File:0.5 焼きついたヒスイ
2042年5月3日土曜日。AM12:33。
新宿区。
一際目立つ背の高い男が、自ら持ち込んだ木製のバットを構える。
ヘルメットの下から覗く吊り上がった目は正面を睨みつけていた。
男の視線の先には緑の壁。
そして、そこに嵌まる液晶画面で、野球のユニフォームを身につけた男が映し出されている。
映像は男と睨みあい、ふと頷くと大きく振り被り、腕を振った。
瞬間、画面から硬く白い球体が飛び出した。
男は球から視線をそらさないまま腕を振るう。
空を鋭く切る音。
重い衝撃を受け止めた腕は怯むことなく、バットを振り切った。
爽快な音が響き渡る。
照明で白く滲む丸い球は綺麗な弧を描き、映像の頭上を越えていった。
球の軌道を見て、さらに眉間の皺を深めた男・三輪蕗二に、隣のバッターボックスから声がかかる。
「兄ちゃん、左打ちか。もしかしてサウスポー?」
蕗二が視線を向けると、小柄な中年男性がまじまじと蕗二を見ていた。
「サウス? ああいや、右だ。右投げ左打ち」
「右利きで、そこまで打てるならだいぶやりこんでるな?」
男の問いに答えず、蕗二は再び構える。
バットを握り締めるのと同時に、再びバーチャルの投手が動いた。
「もしかして、甲子園行ったことあるのか?」
「だったらなんだ」
映像が振り被り投げる動作と共に、球が発射される。
蕗二は右足を浮かせ、踏み込むと同時に腰を捻りながらバットを強く振った。
先ほどよりも澄んだ高い音が響いた。
球は勢いよく発射台の頭上を飛び越えて、背後の丸いホームランボードのど真ん中に命中した。
誰かが歓声を上げる。
どこからか小さな拍手も聞こえる。
だが、蕗二は眉間の皺をより深くし鋭く舌を打つと、ヘルメットを脱ぎ捨て、愛用のバット片手に後ろの扉を押し開けバッターボックスを出る。
すぐ目の前にあったベンチに腰を落としたところで、紺色の野球ユニフォームを着た若い女性店員が駆け寄ってきた。
「ホームランおめでとうございます」
愛嬌のある笑顔で『ワンゲーム無料』と、ポップな字体で書かれた名刺ほどのチケットが差し出される。
「どうも」とだけ呟き、片手で受け取る。
しかし、女性店員はなぜか離れない。
靴紐を解きながら、視線だけを店員に向ける。
「何か?」
蕗二の声に、一瞬視線をさ迷わせると耳をほんのりと赤く染め、俯いてしまった。
耳の横で一つにまとめられた髪が肩を滑り落ちる。
「最近良く来られますね?」
「ああ」
「会社で野球大会とかですか?」
「いや……」
蕗二は靴を履き替え、バットを黒く長いケースに入れ背負う。
まだ何か言い出しそうな店員に、蕗二は持っていた靴の踵を差し出す。
「返しといてもらえる?」
「えっ? あ、はい、ありがとうございます」
細い指が靴を受け取った次の瞬間には、蕗二は背を向け歩き出していた。
女性店員の視線を感じたが、振り切るように足幅を広げ、バッティングセンターを後にする。
徒歩数分の最寄り駅の改札を抜け、階段を駆け下りる。
人の疎らなホームに降り、蕗二は歩きながら電光掲示板を見上げる。
頭上を過ぎていくそれには、まもなく電車が到着すると日本語と英語で表示されていた。
停車位置に並ぶ列の最後尾に立ち止まり、自分にしか聞こえない舌打ちを打ち、眉間を指先でつまんだ。
朝から最悪の気分だった。
ここ最近、父の死んだ日の夢をよく見る。
夜中に何度も起き、酷い日は朝まで眠れないこともあった。
そのせいか、ホームに滑るように静かに止まる電車の車体に映りこんだ自分の顔は、いつもよりさらに人相が悪い気がした。
ドアが音もなくスライドし、人が流れ出る。
人波が途切れたと同時に人が車内に吸い込まれていく。
それに身を任せるように車内に乗り込む。
休日だがそれなりに混んでいる。
だが入り口付近から離れると圧迫感は無い。
電子音と共にドアが閉まり、車体がゆっくりと進む。
足裏にわずかな揺れを感じたが、驚くほど身体は揺れない。
吊革につかまることも無く、目の前の網棚に乗った紙袋や通勤鞄をぼんやりと眺める。
悪夢の原因は分かっていた。
前回の少女殺害事件の久保聡だ。
彼を逮捕後取り調べた結果、やはり芳乃の言うとおりで、凶器であった飯田美穂の指紋のついたビニール紐の束も、久保の家で見つかった。
おかげで、無事起訴することになり、飯田美穂を死に至らしめる原因にもなった同級生にも≪レッドマーク≫付きの処罰が下った。
そのことを、蕗二と同僚であり部下の坂下竹輔は、飯田美穂の両親に何よりも早く報告しに行った。
通夜だったのだろう、黒い服に身を包んだ飯田の両親と顔を合わせた時、思わず言葉を失った。
刑事である蕗二と竹輔にとって、突然事件に巻き込まれ子供を失った遺族と会うことは珍しいことではない。だが、飯田の両親は蕗二たちの予想をはるかに超えて憔悴しきっていた。
特に母親は化粧もせずに、腫れた目元をそのままに、生気も気力もすべて失った姿はまさに生きる屍のようだった。
畳の居間に通され、正座で向き合った蕗二は丁寧に事件の全容を報告し、裁判やマスコミ、被害者支援など今後起こる可能性のあることも詳しく話した。
すると、無表情だった両親は血の気を取り戻し、咽び泣いた。顔を真っ赤にして歯を食いしばり大粒の涙を零す父親と、竹輔が宥めても畳に頭を擦りつけるのを止めず、何度も何度も礼を言う母親の姿が忘れられない。
蕗二は後味が悪くて仕方がなかった。
飯田美穂の両親に感謝されたが、娘はもう二度と帰ってこない。
心に空いた大きな傷は塞がることなく、二人を一生苛むのだろう。
蕗二は痛いほど知っていた。
しかし、世間の流れはそんなこともお構いなしに時を刻んだ。
事件は被害者が未成年だったこと、犯人が教師だったこともあり、ニュースでは話題をさらうはずだった海外の若手社長のチャリティ活動より大きく取り上げられ、連日飽きることなく報道されていた。
それが収まる頃には、蕗二たちも事件の書類処理が終わり、あとは検察に任せ裁判の行方を見守るばかりとなった。
【特殊殺人対策捜査班】としての仕事は終わった。
そして、蕗二は悪夢を見るようになった。
蕗二の古傷は久保により深く抉られ、唾を吐きかけ泥を擦り込まれ、化膿したのだった。
目に見える傷なら、とっとと病院にでも行って、何が何でも治しただろう。
だが、こればかりはどうにもならない。
腫れ上がった傷口は、父が死んだあの日の後悔と怒りの膿でぐずぐずになった。
その膿を自ら絞るには、あまりにも苦痛で、触れば傷口が広がって気がおかしくなるんじゃないかとさえ思えた。
蕗二はただ傷口から目を逸らし、瘡蓋が張るまで堪えるしかなかった。
幸いにも、あれ以来【特殊殺人対策捜査班】が出動するような事件は起こらず、一ヶ月が過ぎていた。
だが、傷口はまだ塞がらない。
それどころか、疼いて痛みを訴えていた。
あのこびり付く、小さな青い光を残らず潰してしまいたい。
≪ブルーマーク≫が憎い。憎い。憎い。
熱を持ち、引きつる痛みに、思考が奪われていく。
いっそのこと爪を食い込ませて、膿ごと肉を剥ぎ取れば、この不快感は消えてなくなるんじゃないか。
そんな思考に囚われ、気がつけば休日だというのにバットを握っていた。
新宿駅到着を告げる人工的な車掌の声に、意識を戻す。ほぼ同時に車体が音もなく止まる。
扉が開くそれに合わせ、流れ出す人の波に蕗二は乗った。
ホームに降り流れのまま階段を上る。
乗り換えようと改札を抜けた先も人混みは減らず、真っ直ぐ歩くのは困難だった。
互いに避けながら蕗二は進む。
携帯をいじりながら歩く女性をかわした視界の端を、小さな青い光が通り過ぎた。
その後を追うように癖のない長い毛先が蕗二を掠め、甘い香水の匂いを残す。
それから逃げるように足先を変え、薄暗い駅構内から人と車が騒々しく行き交う喧騒へと飛び出した。
眩しいほど晴れた青空に目を細める。
迷い込んだ洞窟から抜け出したかのような、安心感に大きく息をつくことができた。
相当まずい。≪ブルーマーク≫を見て、心が荒れることは何度もある。
その度に、何とかやり過ごしてきた。
だが、今回ばかりは過敏に反応してしまう。
『囚われるな』
不意に思い出した菊田の言葉。
もしかしたら、彼はこれを見抜いていたのかも知れない。
蕗二はもう一度、深く息を吐く。
舌が張りつくほど喉が乾いていた。
視線を巡らせ、目についた自販機に近づき、ズボンを探る。
ポケットから抜き出した手に、銀色の電子マネーカードと、茶色い皮張りの手帳が掴まれていた。
汗や雨で少し色褪せている表面を指先でなぞる。
しっくりと指に吸いつくような手触りに促され、手帳を開くと警察の象徴でもある旭日章が控えめに光り、蕗二を見つめた。
≪ブルーマーク≫は憎い。
今も許すことはできない。
あの日、あっけなく奪い去られた命を、もう二度と奪われたくない。
泣き崩れた母の肩を抱き、父の遺影に一人誓った。
≪ブルーマーク≫による犯罪をなくすと。
だから刑事になった。そうだろう。
手帳を丁寧に閉じると、ポケットにしまいこむ。
さっきよりは落ち着いた気がする。だが、自分の性分を考えると、もう少し頭を冷やしたほうがいい。
ふと、視線を投げた先に、背の高い建物ばかりが佇んでいる。
騒がしく行き交う人々に誘われるように、蕗二は無機質なビルの森に足を踏み出した。
何かに追われるように駅へと向かう足早な人々の流れに逆らいながら、ゆっくりと蕗二は足を進める。
東京には父の関係で小学生の頃、何年か住んでいたことがある。
あとは警官になりたての頃、所轄に配属された時の三年間だけだ。
それ以外ほとんど西にいた。
東京の土地勘は無いに等しい。
本庁に勤める事になったからには、土地勘を把握していた方が何かと便利だ。
踏切を超え、頭の中に地図を描くように道なりに歩く。
だが、風景はあまり代わり映えしない。
似たような背の建物が道の両端に行儀よく立ち並んでいるせいか、壁のように見える。
大阪の方がガサガザしてるな。
蕗二は慣れた西の街を思い返す。
が、すっかり遠い記憶になりつつあることに気がつく。
異動になってたった一ヶ月しか経っていないはずなのに、今思えば東京に来てから事件続きで時間が取れていない。
新しく借りた部屋もまだ片付けていない。
辞令が下ったのはこちらに来る三日前で、慌てて荷物を詰め込んで、そのままごっそり持ってきた。あとで捨てようと思ったものも、私服や昇進試験のテキストも、まだダンボールの中に入ったままだ。
この一ヶ月、ワイシャツとジャージと寝巻きだけで過ごしている。
自堕落だ。
男の一人暮らしなんてそんなもんだと思うが、そろそろなんとかした方がいいだろう。
蕗二は液晶端末をポケットから取り出し、画面に指先を滑らせて地図を展開する。
まだ一駅分しか歩いていないことに驚いた。
しかし、それよりも蕗二の頭を痛くしたのは、自分の家とはまったく正反対の方向へと歩いていたことだ。
あれ、なんで俺、歩いてるんだっけ?
ああ、イライラしてて頭冷やそうと思って……だとしても、よっぽどだ。よっぽど参ってる。
大げさに溜息をつくと、のんきに腹の虫が鳴いた。
軽く腹を擦り、地図をもう一度確認する。
もう少し進めば次の駅だ。
そこまで行けばコンビニでも、ファミレスでも何でもある。
そこで腹ごしらえをし、引き返そう。散らかった部屋の荷物を全部片付ければ、日は暮れるだろう。適当に即席料理を腹につめてシャワーを浴びれば、今日こそしっかりと眠れる気がした。
道なりに、さっきより速度を上げて歩を進める。
無心で足を動かしていた蕗二の目が、何かに気がついた。
視線の先には古ぼけた雑居ビル。
壁のように並ぶ真新しい建物と建物の間、窮屈そうに挟まれた三階建てのそれは、上二階は居酒屋、その一番下は古ぼけたゲームセンターだった。
扉も無い駐車場のような空間に、無理やりアーケードゲームを並べ奥にクレーンゲームを押しこんでいるだけの簡素なものだ。
灯りらしいものもゲーム機から漏れるのみで、好んで入る人は限られているだろう。
だが、蕗二は目を離さず足を止める。
薄暗いその一番奥に小さく光る青い光を見つけた。
ざわりと逆立つ感情を押し殺し、薄暗闇に目を凝らす。
青い光が目についたのもあるが、どこか見覚えのある人影だった。
数歩足を踏み込み近づくと、それは確信に変わった。
「よお、芳乃じゃねーか」




