空魚乗りのエーデルワイス
リーフィーシードラゴンが雲の切れ端に尻尾をからめて、風にたなびいている。
今日も良い飛行日和だと、エーデルワイスは空を見上げた。太陽の眩しさに目をすがめ首に下げていたゴーグルをはめると、気持ちが凪いで感覚が鋭くなっていく。
マンタ乗りになってはや七年。大空を泳ぐように飛ぶ姿に憧れて乗り手を目指したのは八つのときであったから、かれこれ十七年はこの空を見上げ続けていることになる。訳も分からず見上げていたころを含めるならば、それはもう物心ついたときから空ばかり見ている。
その空をときにゆったりと、ときに素早く飛び回るこのマンタという生き物は、かつては海に暮らす魚類であったらしい。
そのころから空への憧れか、抑えきれぬ飛行衝動を抱えていたらしく、海中より飛び出る姿が見られたという古い文献が残っている。
海洋生物たちが空へ飛び出した理由について、学者たちの間ではさまざまな憶測が交わされているが、空魚乗りたちは口をそろえて空への憧れであると断言している。なぜならば、エーデルワイスを含めた空魚乗りはみな、止められない空への憧れから空を目指すのだから。
トビウオ、クラゲ、ジンベエザメ。さまざまな魚が海を飛び出し空に泳いでいるが、中でも人に懐くのがマンタである。
その巨体に似合わず人懐こくて、気まぐれに人里の近くをゆらゆらと飛ぶ姿も見られるマンタだが、その背に乗せるのは彼らあるいは彼女らが相棒と認めた一人だけ。その一人に選ばれたとしても、高速で行われる長距離飛行や空中旋回に生身で耐えられるだけの体を持っていなければ、マンタに乗ることはできない。
そもそも、空魚乗りになるにはさまざまな試練がある。まず、マンタに選ばれるために彼らの幼魚が好む空域にあたる高山で暮さねばならない。そのためには高山に建てられた空魚乗り訓練所の寮に入る必要があるのだが、ここでほとんどの者が高山病に苦しむこととなる。
家族の元を離れ、苦しい思いをして山を登り、ようやく入学した寮では血反吐を吐くような肉体の鍛錬が行われる。この時点で、かなりの数の者が脱落して山をおりる。
また、いくら鍛錬を頑張ったからといって必ずマンタに選ばれる訳ではなく、訓練所に入って十年のうちに相棒を見つけられなかった者は、寮を出なければならない。寮の部屋は有限で、マンタに選ばれない者をいつまでも住まわせてはおけないからだ。
エーデルワイスは八歳のときに空を目指すことを決意したが、子どもの体で登るには厳しすぎる山に、三年待った。成長しても小柄な少女が高い山を登るのは容易ではなく、高山に挑むための体作りにさらに三年を要した。
そうして男たちの中に混じり、文字通り血反吐を吐きながら体を鍛えたのは、それだけ空への憧れが強かったからだ。渇望と言ってもいいくらいに、空を目指さずにはいられなかった。
そんなエーデルワイスであったから、ついにマンタに選ばれたときには大喜びで家族に絶縁状を書いた。 空に境界線はなく、空魚乗りは世界中のどこにでも自由に行き来できるかわりに、どこの誰ともつながりを失う決まりがある。これが最後の試練で、家族との縁を切る決断ができずに泣く泣く空を諦める者も少なくない。
そうしてほとんどの者が去り、残ったほんのひと握りだけが空魚乗りとして世界中を飛び回り、情報や手紙の伝達を行うのだ。
彼らは体力が衰え飛べなくなるまで空を飛び回ると、ふたたび空魚乗り訓練所に戻ってくる。そして訓練所の教師や所員として山に住み、空を見上げながら生涯を終える。その亡骸は相棒であったマンタの背に乗せられ、人の身では行くことの叶わない空のかなた、深空へと運ばれるという。そこは空魚乗りにとって最高の墓場、エーデルワイスもまた憧れ、夢見る場所であった。
けれど、エーデルワイスは今日を限りに山をおりる。
大切なものができてしまったのだ。家族を捨ててまで求めた空への憧れと同じほどに、身を焦がす思いを抱かせる人を見つけてしまったのだ。
エーデルワイスは悩んだ。空と彼の人とを天秤にかけ、五年間悩み続けた。
一度、山を降りればもう空魚乗りにはなれない。決まりの上の話だけでなく、再び体を鍛え直すことの厳しさもある。何より、相棒の姿を見失ったマンタは、空に帰って行ってしまう。彼らもまた、空への憧れに身を焦がしているため、引き留めるものを無くせば他の成魚たち同様に広い空を自由に泳ぎ渡る。
そんな相棒に背を向け、エーデルワイスは空を去る。
名残惜しい。もっと飛びたい。空の高みへ。もっと、あの青の深みへ。
胸のうちに深く渦巻く空への思いと同じくらいに、彼の人への思いは強い。
会いたい。となりに居たい。時を共に。となりで、年を重ねていきたい。
日ごと、年ごとに強くなる思いが空への憧憬を上回り、エーデルワイスは地上の人になる。
マンタに乗って最後の飛行。
思い出にするには最高の青空のはずが、不意に辺りが暗くなる。飛びながら見上げた先には、巨大なジンベエザメの腹。イワシ雲の群れを蹴散らしながら、雲の中にいる餌を食べているのだろう。その大口の中に雲をもうもうと収めていく。滅多に雲海から出てこないジンベエザメは、縁起の良い空魚として信仰の対象にもなっている。
これは良いものを見られた。
エーデルワイスはマンタの手綱を操り、ジンベエザメの周りに群れる空魚に混ざって並び飛ぶ。
頭上の巨大な影により陽光は遮られ、耳元をうなる風が涼しく気持ちいい。
ああ、最後にいい飛行ができた、とエーデルワイスは微笑んだ。
ジンベエザメとの並行飛行は気持ちいいが、もう行かなければならない。ゆったりと雲をかき分け空を泳ぐ一群から、静かに離れて高度を下げる。
見上げれば、巨大な魚影は雲間に飲み込まれるところだった。ちっぽけな人間が見守る中、吉兆の化身はゆるりと尾びれで雲を散らして消えていく。
名残惜しくその姿の消えたあたりを見つめていれば、いつの間にかずいぶんと地上に近づいていたようだ。
色とりどりの花に囲まれた広場で、彼女の名を呼ぶたくさんの声がする。
その中にひとり、黙って微笑み彼女を待っている男を見つけて、その名を呼ぶ。
「カランコエ、お待たせ」
本当に、ずいぶんと待たせてしまった。彼もまた、五年間もよく待っていてくれた。
空を去る寂しさは消せないけれど、彼を見つけた幸運もまた消えないだろう。なんせ、幸運の印であるジンベエザメに後押しされたのだから。
エーデルワイスは空の相棒に別れを告げて、地上の相棒の手を取る。
たくさんの歓声が上がる中、白い花の冠を乗せた花嫁が空から地上へ舞い降りた。
花言葉
エーデルワイス 「大切な思い出」「勇気」
カランコエ 「幸福を告げる」「たくさんの小さな思い出」「あなたを守る」「おおらかな心」