File:3 ワイルドピッチ
9月20日土曜日。AM10:22.
車が一台通れるほどの路地。蕗二と二葉翔平の妻・飛鳥は一軒の家の前で立っていた。
二階建ての家を見上げていた蕗二の隣、飛鳥は鍵を取り出す様子もなく、ドアへと近づく。
ドアノブの上に暗証番号を電子入力できるパネルがあった。飛鳥がタッチパネルに触れると、1から9の数字が表示されたが、順番はバラバラだ。簡単に数字を特定されないようにランダムで表示されるようだ。プライバシーに配慮して、パネルから僅かに視線を逸らす。指が6回動き終えると、鍵の外れる小さな音。飛鳥がドアを大きく開いて、「どうぞ」と蕗二を先に促した。
ドアの先は、蕗二が一昨日訪れていた場所であり、二葉翔平が死んでいた現場だった。
あの後、泣き崩れた飛鳥を家に泊めた。泣き崩れ、取り乱す飛鳥を追い返すほど非情にはなれず、二葉が殺されたと言われれば、刑事の職業病というべきなのか、どうしても事情を聞きたくなった。
幸い子供は実家に預けていたそうなので、世話好きな母・ツヅミもティッシュやらタオルやら温かなお茶を出して慰めたおかげか、気が済むまで涙と思い出を零し、眠りについて落ち着いた飛鳥と共に家にやってきたのだ。
一言断ってドアを潜り抜ける。人が三人ほど立てるスペースを挟んで、コンクリート打ちっぱなしの壁があり、ステンレス製のドアが埋まっていた。丸いドアノブの真ん中に摘みが見えることから、ドアは鍵式のようだ。左へ首を捻れば二階へ通じる階段があった。この先は恐らく二葉家の居住スペースなのだろう。階段を見上げていると、ドアを閉めた飛鳥が蕗二の脇を抜け、今度はステンレス製のドアノブの摘みを右に回す。先ほどより大きな開錠音が聞こえ、引き開けられたその先は厨房だった。
厨房はよく清潔にされているようで、ステンレス製の調理台は磨かれたように綺麗だ。飛鳥の後を追って調理台の間を抜けた部屋の奥、食器棚の隣に今度は上半分が擦りガラス状になったステンレス製のドアがあった。今度は鍵が付いていないらしい、ドアを開いた飛鳥が中を指差した。
「ここが食材置き場なんですが、主人はここに倒れてたんです」
部屋を覗き込めば、ずいぶんと狭いように思えた。恐らく、業務用大型冷蔵庫が奥に三台、手前に一台の計四台も並んでいるせいだろう。冷蔵庫と冷蔵庫の間は、人がすれ違うことさえも厳しそうだ。
二葉の妻・飛鳥によると、店は同窓会の当日と次の日は休みだったらしい。その日従業員はおらず、同窓会の開催時間までは調理や配膳などを夫婦二人で準備した。店の二階が住居であった二葉翔平は、同窓会が夜遅くなることと酔っ払った同級生が騒ぐことを予想し、まだ幼い子供たちと飛鳥を気遣って、その日は実家に滞在するように言ったらしい。飛鳥は次の朝9時、子供とともに二階の自宅に戻ったところ家のどこにも二葉はおらず、店の中で酔っ払って寝ているのかと店を探したところ、食材置き場で倒れていたところを発見。大至急、救急車と警察を呼んだところ、すでに亡くなっていたらしい。
警察からの事情聴取や葬儀準備の手続きなどを経て、疲弊しきった飛鳥は寝巻きに着替えたものの、呆然と深夜まで起きていた。そして、突然二葉翔平の携帯に奈須からの着信があったのだ。
メールを見た飛鳥は、藁をも縋る勢いで家を飛び出した。
そして昨日の深夜、蕗二の実家のチャイムが鳴らされたのだ。
食材置き場の中を見つめていた蕗二は、飛鳥に問いかける。
「ご主人は、どこにどう倒れてました?」
飛鳥は鮮明に覚えているのだろう、身振り手振りを交えて教えてくれる。
「倒れていたのは丁度そこです。頭は向こうで、万歳する感じで、うつ伏せに倒れていました」
蕗二は飛鳥の記憶どおり、部屋の真ん中で屈み、両手を上げて飛鳥に背を向ける。冷蔵庫と冷蔵庫の間で寝そべる振りをすれば、正解だと強く頷かれた。床から立ち上がり、唸りながら腕を組む。
「部屋の中に、何か落ちていたものとかありますか?」
「残り物の食材と、それから『かんてき』が……」
そこで蕗二は眉を寄せた。
「かんてき?」
かんてきとは、大阪弁で七輪のことだ。今では老舗が使うかよほどの料理好きでない限り使わないし、ほとんで見かけない骨董品のようなもので、蕗二自身も扱ったことはないので、使い方や種類など詳しくは知らない。
だが、たまに事故か自殺現場で見ることがある。七輪はけして殺人の道具など危険なものではなく、れっきとした調理器具だ。円筒状の調理器具で、中に炭火を入れて上に金網を乗せ、本格的な炭火焼を楽しむ小型コンロだったはずだ。
蕗二が疑問に思ったのは、その珍しさではない。
「俺たちが飲んでたとき、七輪なんて使った覚えないんですけど」
恥ずかしながら、酒の飲みすぎで記憶が曖昧なのだが、机の上に並ぶ料理には串焼きが多かった。その中で、だしの味が利いた厚焼き玉子や縁が香ばしく焼けたカルビも机の上には並んでいたのは覚えているが、七輪が登場した覚えはない。
記憶の答え合わせも兼ねて問えば、飛鳥は納得したように頷いた。
「七輪はお客さんの前には出さへんので。うち、串焼き機で焼けないものは七輪を使ってて、確か三輪さんが参加された同窓会のメニューでも、七輪を使った料理もありました」
よかった。ここで七輪が机の上に出ていたら、酔いつぶれていたと暴露しなければいけないところだった。なんて内心、こっそりと安堵の溜息を吐いた傍ら、飛鳥が目を伏せた。いや違う、視線は床に向けられていた。そこは夫・二葉翔平が亡くなっていた場所だ。
「警察には、翔平はこの食材置き場の中で、片づけをしていた時に誤って冷蔵庫の扉で頭を打って気絶して、一緒に持って入っていた七輪による一酸化中毒だと言われました」
下唇を噛み締めるように唇を結ぶと顔を上げ、蕗二を睨むような強い視線を向けた。
「翔平が食材置き場に七輪を持って入るなんて、全然思えへんのです! 火の始末だとか、すごい気をつける人で、従業員にも一酸化炭素中毒についてあれだけ話してたのに、全然納得できへん!」
感情が高ぶったのか、飛鳥が瞬きするたびに涙が散った。鼻を啜り、袖で目を押さえた飛鳥をどこかで休んでいるように伝える。
その背を厨房の左側、紺色の暖簾の向こうに消えたのを見送り、蕗二は食材置き場のドアに視線を走らせる。ドアのすぐ隣にふたつ縦に並んだスイッチを見つけた。下を押すと部屋の明かりが消え、上を押すと部屋の奥、角のところにひっそりとあった換気扇が回った。一度ドアを閉めてみると、きっちりと閉まった。食材への臭い移りや温度や湿度を保つ為、または害虫が入らないようにだろう、密封性が高いことが窺える。
ドアを開け、部屋に入る。入り口のすぐ目の前、冷蔵庫と壁の間に少し開いた隙間に、発砲スチロールの箱が無造作に積まれている。中身を空けてみるが空だ。ぐるりと首を回して部屋を観察する。窓はないようだ。
部屋の真ん中、二葉が倒れていた場所に立つ。冷蔵庫に頭をぶつけて気絶する方法はなんだろう。まさか自分で開けた冷蔵庫に頭をぶつける……のは、流石にないだろう。食材が散乱していたことを考えると、同窓会で余った食材を冷蔵庫にしまおうとして、一度食材を床に置いて冷蔵庫を開け、食材を持ち直したところで冷蔵庫に打ち付けたと考えるのが妥当だろうか? それなら、倒れるほどかなり強く頭を打ちつける可能性はある。首を傾げながら、ちょうど頭をぶつけそうな場所を探す。冷蔵庫の下あたりには何かを擦ったような跡はあるが、古そうなものから新しいものまで混ざっている。これだけ狭いのだ、荷物の出し入れで日々傷つくかもしれない。先ほど触った発泡スチロールの角が潰れているところからも推測できる。だが表面やドアの角にも視線と指先を這わせ、へこみを探すが見当たらない。冷蔵庫と頭蓋骨なら、冷蔵庫の方が硬いが、気絶するほど打ち付けているのだから、僅かにでもへこんでいる可能性はあるはずだ。しかし、へこみはひとつも見当たらなかった。
部屋を出て、今度は七輪を探す。ひとつはドアのすぐ脇に、さらにふたつが厨房のコンロの脇で見つかった。コンロの脇にあった七輪には黒い炭が入れてあったが、ドア脇の七輪には炭は入っておらず、白く大粒の砂利のような塊が入っていた。指で摘むと砕けて、白い粉が指に付く。炭が燃え尽きた後のようだ。
厨房を見渡す。荒らされた形跡や、誰かが乱入してきて暴れたような痕跡もない。
食材置き場とは反対側に大きなシンクがあった。覗き込むと、見覚えのある食器がまだ洗われていないまま積まれていた。
シンクの左となり、飛鳥が消えた暖簾があった。手で割り開き、首だけで中を覗く。こちらも厨房だが、カウンターの中だった。そして、一昨日同窓会をしていた店内に繋がっていた。
暖簾のすぐそば、カウンターと壁の間に人一人が通れるだけの隙間があり、内からでも外からでも開閉できる仕切り板が一枚あった。ここから厨房へ出入りするのだろう。ついでに、そこに電子型の清算レジもある。
蕗二は腕を組んで、静かに状況整理を始めた。
同窓会を開始したのは、19時半ごろ。記憶があるのは、確か22時だ。そこから先、酔いつぶれた蕗二は記憶がない。もし22時に解散したとして、そこから片付けに入ったとしても、食器がシンクに置きっ放しになっていたこと、食材の余りを冷蔵庫にしまおうとしていたことを考えると、解散してから30分から一時間以内には食材置き場で気絶したことになる。
もし、二葉が誰かに殺されるとすれば、まず犯人はどこから入った?
二葉が倒れていた場所は厨房の一番奥だ。そこに行くには、今蕗二が立っているカウンターか裏口の玄関しかない。裏口から入るのは業者か店の関係者だろう、それ以外の人物が入れば即座に怪しまれる上に、電子施錠されていてピッキングでは入れない。そう考えれば店の正面から入り、カウンターから侵入したと考えたほうが良い。
問題は飛鳥が証言した、二葉が殺されたのは同窓会のあった日、店は貸し切りになっていた事。
しかも、同窓会の日とその次の日は臨時休業になっていた。
一般人がそんな店に入ることはない。なら一昨日の夜、そんな店に堂々と入るような犯人とは、どういう人物だ?
今まで解決してきた事件を思い出す。そこまで行動しようとすれば、よっぽどの強い感情が必要だ。例えば一番多いのは怨恨。その感情が強ければ強いほど、冷静さはなくなり、なりふり構わず大胆な犯行になる。しかも、比例するように刺殺や撲殺など血生臭い現場になりがちだ。
しかし、二葉をうつ伏せで倒れていた。
うつ伏せと言うことは、背後から襲われことになる。遺体を見ていないから何とも言えないが、もし正面から襲われたら、反射的に頭を庇ったり、武器を奪おうとしたり、かなり抵抗する。そうなれば気絶させるのは一苦労だ。気絶させるまでに、二葉の体中は痣だらけになる。痣だらけなら、さすがに現場を見た刑事や鑑識も気がつくだろう。
事故か、それとも他殺か。
蕗二は腕組を解き、カウンターの中から店内を見回す。そこに飛鳥の姿があった。飛鳥は偶然にも二葉が座っていた席で、項垂れて座っていた。その小さな背は、哀れに感じるほど細い。
蕗二は軽く咳払いをしてからカウンターから出る。飛鳥の背がわずかに反応したのを目の端に入れつつ、隣の席に座る。飛鳥は先ほどよりは落ち着いたようで、蕗二が座ると同時に顔を上げた。
蕗二は一昨日料理がおいてあった席に視線を向けたまま、そっと言葉を吐く。
「二葉とは、高校時代に同じ野球チームでした。でも、卒業してからは仕事が忙しくて、みんなとは全然会っていなくて、久しぶりに会ったのが一昨日だったんです。彼の性格から、人とトラブルを起こすようなイメージが全くわかないんですが、客や業者と何かのトラブルに記憶にありますか?」
二葉はチーム全体を見渡せる冷静さもあったが、人情深く涙もろい奴で、試合後に泣いている印象も強い。また、誰かが怪我をすると一番心配するやつでもあった。そう考えると、誰かの恨みを買うようなことをするとは思えなかった。
蕗二の予想どおり、飛鳥はすぐさま否定の言葉を吐いた。
「全然、まったく覚えがないんです。ほんまに……」
ごめんなさい、と掠れた声が床に落ちていく。顔を覆うように垂れ下がった髪の隙間から、今にも消え入りそうな声が聞こえてくる。
「三輪さんを、私の我がままに引っ張りまわしてしまって、ごめんなさい。翔平の死があんまりにも、突然で、今も、ほんまは受け止められへんくて……殺されたんやって思ったんですけど、ほんまに事故やったんかもしらへんですね」
自嘲する飛鳥の肩が小さく震えている。その細い肩に、これから圧し掛かってくるものの重さを恐れているように……
「諦めたらあかん!」
突然上がった大声に驚いて、飛鳥の顔が跳ね上がる。いつの間にか立ち上がった蕗二を見上げ、目を丸く見開く飛鳥に、蕗二は首を振った。
「納得できへんのに、諦めるなんて一番あかん。事故死やったんか、ホンマは誰かに殺されたんか……もし、殺されたんやったら、何で殺したのか……」
事故と他殺は全然違う。事故なら運とも言える。でも、他殺は無理やり人生を閉ざされたのだ。納得ができなくて当然だ。なぜ殺されなければいけなかったのか、心の整理がまったく付かない。
この苦しみを、蕗二は知っている。知っているからこそ、明らかにしなければいけない。
「今はっきりさせとかへんと、絶対後で後悔する。絶対や!」
蕗二はズボンのポケットから液晶端末を引っ張り出した。
「とりあえず、昔の同僚に連絡取って、もう一度二葉が亡くなった時の状況を詳しく確認してみます」
位置関係を考えると、浪速警察署が近かったはずだ。液晶端末の電話帳を遡り、大阪に勤務していた時のリストを引っ張り出す。
ふと、飛鳥の気配が動いた。
端末から視線を上げると、飛鳥は立ち上がっていた。伏せられていた顔が上がり、赤い眼がこちらを見詰めている。彼女は泣いていた。いや違う。泣き出す寸前、零れかけた涙を堪えているのだ。その目に浮かぶのは悲しみではなく、強い決意だった。
「三輪さん、よろしくお願いします」
蕗二は、飛鳥に答えるようにひとつ強く頷いた。
蕗二は端末を片手に、焼き鳥や「まるやきどり」の前に立つ。
一昨日の夜に訪れた時とは違い、明かりの消えた店からは活気もなく、主人を失った悲しみに暮れている。
二葉の顔を思い出す。だが、一昨日会ったときよりも高校時代のチームで泥だらけになっていた姿の方が鮮明だった。
飛鳥同様、二葉の死をまだ受け止められない自分がいる。
だが、ただ受け止められないから調べたいわけではない。どうしても、事故だと思えない点があるのだ。
あの部屋で、本当に二葉が一酸化炭素中毒で死ねるのか。
何かが引っかかっている。まるで指に刺さった見えない棘のように、気になって仕方がない。
奈須はなぜ俺に「聞け」に言ったのか。俺が警察だってことは知らないはずだ。知っているなら、わざわざ職業を聞く必要はないだろう。もし知らない振りをしていたのなら……
背筋に氷を当たられたように、体が震えた。
それを振り払うように頭を強く振り、液晶端末を指先でタップした。
浪速警察署。
警察署の正面玄関ではなく、横にある地下駐車場への入り口へと足を運ぶ。シャッターやゲートがあるわけではないが、まず警察手帳のIDが読み取れなければ、即座に警報が鳴る仕組みだ。また車で突入しようとしても、入り口には鉄のポールが三本地面からせり上がっていて、必ず引っかかる。
明るい外から、薄暗い駐車上に踏み込んだ。暗闇の中、駐車場の一番奥の壁に小さく赤い光が見える。目を凝らせば、光を中心に人影が滲み出てくる。紺色のポロシャツに黒いジャンパーを羽織った男はジャンパーのポケットに手を突っ込んで壁にもたれかかり、煙草を吸っていた。足元に視線を落とし、黙々と白い煙を吐いていたが、ちょうど3メートルまで近づいた瞬間、顔が上がった。猛禽類に似た鋭い目つきで睨まれ、蕗二は立ち止まる。
「久しぶりやな、鳥頭」
軽く手を上げて見せれば、鳥頭は驚いたように目を見開いた。
「三輪! ホンマに来よった!」
慌てて靴の裏に煙草を擦り付けて火を消し、吸殻を携帯型灰皿に放り込んだ。本物か確かめるように肩や二の腕を叩くと、鳥頭はにやりと笑う。
「なんや、眉間の皺とか目つき悪いとことか、全ッ然変わらへんなぁ! 東京に行ったって聞いとったさかい、もっと毒されとるかと思ったわ」
「ないない。東京行って顔変わるんやったら、みーんな行っとるやろ? あ、お前は行かなあかんの違う?」
口の端を上げて笑い返せば、鳥頭はあからさまに渋面を作る。
「あー、オレは無理無理、ぜーったいあかん! 東京アレルギーで全身痒なるわ!」
背中に腕を伸ばして掻き毟る動作をひとしきりして、傍らのドアに手をかける。
「もう東京の話はええから、早入れ」
やや乱暴に開け放ち、さっさと中に入ってしまった。ドアが閉まる前に滑り込み、黒いジャンパーの背を追う。黒いジャンパーの背には大阪府警の文字とPOLICEと英語でプリントされている。その背が昔見たときよりも、少し細く見えた。
「なあ、鳥頭。お前痩せた……?」
「で? 何の事件が気になるって?」
蕗二の言葉に被せるように、鳥頭が声を張り上げた。
「ああ。昨日、焼鳥屋で店長が死んでた事件やねんけど、ちょっと資料見せてくれへんか?」
「ああ、あれな。一酸化炭素で亡くなっとったんやってな、奥さんも災難やな」
こちらを振り返りもせず、どこか他人事のように言う鳥頭の肩が、小さく跳ねるのを蕗二は見逃さなかった。自然と眉間に皺が寄る。白いロゴを見つめながら出した声は、威嚇するように低かった。
「なあ、鳥頭。その事件の担当、誰や」
鳥頭は答えない。ふと立ち止まると、ひとつのドアの前だった。
鳥頭は胸ポケットから警察手帳を引き出し、ドアノブの上に取り付けられていた機械に押し付ける。短い電子音に続き、ドアが独りでに開いた。鳥頭はゆっくりと開くドアを力づくで押し開ける。壁に当たって大きな音を立てたドアに張られた金属プレートを目の端で見る。資料室と書かれていた。その文字に、蕗二はさらに眉間の皺を深くする。二葉の事件は事故死扱いとなり、もう終わったことになっているのだ。
鳥頭を睨みつける。その手にはいつの間にか、黄緑色の紙製A4ファイルを持っていた。
「あれは事故死や。それ以上何があるねん」
資料室に入ってすぐにあった机の上に、叩きつけるように乱暴にファイルが置かれた。ジャケットから握りつぶされて皺だらけの煙草ケースから口で煙草を抜き取っている鳥頭を横目に、蕗二は無言でファイルを引き寄せ、ページを開く。真っ先に見たのは担当刑事だ。その名前は『鳥頭武』と表記されていた。
「司法解剖はしたんか?」
資料から視線だけを向ければ、鼻で笑った。
「せーへん。一酸化炭素中毒の死体は見た目一発で分かる、解剖する必要なんてあらへんやろ。無駄にホトケさん傷つけんのはバチ当たりやろ」
一酸化中毒で死んだ遺体は特徴的だ。発見が早く、腐ってさえいなければ死んでいるように見えないくらい血色が良いように見える。血液中の酸素を運ぶヘモグロビンが一酸化炭素と結びつき、酸素が全身に回らなくなって酸欠で窒息するようなものなのだが、そのヘモグロビンが酸素と結びついていたらオレンジか朱色なのに対し、一酸化炭素と結びつくとピンク色に変化する為だと鑑識から教えてもらった。
だが、もしかしたら別の死因の可能性だってある。検視だけで決め付けるのは、あまりにも強引だ。
「バチ当たりとか、んな事より殺人の可能性だって捨て切れへんやったら、家族が許可貰ったらええだけやろ。せっかちにも程があるんちゃうか?」
ファイルを閉じ、突きつけるように向ければ、鳥頭は蕗二の顔を奇妙なものを見る目で見返した。
「あんなぁ、ご遺族が納得できへんのも分かるで? けどな、どっからどう見ても、これは事故死や。そんなんにいちいち構っとったら埒があかん。それは分かるやんな?」
諭すように言われ、蕗二は一瞬にして怒りに火が付いた。
「事件に小さいも何もあるのかよ! 残された家族が、どんな思いで居るのかわかってんのか!」
鳥頭の腕が動いた。避けようと足を引いた時には、もう胸倉を掴まれていた。
「お前は遺族やから、そっちに肩入れしすぎるねん!」
鳥頭の怒声に、こめかみに青筋が立つ。蕗二の表情の変化に、鳥頭は一瞬怯えを見せたが、歯を食いしばり、さらに目つきを鋭く尖らせた。
「刑事なら分かっとるやろ。一課は殺人だけ違う。泥棒とか、強姦とか傷害暴行事件も、ぜーんぶ受けおってんねん。『犯罪防止策』で昔よりは減ったかも知れへんけど、1万あった事件が0になるわけちゃうねん。結局、≪ブルーマーク≫のアホどもが、毎日毎日ど突いたとかぶん殴ったとか、110番にクソほど電話がかかってくる。事件が起こらん日なんて無い! 人が全然足りひん。まだ解決できてへん殺人事件もあるのに、こっちもしんどいねん!」
突き飛ばされるように、胸倉から手が離れる。その手がジャンパーのポケットを漁ると、机に叩きつけられた。
「資料は渡したる。後はお前が勝手にやれ。そんで満足やろ」
蕗二の肩に肩をわざとぶつけながら、鳥頭は部屋を出て行った。
紫煙の香りが薄くなった部屋、机にはUSB端末がひとつ転がっていた。
鳥頭の言いたい事は分かっている。分かっているからこそ、やり場のない怒りが全身を焼き尽くすように駆けずり回っていることに耐え切れず、机に拳を振り下ろす。机の上げた大きな軋み声が不快だった。




