催涙雨
初夏に芽吹いたアサガオはあっという間に花を咲かせる。好みの彼女もいつかは年を取る。
目覚めた時からの曇天はやがて雨を降らせる。
「そろそろ上がっていいよ」
終業時刻を過ぎること二十分と三十秒。例によって残業をしていたが漸く帰宅できる。従業員室を後に更衣室へ向かう。
七夕といえば織姫と彦星の悲しくも美しい説話で有名である。幸せに溺れたふたりは互いの仕事を怠けてしまい、その罰として天帝が天の川を引いて彼らを離ればなれにしてしまった。そんな彼らが唯一、会うことを許されたのが今日−七月七日である。
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
形だけの挨拶を済ませ外へと出ると相変わらずの曇天であった。大通りを行き交う車のヘッドライトに小雨も反射して見えた。生憎だが傘は持っていない。
7月7日に会うことを許されたふたりだったがそれすらも不可能になってしまう条件があった。それが『雨』である。
彼らは天の川に架けられた橋を渡り一年越しの再開を噛み締める訳だが、雨が降ると川が増水し橋が渡れなくなるのだ。
今日は朝から灰色の雲が一面に広がっていたがやがてぽつぽつと雨を降らせ、その勢いは段々と増した。悲しみと恋しさのあまりに号泣する織姫と彦星の如く、正午過ぎには一際激しく降り、通りを急ぐ人の肩を濡らした。この雨を催涙雨と呼ぶらしい。
前髪が湿気に負けて視界の端にちらちらと主張を始めた。やはり梅雨の前に切っておくべきだったかと後悔先になんとやら。
バイトと言えど残業は常であり、七夕だろうとクリスマスだろうと関係はないのである。
さながら彦星の如く悲しみにくれながら空を仰ぐと水滴が目に入った。
仕事それもバイトで愛しい彼女に会えない事実はもう何週間も前からわかっていたことだが、やはり身を切るより辛いことであった。バイトという抗いようのない大河に引き離されてしまった哀れな恋人たちは、まるで織姫と彦星伝説を現代版になぞったようだ。
たかが七夕だ、と何度唱えたか知れない。彼女のために働いているのだ、仕方ないことではないか、と。ではこんなに冷たく重たい体を引き摺っているのか教えてほしい。雨のせいであろうか、頬がやけに冷たく感じる。
すっかり冷えた体で帰宅する。小さく佇むぼろアパートは普段と変わらず静かに帰りを待っていたらしかった。適当にタオルを手にして部屋の明かりを着ける。
彼女が家に来たの痕跡は無論ない。ついでに冷蔵庫には缶ビールも無い。代わりに取り出したトマトジュースは消費期限ギリギリだったが、背に腹は変えられない。並々とコップに注いで口に付ける。
彼女も彼女で今日という日を満喫したのだろう。そこに自分が居なかったという事実だけが胸を締め付けるが今となってはもう仕方のないことだ。
少しカビ臭い部屋を進みベランダへと出る。昨日用意しておいた、小さな笹が申し訳なさそうに垂れている。その葉先に垂れ下がる短冊は雨に濡れてややふやけ始めているらしかった。
「今日はどんな一日だったのかな」
きっと一生かかっても知ることは出来ないだろう、それでも君を想う。
向かいのアパート302号室にすむ麗しの、まだ私の顔も知らない君を想うのだ。
願わくば−
『来年は一緒にいられますように』
おわり。
七夕ってやりました?結局何もできませんでした。いけませんね。
雨が降ると会えないって悲しいですね。そんなことを考えながら書きました。
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ありがとうございました。