File:1 グランピーピジョン
蕗二の声に、驚いた猫のような反応でこちらを見る少年は、間違いなく芳乃蓮だった。
いつも、と言っても二回ほどしか顔を合わせていないが、学ラン姿と落ち着き払った顔を見慣れているため、私服姿に垂れ目を限界まで見開いた顔は、彼の大人になりきっていない少年らしさを際立たせた。
しかし、それは蕗二を認識した途端、見慣れた不機嫌な顔に戻った。
「うわ、刑事さんって知らなかったら、即通報したくなりそうな人相の悪さですね」
「うるせぇな、面は生まれつきだ」
「それと、その格好ダサいですよ」
改めて自分を見下ろす。上下ともスポーツジャージに、使い古したバットケースを背負っている。
この格好では刑事と言っても、マトモに取り合ってもらえないだろう。
「彼女に会うわけでもなんでもねぇんだ、休みの日なんてこんなもんだろ」
蕗二の台詞に、芳乃が瞬いた。
「……休み、ですか? 刑事って休みあるんですね」
「公務員は土日祝休みって、全国統一されてんだよ。あっ、所轄は違うけど」
律儀に答える蕗二だったが、芳乃はすでに興味をなくしているようで、ふーんだかへーだか気のない返事をし、目の前のボックスに視線を戻している。
蕗二は頭を掻き毟り、何か文句を言ってやろうかと口を開きかけたが、それよりも先に芳乃が声を上げた。
「あの、鬱陶しいので、どっか行ってくれませんか?」
芳乃の視線は、ボックスの中に向けられたままだ。
その視線を追うと、透明なガラスの向こうには、枕ほどの大きさのカラフルな動物のぬいぐるみが、乱雑に並んでいた。
いつの間にか取り出した小銭を、芳乃は躊躇うことなくボタン横の穴に落とし、ほぼ同時に光った半球のボタンを指で押した。隅で沈黙していたアームがぎこちなく横に動き出す。
芳乃が光るボタンから指を離すとアームが止まり、不安定に揺れた。
先ほどまで光っていたボタンの隣、違うボタンが光る。芳乃はそれを押すとアームが奥へと下がっていく。
と、芳乃の指がボタンから離れた。
アームが止まると同時に、転がるぬいぐるみの中、一番地味な白黒ぶち柄の犬めがけ降りると、頭を掴み上げた。
細いアームからぬいぐるみは落ちる気配はない。
蕗二は感嘆の声を上げる。
「上手いな。けっこうやりこんでるだろ」
「悪いですか?」
「……なんでそんな可愛くねぇんだ?」
「逆に聞きますけど、なんで刑事さんに愛想振りまかないといけないんですか?」
「お前、友達いねぇだろ?」
「いますよ、それくらい」
鈍い音を立ててぬいぐるみが穴に落ちた。
芳乃は腰を折り、ぬいぐるみを取り出し口から拾い上げると、蕗二の脇を通り過ぎ、壁にかかっていたビニール袋を取って押しこんだ。そのまま蕗二に背を向け、ゲームセンターを出て行く。
蕗二はその後ろを、何食わぬ顔でついて行く。
黒い後頭部を視界に納めたまま、辺りを見回す。
ビルの壁が疎らに変わり始め、人の賑わいも出てきた。見たことのある居酒屋チェーン店が目につき始める。
蕗二が向かう予定だった駅の方角だ。横断歩道で立ち止まった芳乃が、肩越しに蕗二を睨みつける。
「いつまで付いてくるんですか」
「さあ」
「にわとりの刷り込みじゃあるまいし」
「誰がニワトリだ!」
「だったら付いてこないでください」
信号が青に変わり、芳乃は歩き出した。
蕗二は一瞬引き返そうか悩んだが、少し距離をとって後をつける。
相手に存在がばれている以上、尾行とは言わないが構わない。なにより芳乃の行動に興味があった。
冷たい目で鋭く犯人を追い詰めるこの小さな少年は、どこか得体が知れず、人物像すら掴めない。
その正体を暴きたいと、好奇心が駆り立てる。
いつの間にか青い光への怒りも落ち着き、蕗二の長い足が軽やかに進む。
人波にのまれては浮かぶ芳乃の黒い後頭部が、代々木駅と書かれた建物を通り過ぎた。
蕗二は拍子抜ける。てっきり電車に乗ると思っていたが違うらしい。
資料で確認していた芳乃の住所を思い出す。記憶が間違っていなければ芳乃の向かう先は自宅だ。
ちらりと振り返った芳乃は、蕗二を見て不快そうに眉を寄せた。歩く速度が速まる。
だが、蕗二を引き剥がすまでには至らない。
芳乃は不意に立ち止まると、蕗二に向き直った。
「なんなんですか! 言いたいことがあるならはっきり言ってくれませんか!?」
珍しく声を荒げる芳乃に、蕗二は目を瞬いた。
撫でていた猫に突然威嚇されたような気分だ。
「……何でそんな機嫌悪いんだ?」
「疲れてるんです、わかりませんか?」
「なんだよ、学生が疲れることあんのか?」
「刑事さんみたいな、体力だけがとりえの脳みそ筋肉の人に言っても分からないでしょうね。すいません」
「んだとクソガキ」
「違うんですか?」
「よーし、面貸せ。一発ぶん殴ってやる」
軽く構え、拳を握った蕗二に芳乃は大げさな溜息をつき、上着のポケットに手を突っ込むと、脇を通り過ぎていく車に視線を投げ、独り言のように小さく口を動かした。
「≪矯正プログラム≫に行って来たんですよ」
芳乃の耳元、髪の間から控えめに青く光ってみせる、サージカルステンレス製のフープピアス。
≪ブルーマーク≫が着けられた者は、犯罪者予備軍を犯罪者にしない為の≪矯正プログラム≫に参加する義務が発生する。
ただ、受講時間は3時間と自動車免許の違反講習より長いとの噂だ。これを拒否した場合は罰金を科せられるか、最悪禁固になる。
じゃあ≪ブルーマーク≫を外せば良い、って訳でもない。
もし、自力で外せばピアスに埋め込まれた生体チップが即座に作動し、身柄が確保される。
そして、≪レッドマーク≫になる。
≪レッドマーク≫は≪ブルーマーク≫と違い、制約はさらに厳しい上、完全監視対象だ。そして、もし犯罪を犯すことなく穏やかに過ごしていても、≪レッドマーク≫がはずされることは絶対に無い。
一生レッテルは貼り付けられるのだ。
だが、この講習を受けた上、犯罪を起こすことなく、判定テストで15年間判定に引っかからなければ≪ブルーマーク≫は外される事になっている。
だから、誰も≪ブルーマーク≫をはずさない。
まったく良くできた制度だ。
青い光から目を逸らす。ふと、胸の奥底で疑問が浮かんできた。湧いたというよりも、仕舞っていた物を引き出した気分だ。気がつけば、ぽつりと口の端から零れ落ちていた。
「なあ、お前って目を合わせたら人の心が読めんのか?」
芳乃はゆっくりと黒い眼だけを蕗二に向けた。
「……もう、知ってるんじゃないんですか?」
「ああ、≪お前ら≫の資料は見た。けど、住所と電話番号、あと何処の学校か勤め先か、それくらいだ」
菊田に喫煙ルームで手渡されたUSBメモリーは、竹輔と共に目を通した。
中身は住所どころか、家族構成や≪ブルーマーク≫の判定結果まで事細かに記されていた。
菊田の口ぶりから、ごく一部の人間しか知らないようなものも書かれているのだろう。
≪あいつら≫を知るために、読むべきだと思った。だが、どうしても気が進まなかった。
秘密を覗き見するような、罪悪感だろう。
だから、蕗二は直接本人たちから聞きたいと思ったのだ。
蕗二の言葉に、芳乃は腕を胸の前で組んだ。
「話したくない、って言ったらどうするんですか?」
「言うまでついて行く」
芳乃の表情が不快感からか歪む。蕗二はわざと口の端を吊り上げ、笑ってみせる。
「教えてくれたら帰ってやるよ。どうする? 言うか言わないか、だ」
刑事の口調で問われ、黒い眼が蕗二を睨みつける。
無言の睨み合いが続いたが、芳乃は呆れたように盛大な溜息をついてみせると、踵を返し歩き出した。
後者を選択したらしいが、数メートル歩いたところでコンビニに足を踏み入れ、迷うことなくレジの前を通り過ぎ、奥の棚に並ぶパンコーナーで立ち止まった。棚の隅々まで視線を走らせたかと思うと、腕を伸ばし、たっぷりの白い砂糖を纏った狐色の丸いパンを取る。
「奢ってくれたら考えます」
あんぱんと書かれたそれを押し付けられた蕗二は、手の中でパンをもてあそぶ。
思い出したかのように蕗二の腹の虫が鳴いた。
それに従い、パンと向かい合った棚に腕を伸ばすと、梅とおかか、昆布のおにぎりを掴み手の中に収める。さらに緑茶のペットボトルを掴む。
「飲み物は? いらねぇの?」
振り返ると、芳乃は悪戯が失敗した子供のように立ち尽くしていた。
もう一度同じ質問をすると、芳乃は口をもぐりと動かし、カフェオレのペットボトルを指差した。
蕗二はそれも手に取ると、まとめて会計を済まし、コンビニに併設されたイートスペースに向かう。
ちょっとしたカフェのように机と椅子と窓際にカウンターが設置されているのだが、あまりにこじんまりとしすぎているせいか人気が無い。
端の窓際に腰を落ち着かせた蕗二は、さっそく昆布のおにぎりを手に取った。
大人しく隣に座った芳乃は、見るからに甘そうなあんぱんを味わうように咀嚼している。あまりにもゆっくりで、蕗二が腹におにぎりを一つ収め終えても、三分の一しか減っていない。
しばらくかかりそうな食事から視線をはずし、おかかのおにぎりを頬張りながら外を眺める。
休日でもせわしく動く人々を目で追う。
ペットボトルの蓋を開け、唇に当てたところでおにぎりが口の中に押し込んだままだったことに気がつく。なんとなく息苦しいとは思っていたが、まさか通行人の観察に夢中になって忘れるとは。
たぶん刑事の職業病だろう。
いや違う、寝不足のせいだ。
眉間を摘み、深く刻まれてしまっている皺を伸ばすように、指先で広げる。
「疲れてるんですか?」
不意に上がった芳乃の声に視線を向けると、ひらりと手を振られる。
「言っときますけど、今は視えてません。視る気もありません。普通に聞いただけです」
やっと半分に減ったあんぱんに噛りついた芳乃より、放たれた単語に意識が向く。
口の中に残るおにぎりをお茶を呷って喉奥に流し込むと、芳乃へ向き直る。
「視えてない?」
「ずっと視えるわけじゃないんです。気がつくと、その人の思い浮かべていることが視えるんです」
「そんな気まぐれで、あそこまで?」
そんなはずは無い。仮に気まぐれで心を読めたとして、まるで犯行を見たように的確に語れるとは思えない。蕗二を肯定するように芳乃の首が横に振られた。
「ぼくも、本当はよくわからないんです」
手元に落とされた視線が小さく揺れる。まるで迷子の子供のようだ。
しかし、瞬き一つでそれは掻き消えた。
「でも、ぼくが目を合わせると、皆さん結構思ってることがだだ漏れになるので、本当に聞きたいときはそうします」
なるほど、あの目にはそういう意味があったのか。
瞬きもせず、こちらを見据える底なしの黒い眼を思い出して、蕗二はわずかに身震いした。
「じゃあ、息止めるあれもか?」
「あれをすると、頭が冴えるみたいで、いつもよりはっきり見えるんです。でも、すごく疲れるんで、できればやりたくありませんけど」
「へぇ……」
芳乃は残りのあんぱんを口に放り込むと、味わうようにゆっくりと咀嚼する。
喉仏が上下し、満足げに口の端についた砂糖を舐め取る様子につられ、お茶を口に運ぶ。
人の心を読む。今更だが、かなりすごい能力だ。
刑事をやっているおかげで、ある程度なら嘘を見抜くことはできるが、芳乃のように完全に読むことはできない。
もし自分に心を読む力があったら、どうなんだろうか……。
ふと、何かに引かれるに芳乃と目が合った。
底なしの穴のように真っ黒な眼が蕗二を見ている。
感情と呼べるもの全てが抜け落ち、表情すら浮かんでいない芳乃に、蕗二は一瞬にして得体の知れない生物を見ている気分にさせられる。
心を読んでいる。覗かれている。
知ってしまうと、否応なしに恐怖を感じる。動揺してはいけないと思えば思うほど、深みに嵌まっていく気がした。
突然、芳乃が動く。
しかし、蕗二も反射的に身体が動いていた。
自動ドアに飛び込む勢いで外へと駆け出した背に追いつくと後ろ襟を掴み止めた。蕗二を振り払おうと上げられた腕を捻り上げ、背中にまとめて固定する。
「痛い! 痛いって離せよ!」
犯人でもない一般人にはやりすぎだが、緩めるわけにはいかない。暴れる芳乃の腕を強めに捻ると、仰け反り小さく呻くと、やっと動きを止める。
「聞け。この際だから言っとくけど、お前のそれ、本当にすごいからな。使い方によっちゃあ」
「だから! 貴方が思っているほど、便利なんかじゃない!」
声を張り上げた芳乃の肩から突然力が抜ける。
項垂れ、晒された襟足に思わず掴んでいた腕を緩めた。だが、芳乃はうつむいたまま動かない。
「読めなきゃどれだけ……」
低く呟かれた小さな声は、震えていた。
「おいそれどういう」
蕗二の声は、突如上がった男の悲鳴に掻き消された。




