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ルナティック・ブレイン 【-特殊殺人対策捜査班-】  作者: 橋依 直宏
Consider 8 合わせ鏡のマグノリア
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File:02 zugzwang

 


 テールランプが角を左へと曲がり、公園の木々を通り抜けて赤い尾が消えるのを見送った。

 緊張していたわけではないが、えていた疲労がどっと押し寄せてくる気がした。

 背中に背負っているリュックサックがわずらわしく、ずれてもいない肩ひもを意味もなく直す。

 ふと、自転車が目の前を通り過ぎた。

 若い男がイヤホンをして、片手で液晶端末を操作していたような気がしたが、思考が強制的に切り替わり分からなくなる。


【あーバイトだる、ガチャ外ればっかじゃん、金欲しい、レジからパクってやろうかな、いやいやないない、あーエッチしたい彼女欲しい宝くじ当たんないかな腹減ったなあ】


 突然なだれ込んできた思考。直後、後頭部を殴られたような衝撃を受け、膝から崩れる。

 公園の前、たった五段の階段の真ん中には親切にも手すりが付いている。それにもたれ、倒れるのはなんとか防げた。

 衝撃で止まっていた息を吸い込む。が、息を吐くと同時に吐き気がこみ上げる。

 手で強く口をふさぐが、それでも容赦ようしゃなく喉の奥からやわらかいかたまりのどを押し広げようとする。

 たった五段の段差をつまづきながらけ上がり、すぐわきにある水のみ場にたどり着けたのは奇跡だ。

 胃が強制的に持ち上がり、中身を引っ張り出される。

 あまりの苦しさから目をつぶり、びちゃびちゃと吐き出す音だけを聞く。

 空っぽの胃だ、胃液しかなかったのだろう。

 にじむ視界、吐いたものはすでに排水溝に流れたようだが、すえた臭いをぐとまた吐き気が戻ってきそうで顔を上げる。鼻をすすると鼻の奥が痛む。

 水を浴びたように顔がぐっしょりと濡れていた。

 しがみついていた水のみ場の縁をつかみ直し、しっかりと立ち上がる。

 肩からひじまでずり落ちていたリュックサックを乱暴に下ろし、足元にあるレバーを踏み込んだ。たっぷりの流水が蛇口から流れ出す。両手を洗い、口をゆすぐ。ついでに顔も洗えば、不快感はマシになった。

 レバーから足を外すと水は自動で止まる。音を立てて排水溝が水を飲み込んでいく音は、おぼれる人間の呼吸に似ていた。


「やっぱりそうだ」


 やけに冷えた声。それが自分の声だと後で気がつく。

 刑事の言うとおり、事件を通して眼を使いこなそうとしていた。

 いつから見えるようになったのか、もう覚えてはいない。

 昔は、何のためらいもなく、人の心を覗いていた時期もあった。

 心はとても繊細だ。ガラスなんかよりも、もっともろい。

 だから人は強いストレスを受けると抑圧 、退行、合理化、知性化、反動形成などの心の防衛機制ぼうえいきこうが行われ、心が壊れないようにしている。例えるのなら、氷が張られた湖のようなものだろう。

 無理やり心をあばくということは、その分厚い氷で覆われ、霜柱しもばしらや雪で美しく飾られたその上を土足で入り、さんざん踏み荒らした挙句に表面を踏み割って穴を開ける行為に似ている。

 そんな事をすれば、相手に負荷がかかり、そして最悪相手の心を壊すことになる。

 人の心を視てはいけない。

 そう、何度も間違ってきた。

 しかし、この眼が厄介なのは、自分の意思など関係ない事だ。

 つけっぱなしのテレビと同じだ。ちらちらと目の端にずっと入り込んでくる。

 なるべく目をつぶったりうつむいたりして避けていたが、電車などの密集する場所、授業中などで仕方なく顔を上げるようなときに不意に心を視てしまえば、うっかり氷を踏み抜いて冷たい水の中に落ちてしまう。

 まるでその人が見てきたものを強制的に追体験し、吸っても吸っても心を吸い込み溺れて、そのまま気を失ってしまったこともあった。

 このままだとこの感情は自分のものなのか、それとも他人のものなのか、境界線が分からなくなってしまいそうで、怖かった。

 だから見ないように、視ないように。ずっと避けてきた。

 それなのに。


 まさか警察に眼のことを知られているとは予想外だった。

 能力を使いたくない。しかしおどされている以上、協力しないと言う選択肢はない。

 そしてふと考えた。だったら、利用するのはどうだろうか。

 眼を使うことを避けて生きてきた。でも、もし使いこなせるのであれば、視ないようにできるかもしれない。

 おあつらえ向きに生贄(スケープゴート)が用意される。

 犯罪者なら、少々壊れたところで問題はないだろう。

 試しに、目の前に差し出された犯人の心を覗きこんだ。

 言葉というハンマーを使って氷を叩き割り、閉ざされた心へと潜ることはできた。

 案外できるものだなと思った。

 しかし、代償として反動を受けることを知った。

 細いワイヤーを頭にくくりつけられ、徐々(じょじょ)に締めつけられるような頭痛が起きるのを知った。

 不意に人の心を視て、気絶したことは二度。それ以外は疲労感を覚えることは多々あったが、少し休めば回復する程度だった。

 だが、具体的な症状として体が反応したことに少しだけ恐怖を感じた。

 やめてしまおう、とも思った。

 でも、2度目の事件を半分強引に参加させられて、眼を使い確証した。

 まだこの程度なら耐えられる。


 それに、今まで不意に心を見て気絶したときよりも、相手の心に深くもぐっている。

 それでこの程度で済んでいるのなら、やはり視方みかたがあるのだろう。

 相手が隠している心を、自分の手で暴いていく方法は今までやったことはない。

 だから事件に参加して、3度目、4度目と試していった。

 回数と疲労度、体調による変化、できること、できないこと、少しずつ足場を確認するような地道な作業だったが、目を使いこなしたい一心で捜査に協力し続けた。


 だが、今回周防(すおう)遊冶ゆうじの心を視て、それが甘い事であると、やっと気がついた。

 眼は使えば使うほど、精度が上がっているのは確かだ。

 心へと潜り続けたおかげか、深度は使うほど増していく。

 だが、負担も同じく増えていく。

 気絶まではまだしも、まさか通りすがりの人間の心を少し視ただけで、拒絶反応が起きるなんて。

 これ以上は限界だと体が悲鳴を上げている。

 休めば治るのか、それともまた朝を迎えて目を開ければ、また苦痛が続くのか。

 分からない。

 分からないことが恐ろしい。

 恐ろしくて苦しい。

 この苦しみは、誰にもわかってもらえない。

 足元から絶望が這い上がってくる。

 指でまぶたの上から、眼球を触る。

 丸く、弾力のある、眼球。

 えぐり出せればどれだけ楽か。

 何度もそう考えた。

 それでもつゆにいと【約束】したから踏み止まってきた。

 だがあと6年も待てる気がしない。

 とっとと楽になりたい。

 未来なんて考えたくない。

 まぶたに爪を立てる。眼窩がんかに指を食い込ませようと力を入れた。


「俺を頼れよ」


 不意に力強い、蕗二の声がはっきりと聞こえた。

 ハッと息を飲み、眼から手を離す。

 よく覚えている。

 初めて会った時、強烈な殺意を向けてきた男だ。

 目を合わせれば飲まれてしまうと思った。

 だが、すぐに違和感に気がついた。

 こちらを見ているが視ていない。怒りに染まった目が一体何を視ているのかと、興味本位で少しだけ覗き込んだ。

 殺意の向こう、腹底でこちらを睨む赤い眼をした男。

 後悔と懺悔ざんげ、そして自殺願望。

 刑事という職業についているのに、驚くほど矛盾した人間だなと思ったのは最初の印象だ。

 捜査で何度も会い、会話しても、その印象はくつがえらなかった。

 人の外側と内側が違うことや意図して外側を見繕みつくろっていることはよく知っているが、ここまで徹底的に感情で心にふたをして、本人にさえ見えないように隠そうとしている人は視た事がなかった。野村のむら紅葉もみじも似たところはあるが、彼女はまだ自覚があった。しかし、三輪蕗二は自覚がありそうでない、まるで必死に見ぬふりをしていた。


 正義の言葉を吐きながら、心の奥で刃物を手放さないチグハグなこの男に、何度か苛立いらだちを隠せずにちょっとは心に目を向けて見ろとうながしては無視された。

 一度、ちゃんと覗きこもうとしたら頭をつかまれて拒絶された。

 心が壊れるのが先かもしれないと、遠慮えんりょしていた矢先に大阪で胸ぐらを掴まれた。

 いい加減、うわべだけの言葉を聞くのにもきたところだった。

 首根っこを掴んで、目をらし続けている心の奥を直視させてやろうと思った。

 ガタイのわりに臆病者のこの男は、無理やり心を暴いてきた犯人のように壊れてしまうか、それとも心に飲まれて、殺されるか。


 結果は、彼が乖離かいりしていた心を受け止めたことで昇華しょうかされた。

 彼は事件によって歪んだ思考と欲望から警察になったと言っていたが、元々の気質はお人好しだ。

 人が困っていれば手を差し伸べ、自らを犠牲にできる。

 怒りに飲まれていても真っ直ぐな心にかれ、または嫉妬した者もいるだろう。

 その彼が、≪ブルーマーク≫というレッテルを超え、真っ直ぐこちらを見るようになった。

 嘘も、その場限りのごまかしなどでも、お互い交換するような見返りでもない。

 大きく暖かで、男らしく角ばっていて力強い手を思い出す。

 真っ直ぐで、泣きたくなるほど優しかった。


 すがるように液晶端末を引っ張り出し、電話のアイコンを指先でタップすれば、着信履歴が表示され、一番上に「刑事さん」と登録された番号が表示されている。

 震える指が通話開始ボタンの前で止まる。

 頭の奥で冷えた声がした。

 刑事は優しい。

 だが彼にすがって、何の解決になる。

 今はチームだが、それもいびつな集まりだ。

 突然集められたように、突然解散させられるか分からない。

 そうなれば彼とは、刑事と犯罪者予備軍の≪ブルーマーク≫に戻るだけだ。

 その後でも、同じように接してくれるとは限らない。

 それに、まだ彼は、ぼくが≪ブルーマーク≫になった、()()()()()を知らない。

 それを知った後、味方でいてくれる保証はどこにある?

 すべてをさらけ出して、理解してほしいと、すがって寄りかかって。

 もしも、見放されてしまったら。

 もしも、失望の眼差しを向けられてしまったら。

 もしも、その心を視てしまったら。

 頭上から、鋭く冷えた目がこちらを見降ろす。

 低く冷たい声が降ってくる。


『お前なんか……』


 いつの間にか座り込んでいた。体が冷えて、爪先からこおっていきそうだ。

 耐えるように膝を抱え、ひたいこすりつける。

 そう、1人は慣れている。

 一度温かさを知ったら、辛くなるだけだ。

 それならいっそ、初めから手を伸ばさなければ……


「ゆっくり、話をしよう」


 刑事と背丈せたけが似た、大きな手が背中をさする。


「これについても、きっと君と私は【同じ悩み】を持っている」


 青や緑が混じる鋼鉄こうてつ色の虹彩こうさいが笑っている。

 首元をゆるめ、学生服の内側へと手を差し込んだ。

 指で内側にいつけられたポケットを探り当て、目的の物を引っ張り出した。

 真っ白な名刺だ。長くしまい込まれていたせいで、はしが折れ曲がっているが、汚れは付いていない。

 上質できめ細かい紙質なのか、触り心地のいい表面を何度か撫でる。

 百合ゆりの花をモチーフにしたロゴマークの下、英語でつづられた文字の上で感触が変わるのは、活版かっぱん印刷で押されているからだろう。


「ぼくは…………誰を頼るのが【正解】なんでしょう」


 かすれた声に答える者はいない。

 履歴のボタンのふたつ隣にある点が9つ並んだアイコンをタップすれば、0から9の数字が表示される。

 名刺に書かれた番号を正確に打ち込む。発信ボタンに触れた途端、押してしまったと言う後悔が湧き上がる。5コールしても出なければなかった事にしようなんて身勝手なことさえ考えながら、呼び出し中の文字を睨みつけ、耳に押し当てた。

 規則的に鳴り続ける機械音に耳を澄ませる。

 長く感じる4コールめ。呼び出し音が途切れた。


『Good afternoon?』


 よく通る低い男の声がした。緊張で乾いて貼りつく唇を舌でこじ開けて意味もなく湿らせる。


「こんばんは。ルティエンス・ティー・ワクスワインさん、で合ってますか?」

『そうだよ?』

「あなたと同じ、『眼』を持つものです」


 精密な機械は、向こう側で満足そうに笑うかすかな吐息も拾い上げた。警戒していた声は嬉しさのあまりうわずったようにねあがった。


『君からの連絡を待っていたよ! さて、いつ会えるかな?』

「今から、会えますか?」

『もちろん! すぐ迎えを出すよ、待ち合わせ場所を教えてくれ』

「分かりました」


 耳から端末を離し、画面を指でスライドして通話を終わらせた。すぐにメッセージアプリを展開し、電話番号に今いる公園の名前と住所を送る。間を置かず、「Roger」と返ってきた。

 噛み締めた下唇がギチギチとにぶい音を立てる。



 真っ暗になった画面は、街灯の光さえも反射しなかった。

 彼の表情を知る者は、誰もいなかった。















 翌日。10月3日金曜日、AM9:00。

 東京留置所(こうちしょ)


 コツコツと、無機質な床をかかとが叩く音がやけに響く。

 蕗二は意味もなくジャケットのえりを整える。ネクタイだけは堅苦しいのでつけていない。まずスーツで会うような相手でもないが、この後仕事に戻らなければいけないのだから、我慢してもらおう。

 中年の刑務官けいむかんに連れられ、一番奥の面会室に案内される。

 後ろで刑務官が待機する中、部屋の真ん中に置かれたパイプ椅子に座る。

 目の前には壁に固定された机。その真ん中は遮蔽板しゃへいばんである透明なアクリル板で仕切られている。

 もちろん机から回り込んで向こうには行けないようにコンクリートで壁がもうけられている。

 蕗二が座っている位置から見て顎辺りに向こう側の声が聞こえるように、爪楊枝が入るかどうかくらいの小さな穴が複数開けられている。

 手持無沙汰てもちぶさたに左手首に巻きつけてある腕時計をながめていると、アクリル板の向こう側でドアが開く。

 刑務官とともに入ってきたのは、ひもが抜かれたグレーのパーカーにジーンズというラフな格好をした男だ。

 蕗二は手を上げて笑いかける。


「よお、椋村むくむら。元気か?」

「おかげさまで。意外と飯は美味いで。みそ汁は濃いけどな?」


 あーよっこいしょ、とふざけたように言いながら椅子に座った椋村に、蕗二はさっそく本題を切り出す。


「ひとつ聞いてもええか? お前、なんで東京に居んねん」


 椋村はいまさら何を言ってるんだと言わんばかりに目を見開いた。


「何寝ぼけてんねん。俺の所属は公安やったんやで?」

「そうやった、警察庁(お隣さん)やったな」

「おもろいよな。まさかそんな近くに居ったのに、お互い知らんかってんから」


 机に肘をついて頬杖を突く椋村が皮肉まじりに笑う。

 蕗二も机に肘をついて、間を隔てるアクリル板に額を突きつける。


奈須なすから聞いたで。お前、死んだ同級生らの遺族に、慰謝料出すんやって?」


 椋村むくむらは肘をついたまま、何ともないように言う。


栩木とちぎのアホは、たぶん自分のことで精一杯やろ? 俺も仕事ばっかりで、ちーとも遊べへんかったし、使い道もないお金ばっかり溜まっとったんや」

「椋村。お前、ご家族は? 結婚指輪もしとったやろ」

「結婚は偽装や。そういう設定やねん」

「じゃあ事実は?」

「親は、事故で二人とも早よ死んだ。もともと兄弟も居らん、親戚は全員死んでる。もう、家族なんて呼べる人は、誰も居らん」


 静間に帰る。学校だろうか、懐かしいチャイムの音が遠くで鳴っている。

 その音に耳を傾けてどこか遠くを見ていた椋村は、静かに口を開いた。


公安しごとってこともあるけど、存在がふわふわしてもうて、俺自身が生きてるの死んでるのか、ようわからんくなって、ずっと不安やった。これ以上大切な人や唯一ゆいいつの仲間を失いとうないって行動したのに、結局ぜーんぶ失った。ざまーないわ」


 鼻で笑った椋村は、椅子にもたれる。

 その姿を見ているのが辛くなった。

 かつて青空の下、一緒に過ごしてきた大切な仲間だ。

 あの日、二葉ふたばの店で机を囲んで笑い合えたはずだ。

 こんな透明な仕切り板越しに会話することはないはずだ。

 目を強くつぶる。

 やめろ、感傷かんしょうひたるな。浸ればまた目をらすことになる。

 深く息を吸い、細く長く息を吐き出す。


「お前は人殺しになった」

「ああ、そうや」

「小松の嫁さんは、泣いとった。子供もまだちいさい。立派な店を構えたばっかりやったのに」

「そうや、実行犯じゃあないけど加担した。立派な加害者や」


 目が合う。眼鏡越しに真剣な眼がこちらを見ていた。


「許せとは言わん。罪は一生かけてつぐなう。ただ、ホンマにすまんかった」


 椋村が背筋を伸ばすと、深く頭を下げた。その旋毛つむじを睨みつける。


「俺に謝るな。まず謝らんとあかん人はもっとおるやろ?」


 しかし椋村は顔を上げなかった。


「それはもちろんや。でも、お前にも謝りたい。ひどいことを言うた」


 9月。主犯だと思い込み、殴り合いの末に組み伏せた時の事だろう。


『今更戻ろうとしたんやったら、都合よすぎやと思わんかったか?』


 あの言葉は確かに心をえぐった。だが事実でもあった。

 だけど、もう過ぎた話だ。


「なぁ、椋村。もうそんな事、ええねん。それより、ちゃんと話そうや。俺もずっと仕事ばっかりで、ちょっと遊び方忘れてんねん。野球の事とか仕事とかさ、しょーもないこと話したいねん」


 椋村がやっと顔を上げる。ふと真顔が崩れると、眼鏡を持ち上げてそでに顔を押しつける。鼻をすする音と嗚咽おえつが聞こえ、蕗二は慌てた。尻の下でパイプ椅子がきしむ。


「おいおい、泣くほどかよ」

「歳やねん、勘弁してーな」

「勘弁してほしいはこっちやで。ハンカチも渡されへん」


 アクリル板をノックすれば、椋村は大きく鼻を啜って笑い、ようやく袖から顔を上げた。

 目のふちを赤くして目を細める。


「お前がまぶしぃてしゃーないわ。栩木とちぎが嫉妬するんも、ちょっとわかる」

「お前も栩木もけったいなこと言うわ。俺は嫉妬されるような人間ちゃうで」


 腕を組んで不機嫌をアピールすれば、椋村は「ええねんお前はそれで」と言って、眼鏡を外した。

 汚れを見ているのか、細い縁の眼鏡をしばらく見つめていた椋村がようやく顔を上げた。


「三輪、俺を泣かしに来ただけちゃうやろ? なんか聞きたいことがあったんちゃうんか?」


 眼鏡をかけ直し、真剣な表情でこちらを見つめる。

 ちらりと椋村の背後の刑務官に視線を向ける。

 制服に身を包んだ刑務官は、銅像のように動かぬまま帽子の下からこちらを見ている。

 蕗二は机の下で腕時計を盗み見る。持ち時間はあと5分だ。

 身を乗り出して、ギリギリまでアクリル板に近づき、声をひそめる。


椋村むくむら。俺は、いくら公安のお前でも、ひとりでマーク情報を改竄かいざんできるとは思わん。協力者はいないのか?」


 すぐさま椋村は顔の前で手を振って否定する。


「ないない。おるわけないやろ。改竄かいざんなんて違法や、頼んだって誰も協力してくれへん」

「じゃあ、公安なら誰でも改竄できるのか?」


 すると突然、椋村が机に拳を叩きつける。


「でけへん! そんなホイホイ改竄できたら犯罪防止策の意味がないやろがッ!」


 怒声が部屋を反響する。蕗二の後ろに待機していた刑務官が「声をつつしみなさい」と低い声を出す。

 振り返り、申し訳ございませんと頭を下げて椋村に向き直る。

 椋村は殺気立っていたが、さすが公安と言うべきか、すぐに深く息を吐いて興奮を収めた。


「いきなり怒鳴ってすまん」

「いや、俺もすまん。変なことと聞いた」


≪ブルーマーク≫について、引っかかっていることがある。

 まだぼんやりとして輪郭りんかくは掴めないが、直感がはっきりと告げている。

 少しでも手掛かりが欲しい。直球すぎる質問だと思ったが、まさか怒鳴られるとまでは思っていなかった。

 気まずい雰囲気の中、不意に椋村が口を開いた。


「道のの 壱師いちしの花の 灼然いちしろく 人皆知ひとみなしりぬ 我が恋妻こいつまは」


「は?」


 首をかしげていると、椋村は吹き出した。


「なんや、万葉集まんようしゅうも知らんのか? ようずかしいってことや」

「そんな洒落しゃれた言い回しで言われても困るわ」

「いや洒落てるも何も、授業でもやったしテストにも出たはずやで? あ、そういやお前と栩木とちぎはそろって5科目の点数悪かったなぁ?」

「やめろ、テストの事なんて思い出したくもねぇ」


 歯を剥いて威嚇いかくすれば、椋村は腹を抱えてはははと軽快に笑う。


「あーあ、ほんま笑かすわぁ」


 ひとしきり笑った椋村は、軽く仰け反った体勢から戻り、アクリル板にギリギリまで顔を近づけた。


「なあ、三輪。何を知りたいんかは知らんけど、世の中には知らんでええこともあるんや。面白半分で下手に首ツッコんだらあかん」


 ええな? と念押しをされ、返事をする前にさえぎられる。


「面会時間が終了しました、速やかに退出してください」


 若い刑務官の声に、椋村がすぐさま立ち上がる。


「ほなな、蕗二。元気でな」


 ガタつくパイプ椅子を丁寧に机のところに戻し、きびすを返す。


椋村むくむら


 開けられたドアの前、椋村が立ち止まる。


「また会いに来る」


 椋村は振り返らず、手を上げて返事をした。

 ドアが閉まり、蕗二もようやく立ち上がる。

 中年の刑務官に促され、部屋から出て、天井を押し上げるように手を上げて背筋を伸ばす。

 たった15分とはいえ、小さい部屋はやはり窮屈きゅうくつに感じる。

 椋村はこの先、この窮屈な生活をしなければならない。

 警察でありながら殺人事件に加担したのだ。重い刑はまぬがれないだろう。もしかしたらへいの外には出られない可能性もある。それでも約束をしたのは俺のエゴだ。

 弱虫だった俺が大切にしまい込んでしまった青春の思い出たちを、地続きの過去からちゃんと今に持って行きたい。そのためには、ともに語らう友が欲しい。もちろんただただ美化するのではなく、栩木とバッテリーを組んでいた椋村が背負っていた、チームの暗い部分も含めて知りたかった。

 それに椋村を孤独のままにしておきたくはなかった。

 役職として仕方がなかったとはいえ、嘘をつき続けた。

 このまま誰にも知られずに一人死んでいくなんて、あまりにも悲しい。そう、同情とも言える俺のエゴだ。まだ割り切れない。割り切りたくない。捨て去るほど冷酷にはなれない。だから、最期まで付き合いたいと思った。

 これは、愛と言うやつなのか?

 ふと暗い車内で交わした芳乃ほうのとのやり取りを思い出す。


『愛は、欲しいと願うほど、手に入らないんでしょうね』


 どこかあきめたような芳乃の小さな呟きが聞こえる。

 ただの雑談の延長ではあったが、芳乃のもろさを垣間かいま見た気がした。

 彼の事はまだよく知らない。だが、きっとこの先放ってはおけない存在になるだろう。

 もしこの感情が愛だとしたら、芳乃になんて言うべきなのだろうか。

 愛してる、なんて言ったら、なんだか意味が違う気がして寒気がするし、芳乃が嫌悪感を隠しもせずにこちらを睨みつけてくるのが予想できる。

 恋愛経験もうとすぎて、ちっぽけな脳みそで適切な言葉をひねり出せる気がまったくしない。

 ここは竹輔たけすけにも聞いてみようか。菊田さんやあずまさんは雑談がてら、いや忙しくてそんな暇はないか。

 だったら片岡や野村にも聞いてみようか。あいつらは絶対に面白がって盛り上がるだろう。

 にぎやかな会話を思い浮かべて、ゆるんでしまいそうなほほを引き締めようと短く息を吐き出した。


 と、乾いた大きな音がした。

 それが銃声だと気がついたのは、悲鳴が聞こえてからだった。


 前を歩いていた刑務官が、はっと息を飲み、踏鞴たたらを踏んで駆け出す。

 その後ろを追いかけ、受付の中へと駆け込む。

 避難しろと怒号が飛び交い、慌てふためく事務員たちの中を、警察手帳を掲示けいじしながら横切り、反対側の廊下へと出る。

 警棒やさすまたを持った刑務官たちが緊張した面持ちで廊下の先を見ている。

 刑務官たちの頭の向こうに、廊下の突き当りが見える。

 壁に赤い染みができていた。

 その下に、壁に寄りかかるように座る男がいた。

 見間違えるわけがない、だって先ほどまで話していた姿だ。


「椋村!?」


 はっと視線が椋村のかたわらに立つ男を捕らえる。

 椋村を誘導していた若い刑務官だ。その右手につや消しされた小型の拳銃が握られている。

 警察官が携帯する拳銃の中で一番数が多い回転式拳銃リボルバーだ。装填数そうてんすうは5発。弾薬だんやくは威力を落としているとはいえ、もちろん十分な殺傷力がある。

 銃声は1発、あと4発残っていることになる。

 蕗二の隣で、中年の刑務官が青い顔をしながら後ろ手に拳銃のホルスターを探っている。

 ふと男がこっちを向いた。

 緊張感が走る。

 と、男は自らのこめかみに銃口を押し当てた。

 あっという暇もなかった。

 とどろいた銃声と床に崩れた肉体の音。


「なんだ、これ……」


 蕗二の声に答える者はいなかった。

 誰もが、目の前で起きたことを信じられず、立ち尽くしている。

 ただ、壁に飛び散った血痕けっこん彼岸花ひがんばなのように細く伸びていくのを、見つめていた。







【鏡合わせのマグノリア 了】

****************************

出典:『万葉集』巻第十一 2480 『柿本人麻呂歌集』

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