あたしが守るから その五
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「日真理、その人はどなた?」
短目の髪の毛をかきあげながら唯さんがそう尋ねると、真壁晃一郎はあたしの腕をようやく解放した。
「これはどうも失礼いたしました。私は日真理さんのクラスメイトの真壁の父親です。いつも娘がお世話になっているので、そのご挨拶に来た次第です」
真壁晃一郎は唯さんを見るや否や、表情を一変させ、数分前と同様の作り笑顔を唯さんに向けた。
でも唯さんはそんなやつの様子を見ても少しも態度を軟化させることなくこう言った。
「それはわざわざありがとうございます。ですがすみません、私は人の娘に乱暴を働くような方のご挨拶を受ける趣味はございませんので」
唯さんは、家とは反対側を指し示しながら、
「お帰りください。そして、二度とウチの娘に近寄らないでください」
と、はっきり言ってのけた。
真壁晃一郎はあまりにはっきりした唯さんの物言いに面食らっているようだった。
「これはこれは、ずいぶんと厳しい。いやいや申し訳ないですね。ちょっとヒートアップしてしまいましてね。ですが、もうこんな真似は……」
「聞こえませんでしたか? 私はお帰りくださいと申し上げたんです。娘に手をあげられて、笑って許す親がいるとお思いですか?」
何年もこの人を見てきたあたしには分かる。今の唯さんの眼は、心の底からキレている時の眼だ。
出会って数分の他人にここまでストレートな拒絶をぶつけられるこの人に怖さを感じた。
でも同時に、あたしの中に、今まで感じたことのないような感情が渦巻いていたのも事実だった。
「…………」
やつはまだ何か言いたそうではあったが、やがて諦めたのか、一度あたしたちに一礼すると、早々にあたしたちの視界から姿を消したのだった。
「あ、あの……」
「大丈夫だった? 怪我はない?」
「え? う、うん、あたしは、大丈夫……」
予想もしなかった唯さんの言葉に困惑する。
あたしはてっきり、こんな時間に帰ってきたことをまず怒られるものだと思っていたのに。
「まったく、子供のクラスメイトの腕を掴むなんて、何考えてるのかしらね。……うん、大丈夫そうね。特に腫れてもいなさそうだし」
唯さんはあたしの腕を触診したあと、あたしに笑顔を向けた。
あたしは、恐る恐る尋ねた。
「怒らないの? 昨日、外泊したことを……?」
唯さんは、特に表情を変化させずに言う。
「昨日の朝、久しぶりに家族で外食に行こうって言ったの、覚えてない?」
「え?」
「やっぱり、覚えてなかったのね……。まぁ、覚えてなかったのなら仕方ないわ。次は、約束はちゃんと守ってよね」
正直、そんな話全然記憶になかった。
唯さんが怒ってたのは、外食の約束をあたしがすっぽかしたからだったのか……。
「ごめん、なさい……」
「だから、もうしないならいいの。それよりも日真理、あなた、昨日誰の家に泊めさせてもらったの?」
「え?」
「え? じゃなくて、ちゃんと御礼しないといけないでしょ? だから教えてよ。電話しないといけないからね」
どうしよう……。あたしが泊まれる家なんて、正直夏海の家くらいしかない。でも、夏海の母親に聞かれたら嘘が即刻バレる。
正直に学校に泊まったって言うべきか? いやいや、それこそどう説明すればいい? シャロのことを語らずして説明するのは、不可能に近いし……
「日真理?」
「あの、じ、実はね……」
無理だとは思いつつも、あたしは必死に口を開こうとした。でも、その時唯さんが言った。
「もしかして…………あの子のため、だったのかな……?」
「え?」
唯さんの言葉の意味が分からなかった。
あの子と、唯さんは言った。それは一体誰のこと? 唯さんが思い当たる人物なんて、あたしには心当たりがないのに……。
「唯さん、何言って、」
「隠さなくてもいいわ。やっぱりあの子、シャロちゃんのことなのよね……?」
頭を殴られたような、そんな衝撃に襲われた。
その口から出て来るはずのない名前。それを今、この人は確かに言った。
「ど、どうして、シャロのことを!?」
唯さんがシャロを知っているはずがない。
シャロはこの一カ月間誰にもひた隠しにしてきたことなんだ。
今まで唯さんにも、親父にも尋ねられたことは一度もない。
だから誰も気付いている訳がない。
だけど、そんなあたしの思いとは裏腹に、唯さんは一度呆れたように溜息をついてから言った。
「同じ家に住んでて、気付かないと思う? 娘の隠し事を見抜けない親なんて、いると思う? 例えそれが、義理の親だったとしてもね」
「気付いていたのなら、どうして何も言わなかったの……?」
あたしは唯さんを睨んだ。
唯さんは、僅かに躊躇う素振りを見せたが、あたしの剣幕を見てか、ようやく意を決して口を開いた。
「あの子に、シャロちゃんに口止めされていたのよ……」
「どうして、シャロがそんなことを!?」
「きっと、あなたのためだったんだと思う。日真理が必死に隠しているのに、自分が見つかってしまっては、日真理の努力が無駄になる。そう思って、あの子は私に口止めしたんだと思うわ……」
「そ、そんな……」
言葉を失う。唯さんの口から発せられる言葉の一つ一つが波のように押し寄せる。
「まただ……」
またあたしはあの子に助けてもらっていたんだ。
あたしがミスを犯していたことを悟らせないために、あの子は頑張っていてくれたんだ。
あたしは奥歯を噛みしめる。
悔しさと情けなさが、あたしの心を覆い尽くす。
シャロが連れ出してくれたおかげで、あたしはまた学校に行けるようになった。
あの子が背中を押してくれたおかげで、あたしは親友との絆を取り戻すことができた。
全部あの子のおかげなんだ。
あの子がいたから、あたしはここまで来ることができたんだ。
どうしようもない。ホントにあたしはどうしようもない。いつも、いつだってあの子に助けてもらってばかり……。
なのに、あたし自身はあの子に何も返せていない……。
自分が許せない。あの子に助けられるだけの自分が、どうしても許せなかった。
「日真理……」
あたしの顔は、多分物凄く険しかったんだと思う。唯さんはそんなあたしを心配そうに見つめながら言った。
「日真理が、そうやって傷付くと思ったから、あの子は言わなかったんだと思う。あの子は本当に良い子ね。あんな子にあれだけ好かれているあなたも、きっと良い子なんだって、私は思うわよ」
唯さんは、落ち込むあたしを励ますように、優しい口調でそう言った。
でも……
「ダメだよ……。あたしは、本当にどうしようもなくて、唯さんとの約束もすっぽかすようなダメな子で、いつも、みんなに迷惑をかけるだけの、本当に、いらない子なんだよ……」
ただ救われるだけの、一番救ってあげたい子の心を癒す力のない自分が嫌でしょうがなかった。
だから、普段なら絶対に言わないようなことが、堰を切ったように口から溢れ出して来てしまった。
「そんなことないわ。誰も迷惑だなんて思ってない。シャロちゃんも、夏海ちゃんも、あなたのこと大好きだと思ってる。もちろん私だって、あなたのことを大切に思ってる。それに、今までの私のあなたに対する接し方も、良くなかったと思うし……」
唯さんは申し訳なさそうにそう言う。
でも違う。
悪いのは、いつだってあたしだ。
「そんなことないよ……。唯さんがあたしを怒るの当たり前だよ。あたしは、父さんのことが嫌いで、唯さんのことも苦手で、いつも反抗的な態度をとってきたもん。学校も行けなくなっちゃったし、誰とも喋らなかったし……だからこんな子、好きになれる方がおかしいよ」
唯さんにはどれだけストレスをかけただろうか?
唯さんは口ではそう言ってくれたけど、言うことを一切聞かないあたしのことを邪魔だと思ったに決まってる。
原因を他人に押し付けるばかりで、自分が悪いなんて考えもしないあたしを、誰が必要だと思ってくれるだろうか……?
そんな人間、いる訳がない……。
シャロだって、こんな身勝手な人間のことなんて、いつか見限るに決まってる。
だったら、そんなあたしに、価値なんてないじゃない……。
「あたし、生まれてこなければよかったのかな……」
気付くとそんな言葉を発していた。それぐらい、あたしは自分に絶望していたんだ。
でも、その時だった。
パシンという衝撃音と共に、あたしの頬に強烈な痛みが走った。
何が起こったのか、瞬時には理解できなかった。
親父には散々殴られた。だけど、この人だけはあたしに手をあげなかった。
でも、今だけは違った。
あたしを殴ったのは、紛れもなく唯さんだったのだから。