(5)幸せを呼ぶユニコーン
トレーズの心の支えとなっているこの本はそもそも、ルーシー・ボナリーからの贈り物だ。
彼女には嫌悪感を抱いているくせに、もはやこの本を手放せなくなっている矛盾。
それに気づいたトレーズはとても情けない気持ちになって、涙が出た。
その日の夜は、とうとう誰にもおやすみを言うことはなかった。
まだ朝日ものぼらぬうちに、トレーズは静かに家を出る。もちろん、あの本も一緒だ。
山の向こうは朝霧がかかり、昼間とは違った雰囲気を醸し出している。
本来はまだ眠っている時間なのだ。
樫ノ木林がごうごう音を立てているのに少し寒気をおぼえながら、トレーズは愛馬のいる厩に向かった。
主人の随分早いご登場に喜んだようで、トリストラムは鼻を鳴らした。
「しっ!喋っちゃダメだよ。まだみんな寝てるんだから……」
本と、厨房でぬすんだパンが入ったショルダーバックをかけ、トレーズはトリストラムにまたがる。
今日はうんと遠くの川縁へ行くつもりだった。
*
正午を知らせる時報を耳にしたトレーズは、慌てて本から顔をあげた。
夢中で読んでいたので忘れてしまっていた父との約束。午前の門限は正午までだ。
昨日黙って夕食の席を抜けたことに加えて、門限まで破ってしまえば、ジョーンズはカンカンになって自分を叱るだろう……。
そんな考えが思い浮かび、トレーズは帰ろうにも帰られなかった。
(お腹空いたな……もっとパンを持ってくるんだった)
川近くに建てられた家々から漂う昼食のかおりや、開け放たれた窓から聞こえるスプーンやフォークが皿にぶつかるときの音は、まさに今の彼にとって拷問に相違ない。
彼の腹の虫は鳴くばかりで、空腹は思考をも鈍らせる。
(ああ……お腹空いた……ぼく、こんなところで何やってたんだっけ……あ、本を読んでたんだ……多分……)
トリストラムが、心配そうにトレーズに近づいてきた。
(こんなことになるって分かってたなら、ぼく、昨日はちゃんとお行儀良くしてたのに…………あれ?)
溢れそうになった涙を拭ってから、かすんだ瞳をこらして、川向こうを凝視する。
誰かがこっちに向かってきているのだ。
それは、純白のドレスに身を包んだブランチ・モーだった。手にはワイン壜とチーズの入ったバスケットを提げている。
ブランチは橋の向こう側から、トレーズに向けて手を降った。
「こ、こんにちは!ブランチ……!」
真っ赤に頬を染めたトレーズは、大げさに手を振って挨拶をした。
このときばかりは完全に、空腹だと言うことを忘れていた。
「ま、前に、樫ノ木林で会ったよね?」
「うん……」
ブランチはそのまま橋を渡って、トレーズの横に腰掛けた。
トレーズの持っている本に興味を示したようだ。
「一角獣?」
「そう、ユニコーン。知ってるんだ?」
「うん。わたし、一角獣大好きよ……」
大好きよ、という彼女の言葉に、トレーズの鼓動は早くなる。
「……よかったら、読む?」
「え?いいの?ここで読んでいたんでしょう」
「ぼ、ぼく……これでもう、7回目になったから……」
7回目、という数字に驚いたブランチは、賞賛の言葉を投げかけた。
それを受けたトレーズは、たちまちむず痒い気持ちになった。
「きれいな表紙ね……」
南中した太陽を受けてより輝きを増した表紙にブランチは目を細める。
トレーズはというと、彼女のそんなすがたを盗み見ては、うっとりとしていた。
少々貧血気味で青白い肌は彼女の儚げな美しさを際立たせ、薄桃色の紅をつけた控えめな唇が動くたび、鈴のような声が聞こえてくる。
少し世間知らずなところもあるが、それでこそ隣に立って支えてあげたいと思わせてしまう。
この地方でこれほどの娘はどこを探してもいない、と誰かが言っていたのをトレーズは覚えているが、彼は今だにその言葉を信じて疑わなかった。
「あっ、いけない!」
ブランチは口に手を当てて、トレーズの方を見た。
今までにないくらいの至近距離で、視線がぶつかる。
「ど、どうかしたの?」
「叔父さまの家に行く途中だったの。ごめんなさい、もう行かなきゃ……」
「う、うん。本は、いつでも返してくれていいからね……」
「ありがとう!読めたら、トレーズの家に返しに行くわ」
彼は嬉しくなって、何度もうなずいた。
特に会ってはいけない理由はなかったのだが、またブランチと顔を合わせられることに、トレーズはほっとした。
ブランチは別れ際に、トレーズの乗馬服が彼によく似合っていることを、頬を染めながら恥ずかしそうに伝えた。
「それじゃ、また、ね……トレーズ」
本を大事にそうに抱え、少しずつ遠ざかってゆく彼女の背中は、ほんとうに小さくて可愛らしい。
(結婚するなら、ブランチがいい……)
すっかり放ったらかしにされていたトリストラムが、小さく鼻をならした。