異世界に向かってフライアウェー
夕暮れの空は朱く染まっていない。
真っ黒な雨雲が空を覆い尽くして、夕焼けを隠す。 バケツをひっくり返したかのような雨が、ただでさえ暗い空間の視界を限界まで奪う。
けれど、見紛うはずはない。
雨が世界を覆うのに、雷の光が落ちてくることもない。
学校の屋上という地形上、自然光以外の光源が存在していないために限りなく視覚が役に立たない。
だが、その程度で曇るほど俺の目は役立たずではない。
確信している。 立ち入り禁止の屋上で、ずぶ濡れのせいで雨か何かと見間違いそうになるが、しっかりと見える。
名前も知らない、顔も知らない少女が涙を流して立っている。 風が吹けば、落ちてしまうような場所に。
助けなければならない。 助けなければならない。
自殺しようとしていることは見れば分かる。 死ぬほど辛いことがあったのかもしれない。
だから泣いてこんな場所に立っているのだろう。
彼女の涙を視認したのと同時に、俺は走り出す。 助けようと、彼女の元に駆け寄る。
コンクリートの地面に現れた水溜りを蹴散らせたせいかおかげか、彼女は振り返って俺の顔を見る。
一瞬、笑ったように見え、彼女は顔を崩して涙を流す。
「ありがとうございます」
雨の音にかき消されながらも届いたその言葉。 その意味が理解出来る前に、少女の身体が斜めになる。
屋上から飛び降りた。
◇◇◇◇◇◇
「目覚めよ、正義感溢れる青年よ」
そんな言葉に釣られるように目を開ければ、真っ白い空間。
死後の世界とはこのようなものか、ずいぶんとまあ、つまらなさそうだ。
そんな中で、夢に見たような女神の姿を見る。
美しい、純粋にそう思った。
身長は低い130cmほどだろうか、真っ黒なショートヘアは柔らかく細い髪がさらりと流れていて艶やか、少し態度の悪いは可愛らしい。 凹凸がなく細い肢体が真っ白いワンピースに包まれていて楚々とした印象が残る。
彼、引田はロリコンだった。
何処かで見覚えがあるようなその女神は閉じていた口を開く。
「あなたは死ぬ運命ではありませんでした。 しかし、こちらの過失で命を失ってしまい……。 お詫びに蘇らせさせていただきます」
一秒ほど身体が固まる。
死ぬ運命ではなかったのに、神のミスで死んで、そしてお詫びに復活……。 聞いたことがあるような話だ。
チーレム。頭の中にその言葉が湧き出る。
「チーレム転生きた!!!!」
思わず発せられた言葉に女神は一歩引く。
「ち、チーレム……転生? い、いえ貴方はあの屋上で蘇らせて……」
「えっ?」
「えっ?」
「ああ、なんだ。 嘘か」
女神の言葉は嘘ということにされた。
「やっぱり、チートは無限の魔力と全魔法の素養は必須だよな」
「ま、魔力……」
「あとはイケメンになって」
「整形してくださいよ」
「女の子をニコポとかナデポ出来る能力とか」
「それ出来るなら、イケメンになる意味あります?」
「身体能力でも世界最強で、スキル奪取もな」
「す、スキル……?」
「じゃあ頼んだぜ!」
女性は声を小さくして言う。
「なら、世界の方をそんな感じに……」
◇◇◇◇◇◇
季節は夏も盛り、心無しか大きく見える太陽を見上げるように、隣で歩いている人を見上げる。
そう、見上げるのだ。 そして、隣にいる彼は僕を見下ろす。
首が痛くなるほど見上げる必要のある、明らかな身長の格差は世界の不平等を助長しているような気がする。
そんなことを僕が不満に思っていることを彼は知らないのだろう。
制服のスカートの下に子供用の膝丈の半ズボンに。 年頃の16歳の女性にもなって、色気も何もないような格好をしているのには理由がある。
前述した通り、身長が低いからだ。
小学校三年生の時から完全に止まってしまった体長は、170cmの横の男性と比べて40cm程低い。
そんな僕がちゃんと着れる服なんて、子供用の物しかない。 当然、制服もぶかぶかで、ふとした拍子でずれ落ちてしまう可能性を考えれば下に何かを着ているのは必須だ。
「ん? どうしたんだ? そんなニンニクとか苦手そうな肌色をして」
「不健康な白色なのは自覚してますが、吸血鬼ほど青白くないですよ」
横の人、同じ部活に入っている先輩がニヤニヤと意地の悪さを現すような笑みを僕に向ける。
僕をからかうのが好きらしい先輩は、僕と話をする時はいつもこうで、不快だ。
先輩曰く「じとりとした目」を彼に向けるが効果はない。
わざとらしくため息を吐いて、先輩から目を逸らす。
「もういいです、先輩といたら疲れます」
「首が?」
性格が悪い。 僕が身長のことを気にしているのは知っているだろう。
彼を見上げるのは気に食わない。 真っ直ぐに前を向いて、先輩の方を見ないように歩く。
家まではあと十分程だろうか。 明日からゴールデンウイークだが、僕の気は世間らしい浮ついたようにはなりはしない。
休みは暇なんだ。 家にもうすぐ着くが、家には誰もいない。
友達と遊びに行くにも、友達がいない。 当然、恋人や彼氏とやらも。
小さくため息が漏れ出る。 明日から退屈だからだと思おう。
家の近くまできた。 暇潰しのために……「ゴールデンウイーク、何処かに遊びに行きませんか?」と尋ねよう。
チャンスは今しかない。 必要もないはずの意を決して、先輩の方へと向き直る。
「せ、先輩っ。 ゴールデンウうウィーク、いいい……!」
「ん、どうした突然……」
思い切り舌を噛んでしまい、痛みが走る。 涙が出そうになるが、耐えて自宅の敷地に入る。
「い、痛い。
あと、なんでもありませんから」
噛んでしまった羞恥に耐えきれずに赤くなってしまった顔を見られないように俯きながら、片手で制服のスカートの裾を掴みながら、空いた手で先輩に手を振る。
「またな、新」
先輩が僕の名前を呼んで、手を振り返してくれる。 先輩とゴールデンウイークを過ごすことは出来なさそうだ。
僕は、クラスメートの女の子と比べて、すごく不器用らしい。
乱雑に扉を閉めるが、大きな音も立てられない自分の気の小ささに嫌気が差す。
鞄をソファに投げつけ、その横に小さくなって座り込む。
もう既に、やることがない。 せっかくのゴールデンウィークの始まりなのにである。
空はまだ夕にもなっていない。 あと五日ほど、無為な時間をひたすらか。
凝り固まった身体を伸ばそうと、ソファから伸びた脚が机にぶつかり音を立てる。 その痛みすら慰みになるほどの退屈は、呼び出し音とバイブレーションが響き打ち消される。
「あ……先輩」
同じ部活動の部員しか登録されていない携帯電話。
ほとんどの部員とは、部活動以外では付き合いがないので僕の携帯を鳴らすような人は一人しかいない。
呼び出し音、呼び出し音、呼び出し音。 三度ほどそれを待ってから、応答。
「もしもし、先輩。 何か御用ですか?」
高くなりそうな声を低くして、わざとらしく他人行儀の言葉を発する。 見栄だ。
そんな僕の思いを知ってか知らずか、先輩の声はいつも通り。
想いがバレていない大きな安堵と、どうしようもない微かな苛立ちが声に籠もる。
「ああ、明日暇かと尋ねるのを忘れててな」
「明日……ですか。 確認するのでちょっと待ってください」
勿体つけて、確認する必要もない手帳を手元で広げる。
宿題の提出日ぐらいしか書かれていないそれに、土曜日提出の宿題があるわけもない。
「明日なら大丈夫ですよ」
わざとらしく音を立てる手帳。
電話に慣れていないせいなのか、近づきすぎているのか先輩の呼吸音が微かに聞こえる。
「ん、なら明後日は?」
一瞬だけ間を開けて。
「大丈夫ですね」
「明々後日は?」
「大丈夫です」
「ゴールデンウィーク中に都合が悪い日……あるか?」
「……だ、だいたい大丈夫ですね」
いつも通りの、鼻で笑うような意地悪な笑い声が耳に入る。
恥ずかしさを誤魔化すために、話題を無理矢理変える。
「え、えとっ、明日遊ぶってことでいいですか?」
「おう、そうしないか? 暇なんだろ」
はい。 そう返すのも恥ずかしいけれど、誤魔化しようもない。
「じゃあ、また明日」
「んー、適当に家に行くから」
見えないだろうが、了承の返事とともに頷く。
遊びに行く。 年頃の男女が二人きりで。つまり、これはデートとなる。
多少はおめかししなければならないだろう。 とは言えど、明日だと今から何かを買いに行くことも出来ないので程度はしれているけれど。
タンスをひっくり返して服を取り出すが、年頃の女の子らしい可愛らしい服はない。
僕の感性で可愛い服はあるが、妙に強い羞恥心のせいか男の子に受けそうな露出の多い服はない。 それに可愛い服も僕の身長の問題もあり、どこか子供っぽさが抜けていない。
ため息が漏れ出る。 ため息を吐けば幸せが逃げるというが、逆である。 幸せになれない問題があるからため息が出るのだ。
横から入り込む太陽の赤い光が鬱陶しく、カーテンを閉める。
やることもない。 少し早いけれど、作り置いていたご飯、食べよう。
毎日欠かさず働いてもらっている電子レンジが稼働して、昨日の残りの煮物が温まる。
味噌汁を作ろうかと迷ったが、面倒だったので止める。 作っている間に温めた煮物も冷めてしまうのもある。
ご飯と煮物だけの簡素な食事を終える。
今日、あとはお風呂に入ってすぐに寝よう。
もう風呂掃除は済ませていたので、あとは湯を張るだけ。 お湯を入れている間に歯磨きを済ませる。
歯を磨いていると、洗面所の前に置いている鏡が目に入り込む。 口から白い歯磨き粉が漏れ出ている間抜けな顔だ。
童顔というか、小学生の時から全く変わらないままの顔。 白い肌は気に入っているが、自身の幼い顔の造形自体はコンプレックスの塊でしかない。
大人っぽくなりたいと思い化粧を試したことはあるが、子供にしか見えない僕がしたところで滑稽でしかないことは誰かに見せるまでもなく、この鏡を見ただけですぐに分かった。
ばーか。 口に出さずにそう言って、自室にまで移動する。
寝巻きと下着とタオルを取り出して風呂場に行く。
まだお風呂の湯が溜まりきってはいないが、脱いだりしている間に溜まりきるだろう。
服を脱いで、湯気の中に入り込む。
先ず、明日に備えて念入りに身体を洗う。 凹凸のない身体はいちいち……僕を憂鬱にする。
恋は人を変えると言うが、僕の場合にはプラス方向では無く、残念な方向に変えることになったようだ。
嫉妬深く、卑屈で、その癖に素直になれずに嘘の態度を取る。
先輩に好かれる方法を考えていれば長い時間が経っていたのか、少し逆上せた。
お風呂から上がり、寝巻きを着用する。
かなり身体が熱いけれど、エアコンは今年に入って掃除していないので付ける訳にもいかない。
湯で火照った身体を冷ますために、二階のベランダに上がる。 洗いざらしの濡れた髪を風が揺らす。
心地よい。 そんなゆっくりとした風は、携帯の鳴る音で緊張の糸を揺らす風に変わる。
「先輩……」
『赤口 夏』と表示された携帯のディスプレイ。 嬉しいはずなのに、胸の痛みからため息が漏れ出る。