(1)たった一つの望み
※主人公の設定上ソフトなガールズラブ要素があります。読みようによってはボーイズラブ要素もありです。苦手な方はご注意ください。初投稿ですがよろしくお願いします。
ある夜中、やけに顔を曇らせたトレーズがジョーンズの書斎を訪ねて、こう言った。
「父さん、ぼくの家って落ちぶれてるの?」
ジョーンズは、いずれこのように察する時が来るのだろうと予想していないわけではなかった。
しかし、まさかまだ小等学校にも上がらないうちに、我が子からそんなおぞましい言葉が出ようとは。
ジョーンズはひとつ息を吸って、ゆっくりと膝を折る。大きな瞳に涙をいっぱいに溜めたトレーズと、同じ目線になった。
「違うよ。そんなこと、誰から聞いたんだい?」
ジョーンズはあくまでも嘘を吐くつもりだ。
「……グラエムやエリオッドから……。マクミラン家のアランと、あとモー家のブランチ……」
ジョーンズは憤った。
憤ったが、そんな態度は微塵も表に出さず、
かわりにポンポンと優しく、トレーズの小さな肩を叩いてあげた。
「グラエムたちが言うことなんて、気にする必要ないんだよトレーズ?ただお前は、リドルの長男として、この地を治める立派な領主になってくれればいいんだから」
「……でも、でも、」
「トレーズ」
静かにその名前を呼ぶと、トレーズは一瞬硬直して、まだ何か言いたそうな口をしぶしぶ噤んだ。
「いいね、トレーズ。今後、友だちから自分やお前の家に関することを侮辱されたら、『何も言うな』と一喝して黙らせるんだ。勿論、手や足を出してはいけないよ。貴族紳士に荒事はご法度だ……わかるね?」
このときジョーンズはもう少し噛み砕いて、まだ幼いトレーズにも分かりやすい簡単な言葉を選んでから諭すべきだったのだが、先ほどから彼の心で燃え上がる憂憤の感情が、どうしてもそうさせなかった。
トレーズには、なんだかむずかしいが父さんの言うことはしっかり聞いておこうと大人しく首を縦にふった。
「よし、いい子だトレーズ。それじゃあもう遅いから、おやすみ?」
ジョーンズは、あくまでも温かく、息子を扉の前に促した。
「おやすみなさい、父さん」
そっと触れるようなキスをジョーンズの手の甲におとしてから、おとなしくトレーズが出て行くのを確認すると、ジョーンズは力が抜けたように寝椅子に倒れこんだ。
無垢で、素朴で、事の善し悪しも、それを見抜く術さえ、まだ知らない我が子。
生きてゆく上で最も大切なことを理解する前に、この愛し子は口汚い似非貴族どもの根も葉もない悪態に心を乱されてしまったこと。それがジョーンズには耐えられなかった。
我が家のために、やれることはやってきたつもりだったジョーンズに、息子のあの言葉は痛烈に響いた。
リドル家が落ちぶれつつあることを知ってしまった我が子のあの哀しみと驚きの混ざり合った顔は、父親として見るに堪えないものだった。
リドル家は嘗て、この地方一帯を治める大貴族であった。
しかし、ジョーンズが領主となり家督を継いだちょうどそのころ、西では「ナイチンゲール戦争」と呼ばれる戦乱が勃発し、彼の領地からも当然、大ぜいの兵がかりだされた。
この戦争は一年ほどで終結するという見積もりに反して長期化し、戦火は彼の領地「イーストフォル」にも及んだ。
結果、様々な種類の作物が実る農園地帯も、四季折々でそのすがたを変える豊かな山々、肥えた赤土に美しい湖……ジョーンズの自慢だったそれらは、戦争が始まる前とはにてもにつかぬ有様になった。
ジョーンズもこの戦いで左足を負傷し、以前のように馬を駆って狩猟に興じることもできなくなってしまった。
領民の半数を失った「イーストフォル」は、たちまち活気をなくし、人手不足が原因で農作もままならなくなる。そうなると、花を手入れする余裕もなければ人と会話する気も起きない、この陰気な土地を出ていく農民が多くなった。ジョーンズには悲しいことであったが、まだ若かった彼には、そんな領民たちを引き止めることがとてもできなかった。大ぜいの犠牲者が出たのは、自分の裁量不足であると、頑なに思いこんできかなかったからだ。
それからジョーンズは、また以前のような人々の喧騒に満ちた「イーストフォル」を取り戻そうと試行錯誤し、行動に移し、また今は亡き妻のソーリエによる内助の功もあり、なんとか人が戻ってくるような状態となった。それはひとこと「努力」と言って片づけられるほどのことではないが、では完全に以前のような活気に戻ったのか?と訊かれれば嘘になる。
その後、また戦争が起こったのだ。
彼らの励みも水泡に帰し、瞬く間に「イーストフォル」は戦地と化した。
もはやジョーンズの手では経営困難となった「イーストフォル」は、他の領主の権力に圧されて、譲与する結果となった。
「トレーズ……」
ジョーンズは愛しい息子の名を呼ぶ。
目を閉じれば、あのころ自分が治めていた美しい「イーストフォル」の風景が自分を迎えてくれる。
現在の領地は、嘗てのそれの10分の1にも満たない荒野同然のものだ。それでも嫌いになれないのは、いくら焼け野原になろうとも、彼だけが変わらずにこの地を愛していたからである。
しかし、代々リドル家のものだったこの地を、自分が手放してしまったことにはかわりない。
(後悔しているのだ……おれは……)
夢と現の堺をさまよいながら、ジョーンズは思う。
二度の大きな戦いが原因で失った「イーストフォル」の心優しき農民たちと肥沃な大地――……。その全てを、とりかえすことができなかった後悔。
(今度は……トレーズ……お前が、おれの望みを……)
うっすら目を開くと、白い天井にべったりと張り付いた染みがあちこちに見える。嫌になって、今度は寝椅子に身体をあずける自分のすがたが、大きな窓にうつっているのに目を移した。
勇猛果敢に戦った青年ジョーンズのおもかげはない。すっかり疲れきった老いぼれがひとりいるのみ。
(おれはもう、何かを成すには遅すぎる……だから、お前に託すことにしたんだよ……)
ジョーンズはもう一度目を閉じた。
「……トレイシー」
最後にトレーズの本名を口にしてから、彼はまるで死んだように眠った。
しかし、もしこれで死んでしまっていたなら、どんなに幸せな最期だっただろう?
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