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あたしが守るから その六

6


「どうして……」


 唯さんの頬を大粒の涙が伝っていた。

 あたしは何が何だか分からず、その場に立ち尽くす。


 永遠ともつかない間のあと、唯さんが言った。


「どうしてそんなこと言うの……? 生まれてこなければ良かっただなんて、どうして……」

「だって、あ、あたしは、本当にいらない子だから……」


 そう言いかけた時、唯さんがあたしの両肩を掴んだ。

 強い力。でも、不思議なことにそれほどまで痛みを感じることはなかった。


「いい加減にしなさい……! 勝手にいるとか、いらないとか言わないでよ! あなたを想ってる人間がいるのに、生まれてこなければ良かったなんて、二度と言わないで!」


 泣いているけど、それと同じくらい唯さんは怒っている。だけど今は、普段頭ごなしにあたしを叱る時とは全く違い、あたしに全身全霊でぶつかってきているような、そんな気がした。


「そんな、そんな悲しいこと、言わないで……。私はあなたのこと、とっても好きよ。私は、あなたと、もっと仲良くなりたい……。私のことを、好きになってもらいたいって思ってるの……」


 唯さんはあたしに真っ赤な目を向ける。あたしも、唯さんの目から視線を逸らしたりはしない。


「だって、私たちは家族じゃない? せっかく、家族になったのに、あなたが、もしいなくなってしまったら、私は、一体どうしたらいいの……?」

「家族……」


 小さい時から、あたしには家族なんていなかった。あたしを放って他の男と遊んでばかりのいんらんの母親も、酒に酔っていつもあたしに八つ当たりしてくるどうしようもない父親も、あたしに親らしいことは何一つしてくれなかった。でも、あたしの目の前にいるこの人は、そうじゃなかった。


 さっきの、唯さんのあの男に対する態度が蘇る。

 唯さんは、何の躊躇いもなくあたしを助けてくれた。

 そして今、この人はあたしのために涙を流している。


 思い返せば、唯さんはいつだってあたしに正面からぶつかってきていた。

 あの母親にあたしが相手にされていなかったことを、この人は知っていたはずだ。

 父親に暴力を振るわれたせいで、大人が信用できなくなっていたことを、この人は知っていたはずだ。


 頭の中で、唯さんがあたしの名前を呼ぶ声が蘇る。


 確かに、頭ごなしに怒られることもあった。でも、そうじゃないことだって、沢山あったじゃないか。


 再婚してすぐ、唯さんが授業参観に来たことがあった。

 OLっぽいピシッとしたスーツを着て、他の親たちよりも小綺麗な印象を受けた。

 算数の授業で、あたしは難しい問題を教師に当てられた。

 でも、あたしはなんとか答えることができた。

 別に新しく来た義母に良いところを見せたかったわけじゃない。

 むしろ、授業参観なんかに来ないでほしいと思ってたくらいだ。

 新しい母親が来るなんて、クラスメイトに妙な目で見られるだけだから。


 放課後、あたしは学帽をわざと深めに被り、唯さんの少し前を歩いた。

 想像していたとはいえ、本当に心を開こうとしないあたしに、唯さんは随分手を焼いたと思う。


 そんな時、唯さんはあたしの後姿に向かって言った。


『日真理』


 あたしは、億劫そうに首だけを回す。唯さんは、


『頑張ったね』


 と、笑って言った。


 何も飾らない言葉。でもあたしは、まともに褒められた覚えがなくて、つい顔が上気してしまったのだった。


 あたしが学校で酷い目に遭って引きこもりになっていた時、扉越しに唯さんは必死にあたしと向き合おうとしていた。


 でも、母親と向き合うということがどういうことなのか分からなくて、そもそも人に助けをどうやって求めていいのかも分からなくて、あたしは殻にこもり続けたんだ。


 だけど、シャロと出会った今ならわかる気がする。

 目の前のこの人と、どう向き合っていけばいいのかを。

 あたしを想ってくれる人の気持ちにどう応えればいいのかを。


「ごめんね。もう絶対に、そんなこと言わないから……。約束、するから……。だから、もう、泣かないで」


 あたしは、濡れている義母の頬に触れる。


 ああ、やっぱり温かい。

 むしろ熱いくらい。


 あの人は最後、完全に体温を失った。

 あの時多分、あたしの身体も同じように冷え切ってしまったんだ。


 だけど今は違う。

 血の通った人間が、あたしに寄り添ってくれる。

 あたしのことを必要としてくれる。


 それだけで、あたしはまた歩き出せそうな気がしていた。


「ありがとう、日真理……。あなたが、あなた自身を大事にしてくれるのなら、私はそれだけで充分よ。それに、あの子だってそれを望んでいるはずよ。ねぇ、シャロちゃん」

「え、シャロ!?」


 唯さんがある場所を見つめる。物陰からはなんと、


「日真理、ごめん……」


 泣きそうになっているシャロが姿を現していた。


「シャロ! 向こうで待っててって言ったのに……」

「日真理、怒らないであげて。きっとなかなか戻ってこないあなたのことが心配だったのよ。そうでしょ?」


 唯さんが尋ねると、銀髪ツインテールは涙目でうなずいた。


「お久しぶりねシャロちゃん。さっき、あなたのお父さんにお会いしたわ」

「お、お父さんと……?」


 シャロの瞳が怯えに満ちる。あたしは即座に彼女の元へと駆け寄り、彼女の手を握った。


「何か、事情があるみたいね。やっぱりあの人は何か危険な香りがすると思ったわ」

「あの人は、本当に危ないよ……。あたしは、この子を守らないといけない」

「ちょっと待って日真理。あの人はいったいその子に何をしようとしているの? それにそれは、日真理で何とかできるようなことなの?」


 唯さんの問が核心へと迫る。

 シャロがあたしの手を強く握り返してくる。

 唯さんに、坂上瞳子のことを伝えるの躊躇われた。そして今、この子が殺されそうになっていることは伝えられない。唯さんに、あたしはこれ以上心配は掛けられない。


「ごめん、今は……」


 そう言いかけた時、


「大丈夫。日真理ならなんとかできる。だから、日真理のお母さんは心配しないで」


 怯えていたはずのシャロが、しっかりとした口調でそう言ったのだった。


「……あなたが、日真理のことを信じてくれているのなら、私も信じるわ。でもね、もし本当に危険なことをしようとしているならやめて。危ないと思ったらすぐに私を頼りなさい。いい?」

「……分かった」


 あたしはそう答えるのがやっとだった。


 それでも唯さんは、


「分かればよろしい」


 と言って、笑顔を向けてくれた。


 電話が来たのは、その時だった。


「日真理、ケータイ鳴ってるよ」


 シャロの声で我に返る。どうやらマナーモードにするのを忘れていたらしく、ケータイからは黒電話みたいな古めかしい着信音が発せられていた。

 あたしは慌ててガラケーを開き、相手の名前を確認する。


「夏海?」


 電話の主は夏海だった。こんな朝からなんだろう? そう思い、電話に出ると、


「ちょっとひま! 今どこにいるの!? 二人がいなくなってるから、校長先生も大慌てだよ! ……ちょっと聞いてる!? ねえ、ひま!」


 電話の向こうから、珍しく怒りを露わにした夏海の声があたしの鼓膜を大いに震わせたのだった。

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