくる青年を、私は半ば覚めた目で見ていた。病弱な娘から連想されがちな、穢れのなさや素直さなど私は持ち合わせていない。暇を埋めるための読書は知識ばかりを膨れさせ、自分の運命を呪う感情は私の思考の大部分を占めていた。青ざめて骨ばった、神経質で辛気くさい女。それが私の自己像だった。英嗣さんは私を好いていると言うが、私はちっとも信じていなかった。大方、私が旧家の出であることを知って、のこのこと寄ってきたのだろう。

「今日は蕎麦の花ですよ」

紙立てに置かれたハガキの上に、水彩の淡い色彩で蕎麦の花が咲いていた。白い五枚の花弁が几帳面そうな五角形に並び、その中心で桃色のめしべが丁度良い感じの華を添えている。さっき夢で見たばかりの可憐な蕎麦の花。おかしな偶然もあるものだ。

「あら、そんな不吉なものを飾るなんて」

「不吉?」

英嗣さんな怪訝な顔をする。

「知らないんですか?その昔、とある武士の一向が、蕎麦畑を敵地の海と見紛えて一人のこらず自害してしまった話。おお怖い、英嗣さんはきっと私なんて早く死んでほしいと思っているんでしょうね」

私はわざとらしく顔を覆った。英嗣さんは、なるほど、という顔をする。

「由良さんは花言葉、というものをご存知ですか?」

突然何を言い出すのだ、と思いながら私は首をひねる。

「……さあ?聞き慣れない言葉です」

「西洋の方で流行っているものでしてね、花にはいろいろな種類があるでしょう、そのそれぞれに意味を与えるんです」

「ええ」

「蕎麦の花言葉は、『一生懸命』。ほら、前向きな花でしょう」

英嗣さんはそう言って得意気に微笑んだ。その顔を見て、合点がいった。ああ、そうか。私と知恵比べをする気だな。少しばかりの負けん気が首を持たげる。

「でも、蕎麦の花はやっぱり不吉です」

「ほう、それはどうして」

「蕎麦の花は二種類あります。一つの花は、自分とは違う種類の花と交わらなければならない。そうしないと、実を結ばないんです」

「なるほど」

「つまり、多くの花が、実を結ばずに、腐り落ちて、しまう」

言いながら、自分の声が震えていることに気付く。今まで考えもしなかった。腐り落ちる蕎麦の花は、そう。

「まるで……」

「なるほど!」

英嗣さんが突然、似合わぬ大きな声で相槌を打った。私は驚いて彼の顔を注視する。

「それではこういうのはどうでしょう」

「……」

静かな強さを湛えた声に、私は押し黙った。ただ黙って、次ぐ言葉を待った。

「私は、ずっとあなたの蕎麦にいます」

暫しの静寂。

不思議な感覚だった。いろいろな感情が私の中を駆け巡った。あの時、泣いて父を探し求める私に、木陰から現れた父が囁いた言葉。くだらなかったな、と照れ笑う父の顔を見ながら、安心感から大泣きした。英嗣さんは私の夢を覗いたのではないかという疑念。真面目な顔で洒落を口にする可笑しさ。あのあと父はすぐに亡くなってしまった。一人で過ごす夜の不安。自分を襲った病苦。孤独。恐怖。そばにいます、という言葉の心強さ。

「……ええ、期待、してます」

泣きながらやっとのことでそう呟いた私を、たくましい腕が抱き寄せた。

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