野菜ジュースとグリーンスムージーの違いがよく分からない
憂鬱さがなくなる代わりの緊張。
息が漏れ出るのはため息だけの意味ではないことは頭の悪い僕にだって分かる。
心臓が大きく膨らみ、縮む。 明らかに生きるために必要な活動以上のそれは、心臓が膨らみ度に肺が圧迫されるように息が口から出て、縮む度に出ていったのと同量が入り込む。
吐息が荒くなり、鼓動が高鳴る。
応答のボタンを押して「もしもし、先輩ですか?」の言葉はそう簡単に出すことは出来ない。
夕方と同じように何回か呼び出し音が鳴り、それから携帯電話を手に取る。
「もしもし、先輩ですか?」
「ああ、新、今どこにいる?」
触りから本題に入る、粗野とまでは言わないが少し乱雑である。
夜風に浸っていた僕は、身体を冷やさないようにと部屋の中に入れるように体勢を変える。
「家ですけど、夜ですから」
「悪いんだが……家泊めてくれないか?」
先輩の言葉から数瞬遅れて「は?」と、間の抜けた声が漏れ出る。
僕の知っている彼は常識を持った先輩であった。 意地の悪いところや、人を食うような笑みは常日頃からのそれではあるが……人を食う(性的な意味で)ような発言は初めてだ。
いや、そもそも僕を異性として認識していないがためにそんな事を言い出した可能性も決して少なくはない。
軽いセクハラじみた言葉を掛けられたこともあるが、それは女性として認識していないがためのものだったのだろうか。 それすらも不明だ。
「え、えと……」
先輩の意図が読めずに、後の句が続かない。
単純に二つのパターンが考えられる。
一つは先輩が何かしらの理由で家に帰れないから、一人暮らしで余裕のある僕を頼った。
二つ目はえっちなことが目的といったところだ。
二つ目は多分ない。 あったとしても追い返す。 僕は先輩を好いているが、そういうのは結婚してからと決めているのだ。
となれば、やはり何かしらの理由があるはずだ。 でも、どんな理由が……。
「俺の家なんだけどなーー」
先輩の声が、突然吹いた強風の音で半ば掻き消されながら聞こえてくる。
「空、飛んだ」
ベランダから近くの空に見える。 大きな何かが、月明かりを覆うように高く高くと上がり、停止する。
天空に浮かぶ住宅街の土地。 夢でも見ていると言われたのならば迷いなく信じられる光景。
いつか映画で見た天空に浮かぶ城。 それよりは高度が低いがそれに近しいものを感じる。
「……これでは明日から、どうやって洗濯物を乾かせば……!
完全に日光遮るパターンですよ」
「洗濯物より俺の明日を心配してくれ」
意味が分からない現象だ。
学のない僕にはどうすればいいのかが、分からないが。 この後すぐの行動は決まった。
「掃除しないと」
一方的に電話を切ってから、天空の住宅街を見上げ呟いた。
普段から綺麗にしてるつもりではある。 が、それでも隠さなければならないものはある。
例えば先程まで着用していたり、部屋の中で干している下着は自室の奥深くにしまう必要がある。 先輩が興味持ちそうな小学校中学校の卒業アルバムもだ。
先輩を泊める用の部屋も用意する必要がある。 寝室にしてる部屋にしか寝具はないけれど、一緒に寝るなんて不健全なことはしたくない、リビングのソファーで寝てもらってもいいけれど、そこには僕の私物……ぬいぐるみや小物などもあるので少し避けたい。
一日だけならいいけど、そんなに簡単に済む問題でもなさそうだ。
とりあえずは空き部屋があるので一室を掃除してソファーをベッド代わりにおけばいいだろう。
『泊めてもいいですが、身体に触ったりしたら叩き出します。 ついでにコンビニでナタデココ買ってきてください。』
時間稼ぎにメールでお使いを頼む。
行う行動は、下着などを片付ける、空き部屋の掃除、ソファーを運ぶの順だ。 最悪、恥ずかしいものだけを隠せばいい。
あとの二つは先輩に手伝ってもらってもいいし、そもそもソファーの方は僕一人だとどうしようもない。
『OK』とだけ帰ってきたメールを読み、急いで片付けをする。 空き部屋の埃っぽさがなくなった頃に、ピンポンとベルが鳴る。
少し薄い寝巻きの上に、冬用のコートを羽織って防御力を上げ、鏡で顔や髪に変なものが付いていないかを確認してから玄関に向かう。
「先輩ですか?」
一応、訊ねれば、とびらの向こうから先輩の声が聞こえる。
「すまん、ナタデココなかったから代わりに単三電池買ってきた」
「単三電池をどうやって代わりにすればいいのか分かりません。 あっ、でも電子辞書の電池が切れてたんでありがたいです」
声を確認したので、扉を開いて先輩を迎える。
今日別れたときと同じ格好なのは、家に帰る前に何かをしていたから帰りそびれてしまったからか。
着崩しているとまではいかないが、きっちりとも着ていない制服にボサボサの短髪。
高校が近くにあるこの地域ではそう珍しくもない格好だ。
軽く先輩は頭を下げてから「じゃまをする」と玄関に上がる。
ぱっと見、乱雑に靴を脱ぐが、器用に脱ぎ散らしたように見える靴が揃えられている。
「疲れた」
「僕も疲れました」という言葉を言いそうになり、喉の奥から出される前に飲み込む。
意図せずとも自分も同じだという言葉は、相手を叱咤する言葉だと判断されるかもしれない。
先輩の鞄をひったくり、それを持ってリビングの机の横に置く。 ついてきた先輩に椅子に座ってもらい、僕はキッチンの冷蔵庫に向かう。
「先輩、何か飲みたいものありますか?」
「グリーンスムージーで」
「先輩は少しポッチャリ気味だけど運動はしたくないOLですか」
当然そんなものは置いていないので、代わりに野菜ジュースを取り出す。
コップ二つとペットボトルを持ち、肩で冷蔵庫の扉を閉めてリビングに戻る。
「野菜ジュースでいいですか?」
頷いた先輩に注いであげて、自分の分を注ぐ前に窓から外を眺める。
やはりというか、住宅地が浮遊している。 先輩の家のみが浮遊するのならば、先輩の普段の行い(主に僕への行為)が悪いからだと、心底納得出来るのだが、他の人の家まで巻き込まれるのはどうなのだろうか。
先輩は罰によってまた罰が当たるようなことを起こすとは。
「テレビ、ニュース見てもいいか?」
少し落ち着いたらしい先輩が言う。
何か見たい番組があるわけでなく、直接的な被害はないけれど、僕にもこの天災には無関係とは言えない。
否定する必要もなくので頷く。
リモコンを手にした先輩は手慣れた様子でニュース番組を少し見て、違うニュース番組に変えて少し見て、と繰り返す。
こんなメチャクチャなことが起こっているのだから、速報になっていてもおかしくはないと思っていたのだけれどどこにもその情報はない。 よく分からない政事の話や、関係のない遠くの犯罪者の話。
「情報、ありませんね」
一通り見終えた後、僕は考えている様子の先輩を一瞥してから自分のコップに野菜ジュースを注ぐ。
入れたままでも話せる程度の量を口に含み嚥下する。
「ないな。 現実離れしてるからか?」
考察しているらしいが、テレビの事情なんて推し量ることは出来ない。
問題なのは「何故」ではなくどうするべきかだ。
「これから、泊まるんですよね」
極力感情が篭るのを避けた、いつも通りのフリをした口調を吐く。
その感情は期待ではない。 僕が異性として見られていないからこそ、僕に頼んだということは分かっている。
「まぁ、新がよければ頼みたい」
「別に、いいですけど……。 他に泊めてくれる人はいないんですか?」
僕が言えたことではないが、先輩って友達がいないのではないか。
同性の友人と帰る訳でもなく、後輩の女の子と共に登下校している。 先輩が部活動以外で友人らしき人と話しているところをあまり見ない。
「なんだその哀れんだ眼は。 新と一緒にしないでくれ、それぐらいいるから」
「どうしてそっちに行かなかったんですか?」
「例えばさ、戦部っているだろ? 時々部室にくるマッチョの」
「ああ、あのマッチョさんですか」
僕の部活、ボードゲーム部に遊びにくる三年生の先輩。 身長190cmを超えて、体重は100kgはありそうだ。
すごい存在感の巨漢の彼は、自称「赤口のライバル」らしく、よく部室まできてムキムキの筋肉を使って先輩と将棋を指したりする変な人だ。
「暑苦しい、食事にプロテイン盛られそう、徹夜で色々と勝負させられそう、なんか筋肉移りそう」
「一つ目以外、全部根も葉もないイメージですよね。
筋肉は移りませんからね。 風邪じゃあるまいし」
へらへら笑う先輩はコンビニの袋から幾つかのお菓子を取り出す。
「あれ、夕ご飯食べましたか?」
「いや、これ夕飯代わり」
「……ちゃんとご飯食べてくださいよ。 そんなんじゃあ戦部先輩みたいなマッチョさんになれませんよ?」
「いや、マッチョにはなりたくないって」
先輩の言葉をスルーし、手でお菓子を持つ先輩の手を制し台所に向かう。
残念ながら、煮物は食べきってしまったし、他に残り物はないので今から作ることになる。
まぁ、まだ八時も来ていないので何とかならなくはないだろう。
「新って料理出来るのか?」
「一人暮らし歴、なかなか長いですからね。 味は保障しませんが簡単なものなら作れますよ。 何か食べたいものありますか?」
料理の腕に自信は全くないけれど、これからいつまでになるか分からない先輩のお世話のことも考えればずっとお菓子を食べさせて行くわけには行かないだろう。
「じゃあ…………肉じゃがとかで」
「なんて簡単且つポピュラーな料理を……。 相当、僕のことを信用してませんね」
「ぶっちゃけると、まずちゃんと料理出来るところまで背が足りるのかというところから不安だ」
「…………台ありますから」
冷蔵庫を開けると、思ったよりも材料が少ない。 さっき食べたばかりなのでそんなに食べれはしなかっただろうので、一人分作れる程度しかない。 まぁ、何でもいいと言って作れる材料があったのが幸運か。
一人暮らしは、五年ほど前からだ。 それ以前も姉との二人暮しだったので料理はかなり昔から作っている。 熟練者である。
調理は、焼いたり煮たりの時間は慣れた人も普段は作らない人も変わらないが、その最中に出来ることは違う。 つまりは幾つかの行程ならば同時にパパッと出来る。
大した時間もかからずに、先輩が携帯電話で何かを調べているのを諦めた程度の時間で完成した。
「何を調べてたんですか?」
「そりゃ、あれだけど」
先輩に話ながら、完成した肉じゃがとご飯と味噌汁に、時間がなかったために何の調理もしてない切っただけの野菜を先輩の前に並べる。
先輩の指差した方向は窓の外、考えてみれば当然だ。
携帯電話で調べているのだったら、インターネットだろうけど、全く情報がなかったというのも不自然だ。
「まぁ、後でいいか」
お箸はどうしよう。 一人暮らしのために箸は僕用のしかない。 前にコンビニでお弁当を買った時に付いていたのがあるだろうか。
あった。 なんとなく残念な気持ちになりながら先輩に手渡す。
「なんだ、大した物だな」
何故そんなに上から目線なのだろう。 小さく溜息を吐いて、先輩の隣に座る。
カチャカチャ。 僕が乱雑に並べた料理を、食べやすいように先輩が動かす。
僕の料理を食べた感想を聞きたいので、座って待っておく。
じいっと、食べる様子を見る僕を少し鬱陶しそうにする。
気になるものは気になる。 胃袋を掴むことが出来るかはすごく大切である。
少し音を立てながら、先輩は食べ進めていく。
「なあ、ジト目で見続けられてると責められてる気分になるんだけど」
そんなことを言われたために、席を外して先輩にもらった単三電池を電子辞書に入れる。
動作が問題ないかを調べるために、何か言葉を調べてみよう。 目に付いた、外の景色。
『空中土地・上空に浮く土地。』
へえ、そんな言葉あるのか。