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ルナティック・ブレイン 【-特殊殺人対策捜査班-】  作者: 橋依 直宏
Consider 3  繚乱のガーデンストック
18/97

File:2 オシドリのロマン死




 AM14:58。


 大通りから一歩()れると住宅地が広がりを見せる。普段は比較的閑静(かんせい)な場所だが、今日に限って人が集まっていた。

 6階建てのマンションの前には、警察が立ち入り制限のゲートを張り、鑑識がマンションを出入りする中、玄関の脇、蕗二ふきじ芳乃ほうのは花壇に腰かけ、人が行き来するのを眺めていた。



 男の悲鳴に駆けつけた蕗二と芳乃は、マンションの玄関から小太りの男が一人飛び出してくるのを見た。パニックになっている男を捕まえ、何とかなだめ事情を聞くと、その男は原田と言うマンションの管理人で、住人の男が家賃を滞納たいのうしていたので部屋を訪れたところ、男が死んでいたと早口で説明してくれた。

 蕗二はすぐさま警視庁に連絡し、そして今に至る。



 またパトカーが一台マンションの前に滑り込んできた。少々乱暴に止まった車から、スーツ姿の男が二人飛び出し、こちらに迷わず向かってくる。

 蕗二より年上のようだ。一人は細い男、もう一人は細身の男より小柄のようだが、姿勢が悪いせいかより小さく感じる。蕗二の目の前で立ち止まると、小柄の男がゆるい敬礼けいれいをした。


「お疲れ様です。原宿はらじゅく署のたちで、こっちが部下の椛島かばしま。通報したという、本庁ほんちょうの方か?」

「はい、本庁一課の三輪です」

「本庁……三輪?」


 細身の男・椛島かばしまが目を細め、蕗二の顔を穴が開くほど見つめる。


「あなたの顔、見覚えがあるんですけど……あ、確か5年前、池袋いけぶくろ署にいた三輪蕗二さんですよね。大阪から異動されたんですか?」


 蕗二は目を見開き、たちが眉を寄せた。


「お前さんがいうなら間違いねぇな。で、どうなんだ?」


 この椛島かばしまという男は、全国の警官の名前を網羅もうらしているとでも言うのか。

 いや、それはないだろう。恐らく、かつて蕗二の勤めていた池袋警察署と原宿警察署は近接署同士でもあり、何度か合同捜査もあった。その時、たまたま覚えたに違いない。

 蕗二は動揺を鎮めるように静かに息を吸い、ズボンのポケットから手帳を取り出し、開けてみせる。


「失礼致しました。改めて、本庁一課、【特殊殺人対策捜査班】の三輪です」


 椛島が声を上げて驚き、舘が幽霊を見るように蕗二を見つめる。


「最近、やたら早く犯人ホシを挙げてる、気持ちの悪い部署はお前等だったのか」

「ホントに在ったんだ、うわさだと思ってました」

「上からおおやけにするなと言われてるので」

「じゃあその子供は?」


 舘に隣を指差される。居るのを忘れるほど、隣で静かに座っていた芳乃はちらりと椛島と舘を見て、蕗二と視線を合わせた。


「彼は関係ありません」


 気がつけば言葉を発していた。自分でも少し驚く。

 舘が自分の顎をつまむように撫でる。


「あんた、警部補だろ? 素人を現場に入れるなんざ真似しないはずだ。何か理由があるんじゃないのか?」


 舘の目が鋭い光を含んだ。

 動揺を隠す為に蕗二は飲み込もうとした唾を、無理やり奥歯を噛み締めて止める。

 【特殊殺人対策捜査班】と名乗った以上、捜査員として芳乃を紹介するべきかもしれないが、問題は芳乃が≪ブルーマーク≫と言うことだ。


 ≪ブルーマーク≫は犯罪者予備軍だ。


 捜査に協力させるなんて大問題で、前代未聞ぜんだいみもん。身内だとしても賛成するものは少ないだろう。

 そして、もし外部の人間に【特殊殺人対策捜査班】が漏れてしまえば、バッシングどころで済むはずない。知っている人間は少なければ少ないほど都合がいいのだ。

 だから身内にはすでに、警視長の柳本から圧力がかかっているはずだ。


 だが、この舘という男は質が違う。

 手に入れたいものがあれば、平気でゴミを漁るような執着心を持っている。だからさっき、本能的に嘘をついたのだ。

 誤魔化せ。思考を働かせろ。この男に知られるわけにはいかない。


「彼は、れんといって、俺の親戚です」

「本当にそうか? 坊主」


 舘が間髪入かんぱついれずに芳乃に視線を向ける。背中に嫌な汗がにじむのを蕗二は感じたが、芳乃は黒い眼で蕗二を見つめると、つっと視線をそらし清々(すがすが)しく答える。


「はい、ぼくの母の方の親戚なんです」

「へぇ、家は? 東京か?」

「違います。埼玉からです」

「埼玉か、でもなんでこの人と居るんだ?」

「観光です。東京にずっと行きたいと思ってましたが、ぼくあんまり友達居なくて。でも、独りで行くのはちょっと怖くて……それで丁度、蕗二さんが東京にいるって母から聞いたんで、お願いして付き合ってもらっていました。ね?」


 芳乃が首を傾げて蕗二を見上げる。蕗二は反射だけで頷いた。


「そうなんですよ。なのにこんなことになって、参りましたよははは」


 大げさに笑うと、舘は気に食わないとばかりに眉間を寄せた。蕗二はこめかみに青筋あおすじが立ちそうになる。

 なんだかこの男とは、気が合わない。恐らく舘もそうなのだろう。

 蕗二は立ち上がり、背筋を伸ばしてみせる。椛島は蕗二の背の高さに後退あとずさったが、舘はさらに間合いを詰め睨みつけてくる。

 一気に張り詰めた空気を突如(さえぎ)るように、明るい声がかかった。


「どうもー、株式会社サニースマイルでーす」


 湧いて出たようにすぐかたわらに青い作業服の男が立っていた。開いているか分からないほど細い目が弧を描き愛想の良い狐のようにも見える。

 芳乃と蕗二と舘と椛島を順番に眺めると、もう一度蕗二に向き直り、笑みを深めた。怪訝けげんな顔をする蕗二を尻目に、片手にぶら下げていた掃除機を足元に下し、帽子を取る。


「私、特殊清掃員の竜胆りんどうと申します。早速ですが、お電話いただきましたお見積もりの件に付きまして……」


 まったく状況が飲み込めないまま、帽子を被り直した竜胆りんどうが背負っていたバックから液晶パンフレットを取り出したので蕗二は慌てて手を振った。


「待て待て待てちょっと待て! 見積もりなんか頼んでないし、電話もしてない!」


 竜胆りんどうはテレビを一時停止したように固まる。

 考えこむようにうなり、眉尻を下げた。


「確かに電話(もら)ったんですけど……ん、あれ、もしかして、あなたは原田様ではなく……?」


 蕗二はふと思い出す。管理人の原田は、蕗二が粗方あらかた事情を聞いた後、どこかに懸命に電話していた。


「原田って人は、ここの管理人だ。俺と、この二人は警察で、そのチビは……俺の親戚」

「あ……はははは! ご依頼人から早急に片付けてくれ、とのことだったので、もう警察の現場整理終わってると思ってました。いやぁまさか最中だなんて、僕の早とちりで申し訳ないです」


 照れるように頭を掻く竜胆を、舘は不審げに観察する。


「あんた、清掃員ってことは掃除屋なんだろ? 掃除屋が事件現場こんなところ来たって仕方ないだろ」


 舘の言葉に竜胆は口角を上げる。


「いえ、だからこそですよ。僕はいわば、“死体専門”の掃除屋ですので」


 蕗二は感嘆の声を上げ、竜胆の全身に視線を向けた。

 刑事である以上、血の海だとか内臓がはみ出しているだとか、スプラッターな現場に直面することはよくある。

 だが、それ以上に凄惨せいさんなのが、死後数週間が経過し、遺体からうじはえが湧く異臭漂う現場だ。

 だが基本、警察は遺体のみ回収し、現場検証後は葬儀会社に丸投げするため、現場を清掃する業者があることは知っていたが、実際お目にかかることはない。

 まじまじと見つめる蕗二は、はっと息を呑んだ。


「すいません、つい……」

「いえ、構いません。僕らみたいなのは珍しいので」


 にこやかに笑う竜胆りんどうは、蕗二とそう歳も変わらないように見えるが、相当凄惨(せいさん)な現場を目の当たりにしているのだろう、きもわり方が違うようだ。

 ふと、思い出したかのように竜胆は腕時計を見ると、雲でも眺めるような気軽さで現場を見上げた。


「ところで、後どれくらいかかりそうですか?」

「わからないな。でも身元は割れてるし、管理人の原田も事情聴取が終わり次第……」

「あ、終わったみたいですよ」


 椛島かばしまの声に視線をマンションの玄関に向けると、若い鑑識が駆けてきた。見覚えのある青年に、蕗二は軽く手を上げる。


「どうも桑原くわはらさん。この前は世話かけたな」

「お久しぶりですッ、三輪警部補ッ!」


 機敏すぎる動きの敬礼と一際大きな声にたち椛島かばしまが耳を押さえた。


「再会の挨拶は後にしろよ、それより現場はどうなんだ」

「はいッ! お待たせしましたッ。現場保存完了でありますので、どうぞ中に入ってくださいッ!」


 来た時と同じくらい慌しく引っ込んでいった桑原に、「慌しい奴」「変わりませんねぇ」と舘と椛島が呟くと、後を追ってマンションに入っていく。

 その後ろ姿を見送り、蕗二は息をついた。


「じゃあ、後は任せて帰りましょう」


 これさいわいと立ち上がった芳乃の腕をつかみ止める。


「待てよ、ちょっと気になることがある」


 刑事の端くれとして、事件を放っておけない。

 それに遺体を確認したが、正直事件にも見える。所轄しょかつの人間と喧嘩する気はないが、舘たちに持っていかれるのはしゃくだ。


「刑事さん休みなのに、事件見る必要ありますか?」

「必要はねぇけど、見るだけならタダだ」

「ぼくは死体なんて見たくありません、断固お断りです」


 顔を引きつらせ、掴まれたままの腕を引き抜こうと抵抗する。

 そういえば、芳乃は最初の現場で真っ青になっていた。一般人が死体を見たらあんな反応をしても当然だが、芳乃は特に苦手らしい。

 すねを蹴られそうになり、思わずその足を掴む。


「ちょ、転ぶからやめてください」

「わかったわかった、落ち着けって。ホトケは見なくてもいい。代わりにこれ持ってろ」


手を離し、持っていたコンビニの袋を突き出すと、芳乃は露骨に顔をしかめた。


「嫌ですよ」

「いいだろこれくらい。飯に『臭い』が移ったら食えないだろ」

「ぼーとして食べるの遅いからでしょ。自業自得じゃないですか」

「お前にだけは言われたくねぇよ!」

「ずいぶん仲がいいですねぇ。親子みたいですよ」


 楽しそうに笑う竜胆を二人して睨みつける。


「この人がお父さんだったら、ぼくは即行そっこう家を出ます」

「こんな生意気な子供いてたまるか」

「冗談ですよじょーだん」


 竜胆りんどうは蕗二が座っていた花壇の縁に座ると、芳乃を手招いた。


れんくん、だっけ? その親戚のお兄さん、帰ってくるまで一緒に待たない? 僕もご依頼人と遺品についてのお話をしないといけないし、一人待つのも寂しいし」


 満面の笑みを浮かべたまま、竜胆は催促さいそくするように隣を叩いてみせる。芳乃は不服な顔で蕗二を睨むと、しぶしぶビニール袋を受け取った。


「10分したら帰りますから」

「ああ、大人しく待ってろよ。終わったらスカイツリーでも見に行こうぜ?」


 頭をなでようとしたが「やめてください」と手荒く払い除けられた。






 マンションに踏み入れると、意外なことに二人はエレベーターの所で蕗二を待っていた。


「先に行かれたと思ってました」

「発見直後、お前さんが現場を見て、事情も聴いたんだろ? 詳しく話してくれるか?」


 電子音が鳴り、ドアが開く。蕗二が4階のボタンを押すと、エレベーターは三人を上へと運ぶ。


被害者マルガイは林卓真という男で、発見者は管理人の原田です。家賃滞納やちんたいのうの催促で部屋に行った時、電気がついてたそうです。チャイムを鳴らしても出ないから、マスターキーで部屋に入ったところ、男が死んでいた」

「事件か?」

「正直どっちにも取れます」


 電子音と共にドアが開いた。蕗二を先頭に青いシートが張られている一角へ向かう。門番のように立つ青い制服の警官と挨拶を交わし、シートの分け目をかき分けると、そこに桑原が待っていた。ビニールを手渡され、足と手につける。


「あまり臭いませんね」


 椛島の視線の先には開け放たれた玄関の奥、リビングに繋がっているのだろう一枚のドアが見えた。

 すりガラスがめこまれている為、鑑識らしい影がちらつくのは見えるが、部屋の様子は分からない。


「おい警部補さんよ、ホトケさんは真新しいのか?」


 蕗二は舌打ちが出そうになるのを堪え、冷静をよそおうが出た声は不機嫌だった。


「いえ、三日は経ってるはずですが、……どうですか桑原さん」

「はいッ! 現場は冷房が入っていた為、死体の腐乱状態は遅延ちえんしていましたッ。が、直腸温から確認したところ、死後五日は経過したと思われますッ」

「五日か。良い感じに熟成が始まってそうだな」


 たちが笑いながら玄関を通り過ぎリビングへと通じるドアを開ける。続いて部屋に足を踏み入れると、空気が変わった。冷房がまだいているせいで薄ら寒い。

 だが、それより肉を腐らせた酸っぱい異臭が漂っていて不快感が高まる。

 浅く呼吸をしながら部屋の奥へ進むと、臭いの元が目に入った。

 1LKの部屋、リビング兼寝室の一角に置かれたベッド。

 その上に、頭と片腕をベッドの淵から垂らし、白く濁った瞳を隠すように瞼を下ろした土色の男が横たわっている。

 その男を見て、椛島が声を上げる。


「うあ、びっくりした。なんで裸なんですか」


 それは俺も聞きたいと、蕗二は首をひねるので精一杯だった。

 被害者の林は蕗二が発見した時から丸裸だった。

 下着すら身に着けていない。風呂上りだとしても、下着すら身に着けていないのは妙だ。

 蕗二の隣、隅々(すみずみ)まで林を見る椛島と対照的に、舘は林には目もくれず部屋を物色し始める。


「ホトケはいくつだ?」

「二十八ですッ! 職業はフリーターですッ」

「ただの無職だろ、カタカナにすりゃあいいってもんじゃないぞ。あと、全裸なのは風呂上りだからか?」

「いえッ! 入浴の形跡がありませんでしたッ」

「裸族か。家族はいないっぽいし、ずいぶん開放的だな」


 鼻で笑う舘に、蕗二は文句を言おうと口を開いたが、ふと目の端に違和感を覚えた。

 林のすぐ脇に屈み、顔を近づけると、死臭が目にみる。

 一旦顔を離し、強く瞬いてもう一度顔を近づける。青白い頬を手袋で覆った指先で撫で上げ髪を持ち上げる。露になった男の耳元を見た瞬間、息が詰まった。


「≪ブルーマーク≫ですか」


 蕗二の後ろから椛島が覗き込む。それに舘が反応した。


「へぇ、恨まれててもおかしくないな。でも刺されてもないだろ、死因は何だ?」

「はいッ! 突然死が疑われますッ!……が、その……」


 桑原が急に声の音量を落とした。蕗二は思わず片眉を上げる。


「どうした、はっきり言えよ」


 舘に尻を叩かれ、桑原がたたらを踏む。気まずそうに蕗二と舘を交互に見ると、急に背筋を伸ばし機敏な動きで敬礼した。


「ひッ、被害者はッ、腹上死の可能性がありますッ!」


 瞬間、現場が一瞬で静まり返る。その場に残っていた鑑識が目をらす中、三人は同時に声を上げた。


「えっ、腹上死って、あの!?」

「そりゃ都市伝説だろ!」

「からかってるんですか!?」

「マジでありますッ!」


 再び部屋が静寂に包まれた。


「ロマンだ……」

「ああ、ロマンだ……」


 舘と椛島の呟きを大げさすぎる咳払いで遮り、蕗二は立ち上がる。


「桑原さん、一応検死はするんだよな?」

「はいッ! 事件性の可能性を考慮こうりょして、一度検死いたしますッ!」

「そうか。じゃあ、安心だな」


 部屋の中で、死体回収袋を持ち今か今かと待っていた鑑識に頭を下げ手でうながす。それと同時に蕗二は部屋を出る。ビニールをはずし、青いシートの外で息を深く吸う。蕗二の後ろをついてきていた椛島が、同じく息をつくと肩をすくめた。


「事故のようですね。彼女が居たかどうかわかりませんけど、探しますか?」

「探しますか? じゃねーよ」


 荒々しくシートを掻き分けた舘が、椛島の肩を強く小突こづいた。


「マス掻いて死んだか、彼女とやって死んだかで処理が変わるだろ。場合によっちゃあ、死体遺棄でしょっ引ける。ほらとっとと行くぞ」


 歩き出した舘の背を睨みつける蕗二に、椛島は頭を下げながら後を追いかけていった。

 二人の後ろ姿が角に消えたところで、盛大に溜息をつく。

 被害者の姿のせいで事件と疑った。

 が実際、ただの杞憂きゆうだった上、しかも、≪ブルーマーク≫と来た。

 つまらない見栄を張った自分に嫌気が差し、思わず手摺てすりに背を預けると、今しがた出てきた部屋に向き合った。丁度、鑑識二人が死体袋を持って出て来た為、手を合わせ見送る。


 ふと、蕗二はもし自分が林と同じ死に方をしたらと考える。

 惨めなんだろうか。いや、まず居た堪れない。そして何より部屋の惨状さんじょうを身内に見られたくない。あーそうだ、部屋の片付け終わってないんだった。

 忘れていたはずの疲れが、倍になって戻ってきた気がする。

 蕗二は重くなった身体を引きずるように、片付けが始まった現場に背を向けた。




 マンションの玄関から出ると、芳乃ほうの竜胆りんどうはまだ同じ場所に座っていた。

 竜胆の足元で自動掃除機がぐるぐると回っているのを、芳乃は珍しい動物を見るように興味深げに見つめている。暇つぶし相手には十分だったらしい。


「待たせたな」

「意外と早かったですね。追い出されましたか?」

「お前の口はいたわいも知らねぇみたいだな」


 口をつんでやろうとしたが、先ほどよりも素早い動きで手を叩き落とされる。それを微笑ましいとばかりに眺める竜胆が、天気を尋ねるように口を開いた。


「現場酷そうですか?」

「ああ、いや。ベッドくらいだ」

「じゃあ脱臭と家具撤去くらいですかね」


 竜胆は液晶タブレットの画面を指先でなぞる。見積もりを作っているらしい。


「いいのかよ、先に進めて」

「はい。先ほど、入れ替わりで依頼主の原田様とお話したので」


 と、突然どこからか鳴り始めた低いバイブの音に竜胆は素早く反応し、ズボンのポケットから古めかしい二つ折りの携帯電話を取り出す。電話の主を確認し、肩と耳の間に携帯電話を挟んだ。


「はい竜胆です。ああ先輩、お疲れ様です。作業? まだです。違いますよ! 警察待ってるんです。見積もりはもうできるんで、すぐ送りますね」


 会話を続けたまま、タブレット画面の上を指が滑り続ける。


「今送りました。あ、あと白木しらき星尾ほしお、こっちに来るよう伝えてください。え? いや先輩が出動するほどじゃないですよ。てか来たら倍以上時間かか……冗談ですよじょーだん、はははは! では、作業にかかりますね、はいはーい」


 電話を切り、自動掃除機とタブレットと一緒に携帯電話を手早くバッグにしまうと、不意に蕗二と芳乃に向き直った。


「では、刑事さんお疲れ様です。仕事柄、またお会いするかもしれませんけど、その時はよろしくお願いします」


 さわやかな笑みで名刺を差し出され、蕗二は思わず受け取ってしまう。


「じゃあね蓮くん、パックン見に事務所来てもいいからね」


 掃除機を片手にマンションへと駆け出した。が、マンションに入る直前、振り返ると大きく手を振った。

 芳乃が小さく手を振ると、やはりさわやかな笑みを浮かべマンションの中へと姿を消した。

 竜胆の背を見送った芳乃に、蕗二は我慢できなくなって呟いた。


「芳乃。パックンってなんだ」

「あの自動掃除機の名前だそうです」

「へえ……」


 返されたビニール袋から、水滴さえついていないお茶を取り出し口に含むと、予想通り生温くなっていて溜息が出た。

 肩を落とし、見上げた空に白くかすむ、丸い月が見えた。







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