夜の学校
その夜。
カナタはコンビニ袋を片手に、住宅街を歩いていた。
夜風は思ったより冷たく、街灯の下で自分の影が長く伸びる。
「は~、ったくよー……」
深いため息。
「こんな時間に弟をパシリにする姉貴がいるの、うちくらいじゃねぇか?」
唐突に「甘いものが食べたい」と言い出した姉に押し切られ、プリンを買いに出た帰りだ。
カナタの家では、女性陣が圧倒的に強い。
反論しようものなら、言葉より先に拳が飛んでくる。
「弟はつれぇぜ……」
スマホを眺めながら愚痴をこぼし、ふと顔を上げた。
向こうの歩道に、制服姿の人影がある。
「……久遠?」
間違いない。
久遠ミオだった。
夜の道を、無表情のまま歩いている。
(え……こんな時間に?)
彼女の進行方向を見て、カナタは眉をひそめる。
まっすぐ――学校の方角だ。
(……いや、帰り道じゃねーよな)
一瞬、立ち止まる。
けれど、迷いは長く続かない。
「いやいや、偶然だし? たまたまだし?」
自分に言い訳しながら、距離を取って後を追う。
やがて、学校の門が見えてきた。
ミオは門の前で立ち止まり、周囲を一度だけ確認すると――
何の躊躇もなく、壁に手をかけた。
「……は?」
次の瞬間。
ミオは軽く身を翻し、音もなく門を越えた。
カナタは口を開けたまま、完全に固まる。
(忍者?)
冗談じゃない。
ミオはそのまま、闇に沈む校舎の方へ歩いていく。
「いやいやいや、無理だろ。夜の学校だぞ? こわ」
だが、カナタの脳内では、都合のいい想像が勝手に膨らんでいく。
(……でもさ、一人で夜の学校って、普通に危なくね?)
(怖がってたらどうする?俺が助けたら……)
一瞬、妄想が弾ける。
(久遠、俺に惚れる可能性ある)
カナタは拳を握った。
「よし。ここはヒーローの出番だ」
そう言って、自分も門に手をかける。
「……俺も忍者だったわ」
勢いだけで体を引き上げ、ギリギリの体勢で門を越える。
「……足つった」
声を殺して悶絶する。
しばらくその場で痛みに耐え、足を引きずりながら顔を上げた。
すでにミオの姿は、校舎の影に飲み込まれている。
夜の学校は、昼間とはまるで別の場所のように静まり返っていた。
「……マジで何やってんだ、俺」
それでも足は止まらない。
カナタは、闇に消えた彼女の後を追って、校舎へと足を踏み入れた。
校舎は、黒い影の塊みたいだった。
窓はすべて暗く、風が吹くたびに校庭の木々が軋んだ音を立てる。
カナタは、無意識に喉を鳴らす。
「……ヤバ。音デカすぎだろ。俺の鼓動」
廊下の電灯は落ちている。
非常灯だけが、緑がかった光でぼんやりと床を照らしていた。
――コツ。
足音が、やけに大きく響く。
廊下の先に、ミオの姿が見えた。
彼女は振り返りもせず、迷いなく進み、階段へ向かう。
カナタは、声を潜めて呼びかける。
「久遠~? 忘れ物?」
「それとも……呪いとか?」
冗談のつもりだった。
返事がないのは、いつも通りのはずなのに、妙に胸がざわついた。
階段の踊り場。
そこには、古く大きな鏡が飾られている。
学校の備品のはずなのに、なぜかそこだけ、空気が違って見えた。
ミオは、その鏡の前で立ち止まった。
背筋を伸ばし、まっすぐに立つ姿は、まるで――誰かと待ち合わせているみたいだった。
カナタは柱の影に身を潜め、息を殺す。
(……え、なにこれ)
ミオが、ゆっくりと鏡に手を伸ばす。
指先が、鏡面に触れた瞬間――
波紋が広がった。
ガラスのはずの表面が、水面みたいに静かに揺れる。
カナタの思考が、完全に止まる。
「……え?」
ミオの身体が、前へ傾いた。
引き寄せられるみたいに、自然に。
鏡が――彼女を、飲み込んだ。
「……は!?」
一瞬だった。
ミオの姿は、跡形もなく消えていた。
理解するより早く、身体が動く。
「久遠!!」
駆け出し、鏡へと飛びつく。
手が鏡面に触れた瞬間、冷たい感触が腕を走った。
――引っ張られる。
「うお!? え、待っ……!」
まるで鏡の向こう側から、強い力で腕を掴まれたかのように。
カナタの身体が、すっと沈んだ。
水に落ちるみたいに、世界が裏返る。
音も、光も、重さも――
すべてが、反転した。




