好きな人が冒険者になった日
ギルド前の石段に、アズは座っていた。
夕暮れの光が街の屋根を橙色に染めている。
鐘楼が六つ鳴り、広場では露店の魔導灯が一つずつ灯り始めていた。
その真ん中で、アズは胸元に下げた真新しい銅のプレートを、何度も何度も指で撫でていた。登録を終えたばかりの、駆け出しの証。冒険者の位でいえば、いちばん下の銅等級だ。
ふいにアズが振り返った。
私は慌てて顔を逸らそうとしたが、既に遅かったようだ。
「あ、リゼ」
物陰からじっと見つめていた私に、どういう訳か気付いた。アズが子どもみたいに顔をほころばせ、私に向け銅のプレートを掲げる。
「ねぇ見てよ、これ。さっき登録してきたんだ。ついに夢が叶ったんだ」
「へぇ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「銅のプレート、ね。ずいぶん安っぽいわ。うちのパン屋の看板の方がまだ立派じゃない」
アズの笑顔が、ほんの少しだけ引きつる。
それでもアズはめげない。昔からそうだ。川に落ちても、木から落ちても、笑って立ち上がる。つまり、ちょっとやそっとじゃ折れない。
分かっているから、私も遠慮なく言ってしまう。いや、言ってしまえる。
「まあ、最初はみんなこうだよ。これから上がっていくんだ」
「上がる前に、薬草採取でスライムに負けて帰ってくるのが目に見えるけど」
「ひどいな」
「事実でしょう。あなた、五歳のときに森で迷子になって、私が見つけてあげたじゃない。十歳のときは、ゴブリンの鳴き声を聞いて泣いてたわ」
「泣いてない」
「泣いたわよ。私の後ろに隠れて、ぷるぷる震えてた」
本当は、違う。震えながらも、アズは最後には私の前に立った。木の枝を握りしめて、「リゼには近づくな」と叫んだのだ。結局ゴブリンは、通りかかった衛兵が追い払ってくれたのだけれど。
思い出して緩みそうになった頬を、人差し指と親指で強く引っ張った。じんと痛む。うん、これでいい。いつもの、気の強い顔に戻れた。
柱の陰を離れ、石段へ向かう。ちょうどアズのすぐ隣は空いていたけれど、そこへは座らなかった。人ひとり分ほど間を空け、わざと離れて腰を下ろす。抱えていたパンの紙袋が、かさりと音を立てた。
「そもそも、冒険者なんて危ない仕事でしょう。大した稼ぎにもならないのに、やたら格好をつけたがる人ばかり」
「夢があるだろ」
「夢でお腹は膨れないわ。うちの店で働けばいいのに。小麦粉の袋を運ぶ人手が足りないって、父さんも言ってたもの」
「俺にパン屋をやれって?」
「力仕事ならできるでしょう。魔物の相手よりずっと向いてるわ」
「…リゼはさ、昔から俺には手厳しいよな」
「あなたが頼りないからよ」
嘘だ。頼りないなんて思ったことは、一度もない。
この街の外には、私の知らない世界が広がっている。北の山脈には氷の竜が眠っているというし、東の湿地では毎年冒険者が何人も帰ってこないという。先月も、隣の家のおじさんの息子が、遺品のプレートだけになって戻ってきた。
そのプレートは、アズの胸にあるものと同じ色をしている。
だから、嫌なのだ。
行かないでほしい。そう言えたなら、どんなに楽だろう。けれど言ってしまえば、アズはきっと困った顔をして、それでもきっと優しく笑うはずだ。
好きな人の夢を、私の我儘で折るなんて、できない。嫌われてもいい。いじわるな幼なじみのままでいい。
腹を立てて、「そんなに言うならやめてやる」と、思ってくれたなら。それでよかった。
「なあ、リゼ」
アズが手の中のプレートを見つめたまま言う。
「俺さ、強くなりたいんだ」
「知ってるわよ。何度も聞いたもの」
「あのとき、リゼの前に立ったのに、結局何もできなかっただろ。それがずっと悔しくて」
覚えていたのか。胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「だから、今度は本当に守れるようになりたい。この街も、みんなも」
アズはそこで言葉を切った。迷うように視線を泳がせて、手の中のプレートを一度握り直す。それから、呟くように言った。
「……リゼも」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。言葉の意味が遅れて胸に落ちてくる。その途端、胸の奥で何かが跳ねた。
頬が熱い。夕焼けのせいにできるだろうか。紙袋を握る指に力がこもって、パンがぎゅっと潰れる音がした。
「ば、馬鹿じゃないの」
声が裏返らなかったのは、奇跡だと思う。
アズがこちらを向く気配がして、私は慌てて膝の上のパンの袋を抱え直した。今目を合わせたら、赤い顔を見られてしまう。言い返さなければ。何でもいい、いつもの調子で、可愛げのない言葉を。
私は胸のうちから急速に脈打つ鼓動に耳を澄ませながら――――それがアズに聞こえてしまわないよう、顔を背け口を開く。
「ま、ま、守るだなんて……百年早いわ。まずはスライムに勝ってから言いなさい」
「ははっ、確かに」
「ふん。それに、あなたが大怪我でもして帰ってきたら、治療の手伝いをさせられるのは私なんだから。迷惑なのよ」
「うん、ごめん」
「謝るくらいなら、最初からやめればいい」
「それは、やめない」
即答か。揺るぎない声をしている。
やっぱり、止められそうにない。
私は唇を噛んで、潰れたパンを二つ三つ取り出し、乱暴にアズへ突き出した。
「何だよ、これ」
「売れ残り。持っていきなさい。旅の途中でお腹を空かせて倒れられたら、寝覚めが悪いもの」
「売れ残り、って。これ、焼きたてじゃないか。まだ温かいし」
「うるさいわね。いらないなら返して」
「いる、いる」
アズは嬉しそうにパンを受け取ると、大きな口でかぶりついた。頬を膨らませながら、「うまい」と笑う。いつもと同じ笑顔だ。
私は膝の上で拳を握りしめた。
死なないで。無事に帰ってきて。何度も何度もそう繰り返している。けれど、どれも喉の奥で溶けて消えていく。素直な言葉を探そうとするたびに、ひねり出した言葉は形を変えていく。かわりに口をついて出たのは、やっぱり素っ気ない言葉だ。
「帰ってきたら、お代はきっちり請求するから。パン代、利子つきで」
アズが、ぱちりと目を瞬かせた。
それから、ふっと柔らかく目を細める。
「わかった。ちゃんと払いに来るよ」
「絶対よ、約束!」
「うん、絶対!」
隣でパンを頬張る幼なじみの横顔を見つめながら、私は心の中だけで小さく祈る。
どうか、どうか。このいじわるな約束が、ずっと続きますように、と。




