File:0
2032年9月19日。
暗闇の中、地鳴りがごうごうと響いている。
しかし、意識が戻るにつれ、地鳴りは別のものに変わっていく。
悲鳴だ。たくさんの、泣き叫ぶ人の声。
引きつる瞼を無理やり開けると、アスファルトの粒がはっきり見えた。
頭を動かした瞬間、右こめかみ辺りに強い痛みが走り、呻くことしかできない。
なんだ、何が起きた……
蕗二は地面に身を投げ出したまま、必死に記憶を手繰り寄せた。
穏やかな昼だった。
夏の日差しが和らぎ、日陰は少し肌寒いくらいだが過ごしやすい休日だった。
だから人も多かったのかもしれない。
高く晴れ渡る青空の下、開けた広場では大道芸や屋台で賑わっていた。
「蕗二、ほら見ろよすごいな」
父が何本ものナイフでジャグリングする大道芸人を指差していた。
「それくらい珍しくないやん、駅前でもやってるし」
「あ、ははは、そうか……」
父はこめかみを指先で掻いてみせる。
困っているようにも、照れているようにも見えた。
刑事である父は、休日でも呼び出されることが多かった。楽しみにしていた家族旅行が、突然潰れたことだって何回もある。
だから、珍しく長く一緒に居ると、何を話して良いのかまったく分からなかった。
母が気を遣ってくれたのか、二人でショッピングモールの縁日に行くことになったが、たぶん父もそうなのだろう。口調は仕事で使っている標準語のままだ。
蕗二は必死に話題を探す。
だが、結局たどり着いた話題は、ひどく身近なことでしかなかった。
「なあ、おやじ」
「なんだ?」
「おれなぁ、甲子園行った」
「ああ、テレビで見た。生で見たかったな……」
「ボロ負けやったから、ええねん。四番やったのに、かっこ悪いし……」
ポケットに手を突っ込み、視線を落とす。
初の甲子園。初戦だった。
試合は点取り合戦、七対八。最後の攻撃9回表。
あと一点、あと一点で同点に追いつく。
両チームと会場の熱気は最高潮だった。
雲ひとつない青空に、大音量の応援歌、土と汗の匂い、低く高く波のように押し寄せる歓声に、興奮からか体が震えた。
心臓が内側から胸板を激しく叩いている。
陽炎の揺らめくグラウンドに視線を走らせれば、二塁と三塁には味方が一人ずつ。
あの二人をホームまで帰せば、決着は目前だ。
監督を見れば、球をよく見ろとだけ指示された。
自分を信じろ、そう言われた気がした。
ヘルメットのつばを握り返事をする。バットを構えると投手が振り被る。
投げられた白い球が目に沁みる。
全力でバットを振る。
その真ん中を、球が食い込んだ。
衝撃に手が甘く痺れる。
その手ごたえを感じながら、全力で振り切ったバットと心地の良い音。
湧く歓声と真っ白い球が青空に吸い込まれた。
だが、結果は初戦敗退。
蕗二が勢いよく送り出した球は、高く上がったが途中で失速し、強肩のライトに捕まった。
さらに投げ返された球は、起死回生の二人をも刺し殺した。
鳴り響く試合終了のサイレンがやけに耳障りだった。
促され、やっと整列し、挨拶ととも相手チームと頭を下げあう。
相手高校の校歌が流れる中、気丈な主将である先輩が啜り泣いた。
堰を切ったように、次々と皆が泣き出すなか、蕗二は顔を上げられず、ただただ歯を食いしばり、涙を堪えた。誰にも責められることは無かったが、自分を許せずにいた。いっそ罵ってくれた方が良かったとまで思う。
欲張った。
ホームランを狙わなければ、もしかしたら……
そんな後悔ばかり浮かぶ。
目頭が熱くなり、思わず鼻が詰まる。
圧しかかる自責の重さに、足元から深く沈みかけた時、名前を呼ばれ、肩を強く小突かれた。
「なに言ってんだ蕗二、お前点いれたろ。
八回表の、ほら、あれ! あのレフトフライに上がって、蕗二が三塁から、間に合うかどうかってところにスライディングして、セーフやったやつ!」
顔を上げると、父が鼻息荒く拳を握り締めていた。
「あれはもう忘れられへんなぁ。捜査してるのも忘れて叫んでもうて。おかげで菊田に怒られた……」
「なんやそれ、あほやん」
「あほやろ」
父がへらへらと笑うのを見ながら、自分の頬が緩むのが分かった。
不意に父が、くるりと背を向ける。
「蕗二、背ぇ比べへんか?」
「ええけど」
蕗二は無防備な父の背に、あっと足を止めた。
父の背は高い。
いつも見送っていた広く大きな背は、時々テレビにも映り込んでいて、少し憧れでもあった。
遠く、見上げていたはずのそれが、いつの間にか近くなっていることに気が付き、驚きと嬉しさが込み上げる。
「ほら早よぉ」
楽しげに急かす父の踵と自分の踵をくっつける。
頭の上に置かれた手のひらがじわりと熱い。
「でっかくなったなぁ。もう追いつかれそうや」
父の声に、ゆっくりと振り返った。
頭の上に置かれていた手のひらは宙で固定されていて、父の後頭部の真ん中あたりに翳されていた。
「……ちぇ、もうちょい伸びとると思っとったのに」
「これ以上でかくならんでええって。背ぇ高いと苦労するで? 見下げてなくても、見下げるな。とか言われるし、電車の吊り広告は邪魔やし、なんや知らんけど高いところの雑用ぜーんぶ回ってくるし」
「上の窓と電球やろ? あとロッカーの上!」
「それそれ! そんで、服とか貸し借りできひんし?」
「ウエスト入っても足首出るんやろ!」
「ほんまそれ!」
腹を抱えて笑い合う。
久々に声を上げて笑った。
そうだ、甲子園以来ちゃんと笑ってなかった。
蕗二は顔を引き締め、正面から父と向かい合う。
「……来年、俺三年やん」
「そうやな」
「あと一年、死ぬ気で頑張る。んで、もう一回、甲子園行くから……来てや、絶対」
語尾は掠れてほとんど声になっていなかった。
それでも聞き逃さなかった父は、笑いすぎて溢れた涙をぬぐい、目の前に拳を突き出して見せた。
「ああ、絶対行く」
「絶対やで」
拳を合わせようと腕を伸ばす。
突然、後ろで悲鳴が上がった。
笑っていた父の目が鋭く悲鳴の方を睨む。その視線を追い、振り返った蕗二の目に、信じられないものが飛びこんできた。
人が風に吹き上げられるように宙を舞っていた。
白い大きな塊が人を撥ね飛ばしながらこちらへ突っ込んでくる。それを車と判別できた直後、強い力で腕が引かれ、引きずられるように走り出す。
気つけば人の悲鳴と混乱の波に飲み込まれていた。
我先にと逃げ惑う人と何度もぶつかり、身体のあちこちが痛む。指先は凍るほど冷たいのに、父に強く掴まれている手首が熱い。
父の背中越しに建物の入り口が見えた。
助かったと息を吐いた瞬間、押されたのか突き飛ばされたのか、一際大きな衝撃に大きく体がよろめいた。
手が離れ、振り返る父の見開かれた目が、人の背に飲み込まれたところで意識は途切れた。
思い出すうちに頭は冷えてきたが、ゆっくりと頭を持ち上げようと首に力を入れただけで、筋肉が悲鳴を上げた。
どこが痛いのか分からないほど体中が痛む。
やっとのことで頭を持ち上げ、周りに目を向けた蕗二は言葉を失った。
まるで別世界に迷い込んだように、荒れ果てた光景が広がっていた。
賑やかだった屋台は全てなぎ倒され、物は散乱し、大勢に踏み潰されて原型が残っていない。
嵐が過ぎ去った直後の、静けさにも似ていた。
蕗二は腕を身体に引き寄せ、地につけた擦り傷だらけの手を見ながら、上体を起こす。
高くなった視界に、倒れた何人もの人が映る。
誰もが赤い水溜りの中に、沈んでいる。
誰も動かない。
一瞬目を疑う。だが、見れば見るほど、それは現実だと突きつけられる。
耳の奥で血の気の引く音が、はっきり聞こえる。
冷や汗が全身から吹き出した。
助けを。誰に。死んでる。生きてる。どっちだ。
いや、何でもいい。誰かを呼ばなければ。
頭の中をぐるぐると思考が回る。
ゆらり。
目の端で影が動いた。
「助け……」
咄嗟に上げた蕗二の声は、喉奥に引っかかった。
フードを被った男が、こちらに歩いてくる。
その右手には、赤錆色に光る刃の長いナイフが握られ、刃先は真っ直ぐ蕗二に向けられていた。
全身の産毛が逆立つ。
跳ねるように起き上がったが、足が絡まってみっともなく尻餅をつく。
それでも必死に立ち上がろうとするが体が震え、地面から腰を上げることも、後ろに這いずり逃げる力さえ根こそぎ奪われていた。
男が目の前で立ち止まる。
フードの下、男の口元が歪み、歯を剥いて笑うのがはっきり見えた。
悲鳴を上げようと開けた口から声は出ず、奥歯がカチカチと不快な音を立てる。
目の前で真っ赤な刃物が振り上げられた。
「蕗二!!」
それは父の、聞いたことも無い荒く張られた大声だった。
気がついた時には、父の大きな背が視界を塞いでいた。
男と激しく揉み合い、どちらともわからない獣のような叫び声が上がる。
血塗れのナイフがアスファルトに落ちた。
瞬間、父が全体重をかけ男を突き飛ばす。
崩れるように地面に倒れた男の背に、父は素早く跨り腕を捻り上げた。
「三輪警部補!」
青い服の警察官が三人駆けて来た。
父が押さえた男に手錠がかけられる。
まだ落ち着かない呼吸のまま、男を鋭く睨みつけていた父は、ふと蕗二を見ると目元を緩ませ笑ってみせた。
それを見た途端、じわりと、安堵感が身体を満たし力が抜ける。
首が落ちそうなくらい俯いた。
靴が片方脱げていることに今ごろになって気がつき、蕗二は力なく笑う。
スニーカー、結構お気に入りだったのに。
いや、そんな事はどうでもいいじゃないか。
きっと母が心配してる。この事件はニュースにもなってるはずだ。
早く帰って、おやじはすごかったと、言ってやろう。
照れるだろうか。いや構わない。やっと、ちゃんと話ができたんだ。だから早く。
「帰ろ、おやじ」
顔を上げたその先で、アスファルトに崩れ落ちる父の姿が、やけにゆっくりと見えた。
「おやじ?」
父のすぐ脇にいた警官が、横たわるその肩を揺するが、反応がない。
警官が大声で何かを叫んだ。
だが、蕗二には理解できなかった。
上手く力の入らない膝を動かし、躓きながら倒れる父の元に駆け寄る。
警官が蕗二の肩を掴み、何か言った。
だが、耳が塞がれたように音が篭って聞こえない。
かろうじて「救急車」だけが聞き取れた。
走り去る警官の気配。
ふと、手に生温かな水が触れる。
持ち上げた手のひらは真っ赤に染まっていた。
覗き込んだ父の腹から、それは染み出しているようだ。
とっさにそこを押さえるが、震える指の間から生温かい液体は止まらず流れ続ける。
赤黒い血溜まりは父の体と、蕗二を中心に広がっていく。
片手で父の腹を強く押さえながら、その肩を揺する。
「おやじ、冗談やめろよ。なあ、救急車が、もう来るから……」
声が震えた。何度揺すっても、父は動かない。
咽返るほどの鉄臭い匂いが濃くなる。
赤色が目に沁みて、頭がくらりとする。
息が吸えない。苦しい。
父の姿が霞む。
蕗二は飛びかけた意識を引き戻すように、頭を強く振り、腹から声を絞り出した。
「おやじ……死ぬな、おい!」
突如、大きな笑い声が蕗二を飲み込んだ。
錆びたように軋む首を無理やり上げると、警官二人に拘束された男が、喉奥を晒しながら笑っていた。
勝利したとばかりに高らかに響き渡り、容赦なく蕗二の鼓膜を叩く。
警官が怒鳴り、乱暴に男の首を掴み、黙らせようとする。
その激しい動きに、上着のフードが男の頭から滑り落ちた。
乱れた黒い髪の間から小さな青い光が漏れ、蕗二の目の奥に焼きつく。
≪ブルーマーク≫
血が沸騰でもしたかのように、体が一気に熱くなる。
感覚が鋭く、研ぎ澄まされていく。
破壊された風景、冷たい父の体。
染みつく血の臭い、眼下に広がる深紅。
けたたましいサイレンの音、耳にこびりつく男の嘲笑。
小さな青い光。
すべてが体中に刻み込まれていく。
割れるほど強く噛み締めた歯の間から、野獣のような呻き声が漏れる。
それは歯をこじ開け、咆哮へと変わり、蕗二の腹底から喉を突き破った。




