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ルナティック・ブレイン 【-特殊殺人対策捜査班-】  作者: 橋依 直宏
Consider 4  憫笑するブラインドフラワー
36/99

File:10 終われない





 二日後。7月2日水曜日、PM18:05。


 軽く二回、扉を叩《たた》いた。堅《かた》く高い音が響く。

 中から男の声で返事があった。扉を横へ滑らせると、真っ白な部屋が現れる。

 消毒液のにおいと、テレビの音。部屋の片隅《かたすみ》に置かれた白いベッドの三分の一が起き上がっている。

 そこに背を預けた青年が、こちらを見て驚きの表情を浮かべていた。


「なんだ、意外と元気そうだな」


 ドアを閉める音に、青年・杜山《もりやま》は慌てて姿勢を正そうと、腕を動かす。が、腹に力が入ったのか、呻《うめ》き声を上げ顔を顰《しか》めた。


「あーあ、無理すんな。くつろげよ、お前は怪我人だろ」

「そんな、たいした怪我じゃないんですよ。刺さった場所がよかったらしくって、上手く行けば10日くらいで退院できるそうなんですけど、やっぱ腹に力は入ると、まだやばいですね」


 杜山《もりやま》は青い入院着の上から、腹を擦《さす》る。


「それはそうと三輪さん、この事件の担当なんですか?」

「担当といえば担当だが、やることが違うし、これは完全個人的なやつだ。見舞いもあるぞ、ほら」


 片手にぶら下げていたものを杜山《もりやま》の足元、可動式のベッドテーブルの上に置いた。杜山は蕗二の顔と置かれた物体を交互に見る。


「え、でかっ、なんですかこれ」

「なにって、一斗缶《いっとかん》せんべいだよ。日持ちするから安心しろ。あー、量あるから湿気《しっけ》防止に、なんかジッパー付いたビニールに小分けして、乾燥剤入れとくといいぞ」


 物珍しいのか、缶をしばらく見つめると、何か堪えきれなくなったのか杜山は突然、声をあげて笑った。


「はははは! 刑事さん、庶民的過ぎッ、イタタタ……」


 杜山は汗を噴き出すと、腹を押さえて前かがみになってしまう。


「お前、笑いすぎだろ。傷開くぞ」

「じゃあ笑かさないでくださいよ」

「いや、どこにも笑う要素ねぇだろ」


 不服と眉を寄せ、溜息をつく。

 壁際に置いてあった丸イスを引き寄せ腰を下ろすと、杜山が顔を引き締めた。


「ニュース、見ました。犯人捕まえたんですね」

「ああ、捕まったな」

「逮捕したの、三輪さんですよね」

「まさか」

「じゃあ、その顔の傷は?」

「転んだんだよ、あんまり見るな」


 顔どころか全身打ち身と擦り傷だらけだが、言う必要はないだろう。蕗二は瘡蓋《かさぶた》のできている手を隠すように、ズボンのポケットに手を入れる。

 この事件は『犯罪防止策』の一つとして、模倣犯《もほうはん》防止に情報を伏せていることがある。


 まずは、犯人の動機。

 公《おおやけ》には、ストーカーのエスカレートした結果の犯行としているが、真実は全く違う。

 殺人主犯の芥子菜《からしな》ハルトは、人を殺したくて仕方がなかった。その欲を満たす為に、代理殺人サイトの運営までしていたこと。芥子菜から芋《いも》づる式に逮捕した、多摩《たま》豊《ゆたか》は、被害者や野村をストーカーし、犯行時運転していた協力者だ。

 協力理由は、これまたふざけた理由で、人が殺されるのを目の前で見たかったらしい。そして、全ての犯行の依頼者、篝火歩葉《かがりびあゆは》は殺してでも片思いの女性たちを手に入れたかった。


 三人の感情は、自分には全く理解できない。だが、あの三人の利害は一致《いっち》してしまった。

 繋がってしまった動機はぐるぐると、まるで坂を転がるボールのように加速していった。

 もしも逮捕できなければ、その行き着く先は一体どこだったのだろうか。


 それからもう一つ、捜査についてだ。

 あの時、追跡でぶつけた覆面パトカーは案の定廃車(おしゃか)になった。足が痺《しび》れるとか耳にタコができるとか、そんなレベルを通り越して菊田さんから長々(ながなが)と説教を食らった。もちろんたっぷり二倍の始末書も書かされた。


 だが、それだけだった。


 刑事を含め警察官である以上、何かやらかした場合は自宅謹慎《じたくきんしん》やら減棒《げんぼう》やら、最悪部署を異動させられるなど、何かペナルティがある。

 だが、そんな話がひとつも出てこないのだ。さらに、犯人を追ってまだ日も沈まぬ街を爆走し、車を衝突させ、道路上で体当たりをかまし取り押さえるという、馬鹿みたいにド派手な捜査は隠し通せるものではない。野次馬のかっこうの餌になる。それに発達した情報社会である以上、どう足掻《あが》いても情報が広がってしまう。

 なのに、静かなのだ。

 ニュースやSNSを調べても、騒ぎ立てる者が見当たらない。

 一体どこで何が起こっているのか、まったく分からないが、大規模な情報操作が行われているとしか考えられない。そして恐らく、柳本警視長が裏で手を引いている。まだまだ【特殊殺人対策捜査班(俺たち)】を利用するつもりのようだ。

 そう思うと気持ちが悪い。

 思考の海に沈んでいた蕗二の耳が、杜山《もりやま》の声を拾う。それに意識を引き戻された。


「あ、悪い。聞こえなかった」

「野村を、見てませんか?」


 蕗二は目を見張り、首を横に振った。


「いや……来てないのか?」

「いえ、来てくれてたようなんですけど、まだ会えてなくて」


 杜山が視線を向けた先には、蕗二の膝ほどの小さな冷蔵庫があった。

 その上に置かれた花瓶に様々(さまざま)な花が生《い》けられている。そしてその陰《かげ》に隠れるように、手のひらに収まる小さなかごが置いてあった。そこに飾られているのは、花の開いた小さなチューリップのような黄色と白と紫のシンプルな花。

 杜山はそれを、暖かく優しい眼差しで見つめていた。その顔を見ながら、蕗二は強く拳を握る。


「なあ、杜山《もりやま》」


 杜山が花から、蕗二へと視線を移した。

 そして息を詰まらせる。

 蕗二は世辞《せじ》でも目つきが良いとは言えない。普通に眼があっただけでも怖がられる。が、眉間に深い皺を寄せ、睨《にら》みつけられれば殺意を向けられているようにも感じる。今にも喉元を食いちぎられそうだ。


「何で庇《かば》った」


 蕗二が目を細めると、さらに杜山は顔を強張《こわば》らせた。


「お前が身を挺《てい》してまで、野村を庇《かば》う理由は、何だ」

「り、理由って、意味わかんないですよ。だって、目の前で人が襲われて、助けないわけには行かないでしょ」

「いろいろ引っかかるんだよ。調べさせてもらったが、お前の出身は野村と同じ千葉だ。なのに、そろいもそろってこんなに離れた大学に通って、さらにバイト先一緒? ふざけるな。付き合ってもいない他人が、偶然同じ場所なんてあり得ない。お前、六年前の野村の事件、全部知ってたんだろ。だから、野村の面倒見てんのか?」

「違います!」


 即座《そくざ》に蕗二の声は遮《さえ》られた。絶叫のような、狭《せま》い病室には大きすぎる杜山の声が響く。

 だが、自身の腹の傷にも響き、堪《たま》らず腹を抱えて蹲《うずくま》った杜山の背を見つめる。

 反響していた声が完全に止《や》んだ頃、杜山が唸《うな》るような声を出す。


「いえ、三輪さんの言うとおりです。最初はそうだった、気がします。あの事件が起こってから近所中、いろんな噂が飛んでました。それが、野村が≪ブルーマーク≫になった途端、ぴったり止まったんです。

 それから何が起こったと思いますか?

 野村は、元々悪い奴だったみたいに、まるで世界から今までの野村を切り取って、全部なかったかのようになった。しかも野村まで、噂どおりの別人になって、なんか、それがすげぇ嫌で、今までの野村はなんだったんだって……

 めちゃくちゃ悔しかったんです。悔しくて悔しくて、絶対オレだけは、態度《たいど》変えてやるもんかって、思ったんです。野村が進む方向と同じになりたくないって、みんな言うから、だからオレはあえて選んだんです」


 杜山の顔が上がる。強い怒りの表情だった。

 だが、蕗二と睨《にら》み合う眼の奥から、怒りを書き換えるように、悲しみの表情が滲《にじ》み出した。それを隠すように顔が伏《ふ》せられる。


「あの時庇(かば)ったのは、これ以上、野村を傷つけられたくなかったからです。野村はいっぱい傷ついて、いっぱい失った。だから、これ以上何も失って欲しくなかった。野村が生きてくれればそれでいいって。

 でもあの時、気を失う前に、ほんのちょっとだけ野村の声が聞こえたんです。

 震えた声で『なんであんたも』って。

 その時は、意味わかんなかったんですけど、今思えば、目の前でストーカー野郎の死ぬ姿、見せつけられたあいつの気持ち、全然分かってなくて、結局オレも、野村の気持ちを無視してたのかなって……やっぱ、今まで全部、要《い》らないお節介だったのかなって……」


 自嘲気味《じちょうぎみ》に笑う杜山を追い詰めるように、蕗二は攻撃的な視線を緩《ゆる》めなかった。


「ああ、お節介だったろうな。野村にとっちゃあ、トラウマをほじられた訳だ。それに、お前は死んでたかもしれない。今回はたまたま助かった。

 けど、わずかに場所がずれてたら、犯人が何度もお前を刺したら、車でお前たちをまとめて轢《ひ》き殺したら。……まず命はなかった。命捨てて、救える命なんて限られてる。もし英雄を気取りたいなら、救助ボランティアでもやってろ」


 蕗二の鋭い言葉に、杜山の入院着を握り締める手が震え、白んでいた。

 蕗二は俯《うつむ》いた後頭部を穴が開くほど見つめ、ゆっくりと瞼《まぶた》を下ろした。真っ暗な視界の中、静かに息を吐き出す。体から力を抜き、寄せすぎて痛む眉間を広げる。ゆっくりと拍動《はくどう》する心臓の音に耳を傾けながら、瞼《まぶた》を押し上げる。

 白いシーツが眩《まぶ》しい。その光を噛み締めるように瞬《まばた》いて、静かに言葉を紡《つむ》ぐ。


「……でも、誰よりも良い奴だ」


 命を張ったのは、褒《ほ》められる行為とは言えない。

 だが、杜山が今まで野村にしてきた行動は、野村を心の奥底に光をもたらした。


 人は流される。大勢の意見に同調して、多いほうを正義とする。多い意見は、正しい意見として刷り込まれ、自分の考えだと錯覚し、そして事実は簡単にすり替わる。

 だが、杜山は違った。

 流されない。噂に、空気に、曖昧《あいまい》な言葉に惑わされず、自分の意思で、全てを判断する。

 初対面の俺にだってそうだった。刑事の肩書きを脇に置いて、俺自身を見ようとした。

 こいつならきっと、何にも囚《とら》われず、『野村紅葉』と言う人間を見てくれるはずだ。

 だから、大丈夫。


「お前だけが野村を救った。お前だけが見捨てなかった。自信を持て。あいつには、お前のお節介が必要だ」


 蕗二の言葉に、はっと息を呑《の》んだ。

 跳ね上がるように顔を上げた杜山は、信じられないと蕗二を見つめる。だが、蕗二の強い視線に、嘘ではないと確信させられる。蕗二の言葉はゆっくりと、杜山の心に沁《し》みて、表情を崩させた。赤く染まる目の縁一杯に涙を溜め、瞬きよりも早く溢《あふ》れさせた。

 あとは壊れた蛇口《じゃぐち》のように幾筋《いくすじ》もの道を作って流れ続ける。歯を食いしばり、肩を震わせ、時折大きく鼻を啜《すす》る。


「オレ、野村を救えますか?」


 震える声に、蕗二は肩を強めに叩き、しかと頷いて見せた。


「ああ。お前ならできるよ」


 杜山は涙と鼻水とでぐしゃぐしゃの顔で、誇《ほこ》らしげに笑っていた。






 蕗二が廊下に出ると、壁にもたれかかっている人影に目が留《と》まった。


「三輪っち、来るんだったら言ってよね」


 野村が上目遣《うわめづか》いに睨《にら》んでくる。

 蕗二は思わず後頭部を掻《か》いた。


「あー、悪かった。俺はてっきりお前がいると思ってきたから」


 そこではたと気がつく。


「あれ、お前いつからここに」

「三輪っち」


 野村が体ごとこちらを向いた。

 瞬間、手を痺《しび》れるほど締めつけられた。反射的に手を引くよりも、痛みに声を上げる間も早く、野村が大きな声をあげた。


「あーむりむりむりむり! 素手は無理、難易度高すぎうえええ吐きそうううう!」


 髪を振り乱し、壁に手を張り付けぜーぜーと息を荒げている様子は、大げさすぎるほどのリアクションだ。が、背中の波打ち方から本気で吐き気を堪えているとわかった。蕗二は自分の手を見つめる。

 わずかに残る痛みと指の赤み、一瞬だけ感じた体温。


「野村、お前」

「わたし!」


 勢いよく顔を上げた野村は、涙目ながら挑《いど》むような強い視線でこちらを見る。


「逃げるの、やめるから」


 そう言うと、杜山の病室へと駆《か》け込んでいった。

 病室から騒《さわ》ぐ声がする。野村が杜山の傷を突《つつ》いたのかもしれない。

 蕗二は笑いを堪え、そっと踵を返して白い廊下を歩き出す。


 人を救う。人を殺す。


 どちらも口にするのは簡単で、実際はどちらも躊躇《ためら》ってしまう。

 だが、ある一線を越えた時に、躊躇《ためら》いは嘘のようになくなる。

 その結果が人を救うのか、害《がい》するのかの違いで……

 そして父は、その一線を越えた。

 犯人を捕まえる為に、これ以上犠牲が出ないように、そして俺を守る為に、命を投げ出してしまった。

 新聞、テレビ、父の仲間や、あらゆる人から、勇敢《ゆうかん》と称《たた》えられた父。

 だが俺はあの時、あまり嬉しいとは思えなかった。

 なぜ庇ったのだと、白い花に埋もれ眠る父に掴《つか》みかかって、問い詰めたいと思ったほどだ。

 死んでしまうくらいなら、どんなに無様でも、生きていて欲しかった。

 父への、自分への怒りと悲しみは、誰にもひとつ吐き出せず、ブルーマークへの憎しみへと変わった。

 全てあいつがいなければ、父が死ぬことはなかったのだと。


 だが杜山の言葉に、そうかと納得できた部分もある。

 父は、俺に生きて欲しかった。

 己を犠牲にしても、守りたかったのだ。

 だから、死ぬかもしれないとわかってても、俺の目の前、犯人に立ち向かったのだ。たとえ、何度同じことが起ころうとも、父は俺を庇《かば》うのだろう。


 子供のはしゃぐ声がした。

 いつの間にか病院を抜け、病院の隣にある大きな公園へと来ていた。

 広い芝生《しば》と青々とした木々の中をただ黙々と進むと、大きな噴水が見えてくる。

 その縁《ふち》に腰掛けた少年が見える。

 陽はまだ高い。少年の白いシャツが、薄っすらと汗で湿気て、背に張り付いている。


「暑いだろ、一緒に来ればよかったのに」

「ぼく病院嫌いなんです」


 芳乃《ほうの》は気だるげに、中身が半分になったペットボトルを片手に呟《つぶや》いた。

 その隣に腰掛ける。スーツの背に水の冷気があたり、日差しの暑さを和《やわ》らげてくれた。


「芳乃」

「恨むな、なんて言いません」


 蕗二の言葉を遮《さえぎ》った芳乃は、ただ真っ直ぐ前を向いている。


「ぼくは、あなたの過去を知りません。ですが、人それぞれ、引き摺《ず》っている過去があります。

 そして、それは簡単に引き剥がせるものじゃありません。あなたがぼくら≪ブルーマーク≫を嫌うのは、その過去があったから持った感情です。とても自然な事なんです。だからもし、その感情を捨ててまで、『答え』を出すのなら、ぼくはこの先も、あなたを信頼しません」


 淡々と、紡《つむ》がれる言葉に氷の冷たさはない。

 そしてどこか、そっと胸を撫で下ろす自分がいた。


 野村のような凄惨《せいさん》な過去を持つ≪ブルーマーク≫がいることは、悲しくも事実だ。

 だが、俺の父親の命を奪ったのもまた≪ブルーマーク≫だ。


 父が俺を庇《かば》い救ってくれたことは、きっと感謝すべきことだ。それは頭でわかっている。でも、≪ブルーマーク≫が、父を殺した事実は消えない。

 許せるわけがない。

 眼の奥に焼きついた光景は、まだ消えない。

 あの瞬間から、青い光を憎んで、恨んで、それだけを糧《かて》にこの十年間生きてきた。この感情は消えないし、捨てられない。捨てる捨てない、許す許さないとか、そんな簡単な話じゃない。もし、この感情をまるまる捨てろと言われれば、俺は何かを見失ってしまう。何かはわからない。でも一度見失えば、もう二度と立てなくなってしまう。

 そんな気がする。

 だから、この先どうすればいいのか、この感情と≪こいつら≫とどう向き合えばいいのか、まだ答えを出せない。

 そんなことまで、この黒い眼は見抜いている。

 まったく、末恐《すえおそ》ろしい奴だ。


「なあ、お前は」

「資料は、まだ全部読んでませんね?」

「え、ああ……野村のとこだけだ」

「まあ、事件の合間でしたし熟読されても困りましたが。脳みそ筋肉のあなたのことです、全員の分を一気に読んだら簡単にキャパ越えるでしょうし」

「それくらいで越えるか、馬鹿にすんな」


 黒い眼がやっとこちらを向いた。

 眠たげに目尻が垂れた、どこにでもいそうな少年。

 しかし、目の奥はずっと深く暗い穴が広がっている。


「ぼくのは、面白くないですよ」

「面白い面白くないって、なんだよ。そんなので判断するもんなのか?」

「面白いほうが興味持てますし? それに」


 小さく、芳乃が何かを呟いた。

 が、突然の子供の声に掻《か》き消された。視線を向けた先で、噴水の周りで水遊びをする子供が噴水に落ちたようだ。助けようかと腰を上げるがそれよりも早く、母親らしき女性が子供を引き上げた。浮き上がらせた腰を置きなおすと、隣で芳乃が立っていた。


「じゃあ、用も済んだので帰ります。お疲れさまでした」


 話は終わったとばかりに向けられる芳乃の背に、蕗二はとっさに声をかける。


「芳乃、今度どっか遊びに行かねぇか? 普通に、仕事なしで」

「お断りします」

「即答かよ」

「じゃあ、全部刑事さんが奢《おご》ってくれるなら考えます」

「じゃあってなんだよ、ほんと生意気な事しか言えねぇな? どうやったらガキらしいことが言えるようになるんだ?」


 頭をなで、黒い髪を掻き乱してやると、鬱陶《うっとう》しいと言わんばかりに手を払い除けられる。


「うるさいですね、暑いんで触らないでくれますか」

「おうおう、じゃあ冷やしてやるよ」


 噴水に手を突っ込み、手首を返して水を跳ね上げる。反応の遅れた芳乃の顔に直撃し、思わずよっしゃあと声をあげた。

 水をかけられ呆然としていた芳乃は、ゆっくりとした動作でシャツの端で顔を拭《ぬぐ》う。

 上げられたその表情は恐ろしく不機嫌だった。

 あっやばいと思った瞬間、すばやく腕全体で体の前を隠すが、それを越えて大量の水が頭から被せられる。ぼたぼたと顔を流れる水が視界を塞《ふさ》いだ。犬のように顔を振り、手で拭い払った。

 取り戻した視界に、芳乃は珍しく口の端を吊り上げて笑っていた。手にはバケツ、後ろで芳乃を見上げる水着の子供が立っている。


「お前卑怯(ひきょう)だな!」

「最初にやったのは刑事さんでしょ」

「なにを! あっくそバケツ! バケツ反則!」

「無駄に体でかいんですから、ハンデですよハンデ、わっ!」

「へへへへ大人舐めんなよ、こちとら技術があんだよ」


 スーツを着たいい大人が、なんてお構《かま》いなしで。

 いつもの平静《へいせい》な表情を年相応に崩して。

 お互いずぶ濡れになるまで、騒いでいた。

 跳ね上げた水が、虹色を含んで輝いていた。










 **憫笑《びんしょう》するブラインドフラワー** 【了】



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