(3)お見合い話
トレーズはとりあえず、ルーシーと共に客間へ移動することにした。
部屋の一番奥のソファにゆったり腰を掛けているジョーンズは、トレーズが部屋に入るなり、困ったような笑みを浮かべて首を傾げた。
「それで、どうかしらトレーズ?」
ルーシーは、太い指でつまんだティーカップを胸の前で止めて、斜め横に座るトレーズを覗き込んだ。
バサバサ睫毛の双眸が、こちらをとらえて離さない。
(……こ、怖い)
トレーズは父に助け舟を出してもらおうと、目線で彼に訴えた。
「トレーズにはまだ早いお話ではありませんか?姉さん」
ぱっ、とトレーズの顔がほころぶ。父はいつだってトレーズの味方だ。
「早いですって!」
反対にそれを聞いたルーシーの方は、いささか乱暴にカップを皿の上に戻し、イラついた態度を露わにした。紅茶が飛び出す。
こういう風にすぐ感情的になってしまうところも、トレーズが彼女をニガテとするゆえんのひとつだ。
「とんでもないわ!主人がトレーズの歳には、もうわたくしと結婚していましたのよ!」
「いいえ姉さん、それは昔の話でしょう」
「おだまり!」
今にも飛びかかってきそうな姉をやんわりと手で制しながら、ジョーンズは目だけをトレーズの方に向けた。
トレーズは肩をふるわせ、姉の異常ともいえるフラストレーションに、完全におびえきっている。
「ね、トレーズ……よくお聞きになって」
ルーシーは、トレーズの肩に優しく手をおいた。とたんに彼の背筋がピン、と伸びる。
「貴方にとって悪いお話ではないと思うの。
いずれは結婚して、家を堅固なものにするんですからね?こういうのは早い方がいいの」
彼女は赤ん坊でもあやすような甘ったるい声に切り替えた。
「末っ子のカミラは貴方もよく知っているでしょう?こんなに良い縁談は他にございませんことよ、トレーズ」
「……」
ルーシーはトレーズの答えをどうしてもはっきりさせておきたかった。
カミラは短くカットした赤毛が特徴のトレーズより4歳年上の娘だが、姉たちに比べるとやや容姿が劣り、引っ込み思案な性格が災いして、なかなか良い縁談に巡り会えていなかった。
ルーシーは、なんとかこの子を嫁がせねば、夫とふたり、実家で自由奔放な余生を楽しむことができないと思っており、ようは彼女がジャマなのであった。
そんなとき、都合良く結婚できそうなトレーズの存在に思いあたったルーシーは、彼の12歳の誕生日祝いにかこつけて訪ねきたのだ。
そんな彼女の無茶苦茶な理由を、ジョーンズは姉弟の勘か何かで察していたものの、トレーズにはわかるはずもなく。
(どうしよう……断って叔母さんが怒るのもイヤだけど……ぼくは……)
トレーズは子どもながらに葛藤している。
苦悩に満ちた我が息子の顔をいたわしく感じたジョーンズは、ゆっくり口を開いて言った。
「ルーシー姉さん、それだと強制しているようです」
「だから貴方はおだま……」
ジョーンズが、素早くルーシーの口を人差し指で塞いだ。
「トレーズの未来は、トレーズだけが選択することができます。貴方こそ、ゆくゆくはこの地の領主となる者のことに、口出ししないでいただきたい」
「ジューンヅッ……」
ルーシーは身悶えしながら、彼を見ていた。いつから弟はこんな風に姉に発言するようになったのか、思い出せない。
「さあトレーズ、お前はどうなんだい?お前自身の考えでいいんだよ、誰かが傷つくかもしれないなんて思わなくてもいい。トレーズ・リドルとしての考えを聞かせてくれ」
「……父さん……」
父にポンポンと数回肩を叩かれてから、トレーズは落ち着いて考えた。
今朝、新しい乗馬服をもらって上機嫌だったときのことや、樫ノ木林で会ったブランチの顔が思い浮かんだ。
「ぼく……まだまだ12歳だし、勉強とか、スポーツとか、やりたいことがいっぱいあります。だけど、結婚してしまったら、充分にできなくなってしまうと思う……」
ジョーンズは深く頷いたが、ルーシーは黙っていない。
「結婚してからだって、いくらでもできますよ!」
トレーズは負けなかった。ふるえる足でルーシーの前に立つ。ぎゅっと拳を握りしめて、彼の真摯な思いを、直接、叔母にぶつけた。
「……奥さんのことも、やりたいことも、どちらも中途半端にしてしまうのは、ぼく、イヤだから……」
「よく言った!」
ジョーンズが荒々しくトレーズを抱きしめる。
「父さん……う、い、痛い」
「やったね、よく言えたね、トレーズ!姉さんも聞いたでしょう、この子の考えを!まだ12歳ですよ、親バカながらも、とてもしっかりしたことを言うとは思いませんか!?」
ルーシーは喋らないのではなく、言葉をなくしていた。口をあんぐりあけて、ただただ、甥の髪が彼の手によってくしゃくしゃに掻き回されていくのを、見つめることしかできなかった。
どこかで、正午を告げる鐘がなっている。
*
夜遅く、ジョーンズのところに来るように言われたトレーズは、寝間着のまま書斎の扉をノックした。
「どうしたの、父さん?いつもは早く寝なさいって言うのに……」
目をこすりながらやってきたトレーズに、ジョーンズは微笑みながら、彼に椅子を寄越してあげた。
「今朝はすまなかったね」
ルーシーのことだ、とトレーズは思った。
「つらい思いをさせたね……」
「いえ、父さんのせいじゃないし……ぼくはもう大丈夫」
弱々しい声に、ジョーンズは胸が痛んだ。
ほんとうは、怖くて怖くて仕方がなかったのだと気付いたのだ。
ジョーンズは息子を抱き寄せ、その額に口付ける。トレーズも、父の大きな背中に手を回す。
古い木の椅子が、ギシリと軋んだ。
「……今日のお前は立派だった。さすがリドル家の長男だ」
トレーズは何も言わない。ただ、この大きな暖かさに包まれて、耳の後ろで囁かれるテノールを聞いていた。
「お前を、生きにくい身体にしてしまった。わたしを恨んでくれてもいいんだ……殺してくれたっていい」
息子が頭を左右に振ったのを感じたジョーンズは、回した腕をゆるめ、彼から離れた。
まだ抱きしめられていたい気持ちがどこかにあったのだろうか、トレーズの手は小さく虚空をかいた。
「お前はこのリドル家の、たったひとりの後継者だ……わたしが台無しにしてしまったリドル家の威厳を、取り戻すという使命を背負わせてしまった……わたしのたったひとりの息子……」
「そんな、背負わせた……だなんて」
ジョーンズは、少なからず彼に罪の意識を感じていた。自分の望みを彼に託したばかりに、彼自身を苦しめているのではないかと、心の隅ではずっと気にかけていたのだ。
「……これは父さんの意志でもあるし、ぼくの意志でもあるんです」
トレーズは頬にのびてきた父の溶々とした手をとり、ゆっくりと重ねあわせた。
「父さんが気に病むことないよ?確かに、ちょっとやりにくいこともあるけど……でも、ぼくがやりたいといいだしたことなんだから、『背負わせた』なんて言わないで……」
「……おお、神よ……この娘はなんて――……」
ジョーンズは涙をはらはらとおとしながら、何度も何度も、トレーズの名を呼んだ。
仄暗い部屋の真ん中で、親子がふたり、いままさに再会したばかりかのように、抱きあっている。
今日ほど親子の愛を感じたことはなかっただろう。
「ねえ、父さん。最後にいっかいだけ、本名で呼んでくれる……?」
「もちろん」
「ありがとう父さん……愛してます」
「わたしもだよ、トレイシー」