(2)気になる子
トレーズ12歳の誕生日、ジョーンズは彼に新しい乗馬服を買い与えた。
大喜びでそれらを装備したトレーズは、さっそく愛馬のトリストラムと共に屋敷のちょうど目の前にある樫ノ木林へ向かって飛び出した。
風が、まるで自分とトリストラムを避けているようだ。
せまりくる木々の陰と、太陽光が、トレーズの身体に様々なまだらもようをつけてゆく。
新しい革手袋もよく合い、濃紺のライディングジャケットはトレーズの細い腰のシルエットをつややかに浮かび上がらせている。リズムよくはねる彼のプラチナブロンドの髪先には、きらきらと汗がかがやいていた。
トレーズは、父の馬術の才能をしっかり受け継いでいたのだ。
5歳でコーチを解雇してからというものの、彼の乗馬センスはとどまるところを知らず、小さな馬術大会では何度も一位になった。この地域のちょっとした有名人にもなり、父ジョーンズもご満悦である。
トレーズは樫ノ木林がひらけた場所にトリストラムを休ませ、自分もやわらかな草のじゅうたんに大の字で寝ころがった。
「平和だなァ……」
真上にひろがる底抜けにあおい空。猫のようなかたちをした雲が、視界の端のほうで漂う。
初夏のみずみずしい木々の葉がさわさわと搖れ、どこか遠くで小動物のなくかわいらしい声が響いている。
これが彼の思う、小さな平和だった。うるさくもなくしずかでもなく、耳に心地良いサウンドがまわりを満たし、等しく安定したやすらぎがもたらされれば平和だった。
しかし、この自然のささやきを一たび乱そうとしようものなら、ただちに彼の平和は心と共に崩れ去る。
「やあ、トレーズ・リドル……その乗馬服は優勝賞金で買ってもらったのかな?」
「……グラエム?何の用?」
彼なりの皮肉をまるごとかわされた上質問を質問でかえしてきたトレーズに、グラエムはふくれっ面になって言った。
「別に用なんてないさ!ただ、注意しにきたんだ。お前がこんなところで寝そべってるもんだから、思わず馬で轢きそうになって急ブレーキかけちまったよ……こっちはな、ブランチを乗せてたんだぜ?」
「えっブランチ!?」
あわてて起き上がると、グラエムの愛馬のかげからひとりの華憐な少女が、そっとトレーズの方をうかがっているのが確認できた。うすい桃色と白の、女の子らしい乗馬服に身をつつんだ彼女と、視線がぶつかる。
(二人乗り、してたのか……グラエムと)
急にこんなところで寝ていた自分がはずかしく感じられたトレーズは、脚や尻についた雑草をはらいのけてから、ヘルメットを深くかぶって顔を隠した。そんな彼のようすをみたブランチの方も、自分に気があることを知っているので、その分気恥ずかしくなって奥にひっこんだ。
「おいおい、何おれをおいてけぼりしてジュンジョーしちゃってんの!?ブランチとデートしてるのは、おれなの!」
グラエムはそう叫んで、トレーズにこの先はいかせまいと両手を広げる。
グラエム・ポーター。トレーズに言わせれば、彼はどうしようもないやつだった。
家柄はトレーズよりも良く後ろ盾もしっかりしているので、「新生イーストフォル」地域に住む子たちの憧れの存在であると共にリーダーでもある。
しかし彼の考え方は、トレーズよりいく分か幼稚だ。いつも自分がいちばんでないと気がすまない性格だし、自分より弱い者にはとことん威張って上からものを言う。
トレーズの家柄について侮辱的なことばを投げるのは、いつも彼からだった。
「……わかってるよ。デート、楽しんでね」
「ふん、言われるまでもないな!」
グラエムはココア色の髪先を華麗にゆらしてターンし、馬のうしろに隠れているブランチをエスコートしにむかった。トレーズは知らん顔で、また草のじゅうたんに寝そべる。
「それじゃあな、トレーズ・リドル!またあおう!」
馬が遠ざかっていくリズミカルな音をききながらトレーズの頭の中は、グラエムの胸にもたれかかって座っているであろう、ブランチ・モーのことでいっぱいだった。
(ブランチって……グラエムのことが好きなのかな?)
家柄で考えても、美男美女という点でも、グラエムとブランチはお似合いのカップルだ。
自分の家には誇りをもっているトレーズも、このときばかりは複雑な気持ちになってしまう。もし嘗てのリドル家であったならそのふたりのどちらよりも、トレーズは高位である。子どもながらにふっくらとした白い頬や、母親ゆずりの優しい瞳も、グラエムには見られない少年ならではの美しさがあった。
(でもぼくは……)
そこまで思って、あとは考えなかった。腹の虫が遮ったのだ。
トレーズは愛馬の名を呼び、すっくと立ち上がる。トリストラムはやわらかい毛並みを風になびかせて、トレーズに頬ずりをするように近よってきた。優しくひとなでして、トリストラムにまたがる。
「さ、帰ろうね」
グラエム達が走り去っていった方をふりかえって、つぶやいた。
*
屋敷の前に馬車が停まっていたので、トレーズは大慌てで自分の部屋へかけこんだ。
その馬車が、ジョーンズの姉の嫁ぎ先ボナリー家のものだったからだ。
ジョーンズの姉、つまりトレーズの叔母のルーシー・ボナリーは、もうほとんど歩けないほど弱りきった実弟とその息子の様子をときどきこうして見に来るのだが、彼女は一度訪ねればなかなか帰ろうとしない、非常に厄介者だった。
彼女は饒舌だが脈絡がない。話題といえば旦那の愚痴か五人娘たちの自慢。そんなルーシーに辟易していたトレーズは、できるだけ顔を合わせたくなかったのだ。
(早く帰って!)
窓の外に以前として停車するボナリー家の馬車に、トレーズは念を送りつづける。
(早く帰れ、早く帰れ、早く帰れ……!)
すると突然入り口が開いて、
「あら、やっぱりいるじゃない!」
と、その彼がいま最も会いたくないルーシーがすがたを現したのだ。
あっけにとられ、何も言えないトレーズ。
客間で運悪くトリストラムが啼いたのをきいてしまった彼女は、トレーズが帰っていることを察知し、無理やり推しかけてきたのだった。彼女の背後では、執事が申し訳なさそうな顔で頭を下げる。家の者は全員彼女を良く思ってないので、トレーズの部屋には行かせまいとしてくれていたのだろう。
トレーズも気の毒な気持ちになった。
「ご、ご機嫌うるわしゅう……ミセス・ボナリー……」
「どうも、トレーズ。12歳の誕生日おめでとう」
彼は今日が自分の誕生日だったことを思い出し、ハッとする。
「今日はねェ、プレゼントって言うのもなんだけど……貴方にとォっても良いお話をご用意してきたの……」
やけにもったいぶった口調に、一瞬イヤな予感がトレーズの頭をかけめぐった。
「良い……お話……って……?」
ルーシーは、紅くて太い唇を怖いくらいに引き伸ばして、まさに「にんまり」と笑って言った。
「私の末っ子とご結婚なさらない?」
ルーシー・ボナリーこそが、自分の平和を脅かす人物だったのだ……。
トレーズはその場で硬直した。