明智光秀と本能寺の変
光秀の人物像で、繊細な人物が高圧的な上司の命令に神経を病んでいくようなとらえ方がよくあるが、これはどうか?と思う。これらは秀吉がさんざんやった極悪非道の裏切り者ってネガキャンの反動で光秀上げが歴史学者が行った結果で過剰にやりすぎたためだと思う。
ある程度秀吉が行ったネガキャンに真実があったのではないか?と私は考えている。事実をもとに考えると、光秀は斎藤利三に代表される家臣の引き抜きによって問題を起こしている。信長が仲裁に乗り出すほどなので、これはかなりまずい事をやったと思われる。
ただし、引き抜かれた稲葉氏側の斎藤氏の扱いがよくなかったというのはある。ただ不遇の人を救い出すような美談で見ないで、同じ織田軍団の中でもめ事上等で人材確保の利で動いたとするとこの人物の損得勘定による大胆さと強引さが見て取れる。
後はこれは憶測にすぎないが、追放となった佐久間氏の家臣を光秀は抱えたそうだ。これを好意的に見ると救済に見えるだろうが、これもまた家臣が欲しくて信長に讒言した可能性が裏にあるのじゃないか?と思えてくる。もちろんこれは憶測である。
だが、フロイスの人物像からはまるで信用が出来ない謀事の多い人物像が描かれている。ただし、フロイスの人物評価はキリスト教を基準にしすぎる。日本のキリスト教政策は信長を最高点として家康まで悪化し続ける。この原因となった光秀を高く評価しなかった可能性もある。
いつフロイスは評価したのか?がよく分からない。本能寺後なら間違いなくバイアスがかかっている。ただし、本能寺前も光秀はキリスト教に好意的な所が様々な資料で全く描写がないので否定的なもの特にないが、そのためまたキリスト教バイアスがかかってるのじゃないか?と見えてしまう部分がある。
ものすごく間抜けなのだが、当時のキリスト教宣教師はキリストの信者になる=理解力があると考えている節がある。ただし、信長は信者ではないのははっきり記述されてる。ただ擁護したのは事実である。そのため知的である事を強く記述した可能性もある。
私は黒幕説は考えなくてもいいかと思う。それと言うのも、そもそも陰に隠れて分からない陰謀なんてのは、考えても仕方ない。陰謀の形跡が残っていれば考慮に入れてもいいが、ないならこんなの考えてもきりがないんだ。黒幕説のほとんどは陰謀論的なので考えるのをやめたほうが良い。
次に黒幕説の大半が光秀の狡猾で計算高く野心的な部分をあまり重視してない事が多いのだ。光秀の人物像が違うから黒幕説になることが多い。光秀が黒幕への忠義や道具のように使われる悲劇の被害者のようにとらえられることが多いが、そもそもその人物像が違うとみている。
光秀はそれだけ狡猾にそう見えるようにふるまってるところがある。光秀はうさん臭さがほとんど残されてない。だがいくつか妙だと上記のように感じる部分があり、最後に向かう点から、おそらくかなり自分がどう見えるか?気を使って信用されるようにふるまっていた可能性がある。
秀吉が、TPOに合わせて演じれる人物だとすると、光秀は一貫して信用にたる人物像のようにふるまっていたとみている。演技のタイプが違うから目立つ役者気質の秀吉に比べて役者に見えないだけで。そうふるまっていた可能性が高いのが光秀は、前半生がよく分からない。
これはうさん臭い人物に間違いなく見える。そのため光秀は流浪時代に信用される人物としてふるまう事が身についたのじゃないか?と見ている。
ただ光秀の人物像として、繊細さって点はそう見えるのは仕方ないと思う。実際緻密にものを考えられる記述が多く残っている。ただその人物が狡猾さや利得に対する計算高さに結び付くなら繊細さのとらえ方もかなりかわると考えている。
これは単独犯行説にとても重要で、普通にいつもの計算高い狡猾な部分が出ただけじゃない?で片付いてしまうんだ。
いくつかあるが、まず重要なのは王道の長曾我部関連だろう。これは重要だと思うが、私はちょっとこれをひねった見方をしてる。これが直接的な原因と言うより、これによって野心の先が天井になってしまった事を自覚したのじゃないか?と見ている。
これに関連するのが光秀は年齢がいまいちしっかり把握されてない信長より上だけは確かだが、一般的に言われるより年齢が高かったのじゃないか?との説もたびたびある。年を食った人が、大きな仕事で失敗してしまうとこの先挽回は難しいのじゃないか?と私は見ている。
次に私は義昭の黒幕説は否定するが、室町幕府が関係してる点はあるのじゃないか?と見ている。これは私も失敗したのだが、義昭説がばかばかしすぎるという見てるのは、光秀は義昭を早くから見限っていて、その後もまるで重視していない。
これによってあり得ないと思ってたが、義昭=室町幕府ではないのに気が付いた。天皇機関説とも似てるが、義昭と言う室町の組織の歯車には何の感情もないが、室町と言う全体の組織はむしろ光秀にとって肯定する気持ちの方が強かったのじゃないか?と見ている。
よく言われる家康の饗応について、光秀は室町幕府の接待をしたらしいのだが、これを途中で切り上げている。この点最初から決まっててそれゆえ切り上げは計画的だった点。ただし、これこそが重要で、それゆえに信長は気が付かない。信長が意図した室町幕府の継承者って点を否定したかった計画だったのではないか?と言う点。
わざと中途半端に終わる饗応を引き受けたとみている。意図的に切り上げたなら信長は光秀の意図に気が付いてしまうが、まさか自分がした命令によって切り上げるのを計算に入れて継承者について馬鹿にしたような形にしたのではないか?と見ている。
信長の次の政府の構想は分かってないが、信長は徳川政権のようなものを目指した片鱗が後期にある。ただし家臣団を一門衆や時点で譜代にしたかたちになる。そうなると後発の光秀は不利な立場に追い込まれる。ただ家康の幕府のシステムは三河支配の延長って点が大きい。
そのため家康が信長の功臣の失望と言う欠点を補ったというわけではない。ただ信長のやり方は功臣の失望を招きやすい部分がある。ただし中央から辺境に排除していく功臣の領地を小さくしたのか?は分からない。それでも中央集権的な武家社会は織田と徳川は似てると思う。
ただ家康は秀吉の失敗は強く意識している。何故なら自分が秀吉政権の構造を利用して叩き潰したから。大きな領地の外様を作らない。例外はある伊達と前田。ただし、日本全体からすると徹底した政策だと言っていい。次に有力な外様を政治に関わらせない。
まさに5大老だった家康そのものになる。家康はそのため中途半端に終わったが信長の統治も研究してたのじゃないか?と私は見ている。
ここから分かるのは、室町の天下静謐についてだめな点を改善した方法が信長家康の共通点だったとみている。そこから考えると光秀は室町幕府のシステム継続むしろ望んでいたのではないか?って点。考えてみると、光秀は天下静謐に触れた言葉はほとんどない。
もちろん光秀がこれに振れるのは信長への越権行為となるため言わなかったと考えられなくもないが、そもそも光秀は天下静謐なんてまるで重視してなかったのではないか?と見ている。これはかなり重要で、天下静謐を重視してないなら、室町幕府の継続に熱意を傾けられる。
かつ、光秀にとって外様後発の家臣の自分にとって室町幕府のシステムは中央集権的な織田政権の構想より都合がよかったとみている。ただし、IFで光秀が天下統一していたら、天下静謐を目指す可能性は十分あったと思う。
矛盾してないか?なら違う。光秀はそういう点でものすごく自分の都合で動く人間だとみている。信長が特異な戦国大名だったのは、かなり早い段階から天下静謐を意識してる点。むしろ信長の方が変だと言える。信長は最初から義昭を傀儡として利用していたような見方があるが全く違うとみている。
信長は織田による全国支配を目指したのではなく、天下静謐を最初から目指してて、空虚な大義名分ではなく、本気でそれが目的だった点。光秀と信長は多分この点相いれないものがあったとみている。義昭はそれにふさわしい人物じゃないから傀儡としてしか使えないと見限っただけかと。
長曾我部は直接的な原因ではなくて、根底にあるXXXが破壊される要因になっただけと見ている。それが何なのか?これが今回紐解けたと見たから私は今回書いた。
私はずっと勘違いをしてて、その後の秀吉による明智関係者の粛清を見てて、光秀は関係者を無視して自分勝手な奴だと考えていたが、もちろん勝てばいいのだが、やはり信長を打つまでの見事さと比べてその後のおそまつさを考えると無謀に見てしまう。
だが勘違いだと気が付いたのは、むしろ光秀は家を重視した動機があったんじゃないか?と考え直した。年齢から自らの限界が見えても家はどうなるのか?と考えた時、信長はその家を衰退させるのではないか?と見えてくるからだ。信長は今の手柄を重視する。
これは佐久間林の追放から分かる。その反対が秀吉、光秀、柴田になる。林との対比で柴田になった。今手柄を立てる家来は重視するが、今手柄を立てない家来は軽視される。それは子供が引き継ぐ家では似たようになるのじゃないか?と見ている。
ただし、天下静謐が信長の最も重視してる点なので、天下静謐=日本全体支配が完成したら家も重視されるとは見てる。だがそれは光秀の生きてる間になされるか?なら疑問がある。家としてみると光秀個人の限界を超えた明智家の絶望的な未来が見えてくる。
まあ息子に大きな期待があったのなら別なのだが、そのあたりは私は分からない。ただ光秀が有能であればあるほど、その水準を維持できないと明智家が縮小される未来は十分に光秀なら計算できると私は見ている。
追記でじゃ何故フロイスが書き残した悪意を感じる好感が全く持てない人物を信長が重宝して信頼したか?信長は全く光秀を変直前まで疑ってない。そもそもそれゆえに成功した変なのだから。信長はフロイスに比べて人物評がポンコツだった?
そういった人物が能力主義で人を扱えるか?ほぼあり得ない。ならフロイスが見る目がないのか?なら何度も書いてるがフロイスは徹頭徹尾キリスト教バイアスがかかった人物評が多いためえこひいきが多い。またそれか?ならある程度そのため悪意ある人物像として光秀を残している。
ちなみにキリスト教政策がさらに衰退することになる秀吉の人物像も酷いものだ…。優れた点が突出して能力を貶められない場合フロイスは人格批判に移る傾向がある。そのためフロイスのキリスト教のバイアスがかかった人物評は無能か?またはそれが出来ない場合悪人にさせられる。
それでも悪人に対する元ネタはそれなりにきちんとしてる。他の人物から見たものや事実と比較すると偏向報道だと感じる部分がある。なるほどそれをこう切り取れば悪人を仕立て上げられるなと言うわけだ。だから元ネタ自体は全くのでたらめとは言えない。
とも言えないのだが…。フロイスの偏向報道は元ネタが歴史に全く残ってないのもちょくちょくある。まあただ残っていた場合は偏向報道で片づけられる。
さてその偏向報道だが、光秀は嬉々として汚れ仕事を請け負った可能性が高い。信長側からすると卑怯な謀略や残虐なことを進んで行う忠義の厚い人物に映るのだ。そして光秀はそう見える事を理解していた可能性がある。雇う人が違えばこんな人物嫌だなとなる可能性があるが、信長ならそう思わず逆に他の武将がやりたがらない事を進んでできる信頼できる人物だと見れる。
当然フロイスが見てきた謀事は信長が絡んでいたケースも多々あるだろう。フロイスがキリスト教バイアスが見え隠れするというのはこういう事だ。信長評には全くそんなのは記載されてない。
ただ嬉々としてやっていたと言うので悪質な人格と書きたいわけじゃない。光秀は信頼を勝ち取り重宝されるためのツボを心得ていただけで、積極性があったのであってサイコパス的に心底楽しんでいたか?は別だと思ってる。ただ謀略などは得意であったのは間違いない。
私が信長側から見た光秀像と言うのは良いイエスマンだとみている。多くの帝王学めいた書物でイエスマンの排除が数多く上げられる。だがこれは単純な見方で良き讒言者としてふるまう悪意的讒言者のほうが実際は多いんだ。信長はこれを最も嫌っていた。
その代表が佐久間と林だと見ている。残っている発言を見たらすぐにそれが分かる。どうにかして自分の個人的感情や利益のために讒言や反論を利用するだけで、王の理想の実現のための苦言なんて言ったことがない。その二人が酷いだけで、基本封建制での讒言は自分勝手な領主の役に立つどころか邪魔なだけの個人的意見が大半だ。
だからその本質を誰より見抜いていた信長は邪魔なだけの讒言者を嫌うのだ。ちなみに信長がこんな事知らないわけがない。信長は韓非子を読んでいた可能性が高い。言葉少なというのが信長がよく言われる人物像だが、これ韓非子の帝王論を実践していた可能性がある。
もちろん個性として口下手で愚図が嫌いで説明に対する面倒くさがりというのはあっただろう。だが、ところどころ韓非子を読んで実践していたと思われる発言がちらほらあるんだ。
よってイエスマンが必ずしも悪い部下というわけじゃないんだ。これは孫子を熟知していた韓信が背水の陣を編み出したのと同様なものだとみている。
24/12/9追記
修正になると思う。次世代への不安。もっと突発的だったんじゃないか?と思ってる。本能寺の変で良く分からないのは動機であって、事実光秀が実行したってのは分かってる。この動機が本当に良く分からない。だから信長も殺されたのだから。信長は人を信じやすいとよく言われるが、それは違う有名なのは黒田長政が幼少時に殺されそうになった。
これは信長も反省してるが、典型的な疑心暗鬼。信長は普通に疑う。普通じゃないケースにかなり弱い。その中で浅井長政は本当にひどかったと思う。これはありありと疑わしい相手なのにである。光秀よりよっぽど疑わしい相手。信長はこの辺り無頓着な部分がある。
戦争になると相手の人間関係を調べまくって調略に利用するのに一旦同盟などを結ぶと相手の家の事情にかなり無頓着。徳川信康もこれに入ると思う。あれは信長の娘婿じゃ無かったら結果は全く変わっていたと思う。
ただ心理的にダメージを受けたのは浅井長政、その点荒木などはそこまで信頼してない。松永もしかり。荒木の裏切りの動機はさっぱり分からないが、これは信長以外現在からみてもさっぱり分かって無い例。荒木の裏切りは、多くの人が軽んじられてるって勝手に感じた荒木の独り相撲の部分があるとの見解が多い。
信長は部下の扱いが悪いので有名なので信長は些細な事でそういったものを感じさせやすい言動が多かったと思う。立地的に最前線なので軽んじられると感情だけじゃなくて、軍事的にも問題があるので、そのあたりは一応理解は出来る部分もあるが、どっちにしても荒木と浅井長政じゃ深刻さが違う。
そこまで神経質になるほどか?と思うから感情もそれなりにあるだろうと思う。松永もなんらの感情的なものらしい。
んで修正は浅井長政のようなしがらみのような外部の影響じゃなくて、光秀も感情だろうなと見てる。怨恨と言うなら分からなくなるけど、武士的なものだと思う。光秀は骨の髄まで鎌倉以来の日本の武士なんだと思う。これが根本的な部分で、すべてはここから発する感情だと見てる。
光秀は擬態のように品行方正な態度を持ってるが、これはおそらく年齢による経験によるもので家康の忍耐強さと似た部分。我の強い性格だろうなと。私は光秀のイエスマンは擬態だと思ってる。光秀の価値観からすると、御恩と奉公の関係性で成り立ってて、真逆に近い人だと見てる。
えじゃ何故それであんな長くやって来たの?恩とちゃんと受け取ってたんだろうなと思う。でも信長はそういう感覚じゃないから…。それが今更分かったのか?なら敏い光秀にあり得ない。それはありえないって事態が起きて御恩と奉公としての鎌倉武士の本質が出てきたのかと。
皆大きく勘違いしてるが、ニーチェも述べるが土台となる価値観の部分は本当に特別な人間以外自ら立ち上がるようなものって持ってなく多くの人間は既存の刷り込まれた価値観から自由になれない。ゆえにニーチェはそれが出来る人を超人と呼んだ。キリスト仏陀と述べてる。
光秀は最後まで信長の天下布武のビジョンを納得できなかったと思ってる。土地争いの延長上でずっとやってしまった部分があるなと見てる。信長自身も後から変わったので光秀が仕えたころ分かるわけがない。何度も書くが、光秀はおそらく義昭個人の将軍としての能力を見放していただけで、信長が征夷大将軍となって室町のような体制をまた作ってくれると見ていたと思ってる。
その相違が如実に出たのが、四国への対応になると見てる。光秀は理解したわけじゃないと思う。遣ってはいけない事をやったこんな風に見ただけかと、信長があれが適当な翻意じゃないのは、大きな勢力を持つ大名を残さず強固な織田政権の中央集権国家にする。
このビジョンを持っていたから翻意がやりやすかっただけかと、まあ経緯を見ればものすごいご都合主義のような勝手な振る舞いにしか見えない。まあ本能寺の変へのアクセルじゃない、ブレーキがかからなかったのはこのビジョンの違いを納得してなかったからだろうなと。
アクセルは、自分の都合で部下を振り回す勝手な振る舞いにさすがに切れた。じゃ何故今まで良かったのか?これは何度も触れてるが、年齢だと思う。やり直しがきかないから。ただ光秀は玉砕覚悟じゃない。綿密に狙ってるので、この点は突発的に感情がすべてでやったわけじゃないと思う。
ただ決定打になったのは多分感情。部下に対する態度としてはこれは許せない。考えれば分かるが、この先信長政権が安定したとしてその社会を望むか?そこまで行くと未来にもつながってくる。価値観の違いでブレーキが働かなかったこと。これがかなり重要。
光秀って年齢もそうだが多分この部分頭固い。良く言われる知的な人物像に多分多くの人間は騙されるが、これが人の知性を知らない人間の発想、または現代の価値観で見るから知性を単純にとらえてしまう。この価値観の部分の知性って大半の人間が大差がない。
頭が良い=そこも違うはずだみたいなのが多いと思う。アメリカのリベラルみたいなノリかな。リベラルはエリート層が多いからね。でもこの部分ってあまり知性によって大きく理解度が変わるって無い。もっと言うなら、世間一般の頭が良い知性と違う知性なんだと思う。光秀はこの点頑固者ぐらい頭が固い。何度も書くけど、光秀本能寺の変の時期老齢と言って良い年齢だからね。
分かりにくいかなって思うけど、四国政策で2転3転してる。これに直接かかわるのが光秀。一般的な四国説と違うのは、四国説は長曾我部を助けるために動いたとなるが、これは多くの人から、何の得があるの?これで反論される。私もそう思う。斎藤利三が動いたんだとかある。
近年光秀は直前に打ち明けて斎藤利三に反対されたってのが出てる。この資料が残ってるのが良く分からないんだけどね…。ただ利三の説得が大変だったってのはそれなり流布してる。利三が大活躍したので、利三も同じ意見だったんだろうなって皆見ててそれが覆されたから。一旦受け入れたら覚悟を決めた感じだった。
そうなると何故長曾我部を助けるために動く?となる。うん、そんなのいらない、このやり方にいい加減ブチ切れたとなる。後信長はたびたびこういう事するからね…。この点も理解できる。三好を潰すって方針から長曾我部が重要だったけど、その三好が降伏したから必要なくなった。
まあ必要なくなったから切り捨てるみたいに見えるけど、信長が政権へのビジョンを考え始めたのが、信忠への継承や義昭追放辺りなので、そう考えると仕方ない面がある。大きな大名は邪魔なので。光秀の立場ならたまったものじゃないが、正直私は光秀の方がこの信長のビジョンの正しさから考えると納得すべきだったと思う。徳川がもっと洗練された形で実現するから。
天海=光秀説があるが、このどういった政権にするか?に天海も加わってるのであり得ないと見ている。多くの人がこの辺り無頓着なのは、光秀をキリストや仏陀のような知性の持ち主だと勘違いしてるから。その部分の光秀はむしろ頭の固いくそじじいだから…。
25/2/16追記
さらに追記で書きたいのは、私はこれまでの怨恨説とは違う。この説が嫌いなのは、後に秀吉徳川によってつくられた光秀と信長を貶めるのに都合が良かったからだ。秀吉は光秀を貶めた。徳川は信長を貶めた。ようは信長はろくでなしなので光秀の恨みが募った。こうしたいんだ。巧妙な光秀の動機に見せかけた信長下げである。
徳川は多分信長が嫌い。ああ家康とは言ってない。徳川全体。まあ扱いは確かにひどかった。ただこれについては特に大きな織田嫌いになる援軍の佐久間は個人的に人選ミスだと思う。その後の佐久間と信長の関係を見れば分かる。多くの人は佐久間の悲劇としてるが、その経緯で、家臣団から保身ばかりの佐久間に不満が溜まっていた。
信長はトップとしてそういった声に”も”答えたに過ぎない。それをもって光秀が悲観したとか無いだろって思ってる。ああもちろんその対応で信長が昔からの関係より能力で躊躇なく切り捨てる人物だとの判断はしてると思うけど。良くある通説のような理不尽とは多分思ってない。
秀吉は、個人的な事で殿の大望をぶち壊した自分勝手なやつって主張を強くしたかったのと、自分がその意思を受け継いだってのを強調するため、光秀が大罪人と言うイメージが欲しかった。もちろん多くの人が見たら、それで得をしたのは秀吉なのにって思ってもだ。
徳川でそれが是正されないのは、信長に非があったと遠回しにやってるが、基本的には謀反は許すべからずの徳川儒教精神にあふれていると言っていいと思う。情状酌量が目的じゃなくて、信長を酷く描くのが目的だと見てる。そうなると徳川儒教精神と両立できる。
ただ私は徳川は雑魚大名と見てて、正直織田が居たから吸収されずに大名としてやっていけたが、織田が居なければ今川滅亡後に徳川にもっと早く攻め入っていたとみている。信玄は包囲網がしかれたので、攻め入っただけで、織田はそれなりに恐れている。いくら大軍でも正面に別の敵と戦っているときに東から背後の強者の信玄につかれたら負ける。
3方ヶ原はそれほどの危機だったと見ている。三河武士は意地っ張りだと聞いてて、多分織田がいるから保てたなんて微塵も思ってないだろうなと…。その事がこっちばかり援軍を出して、向こうの援軍は佐久間かーって不公平な同盟への不満があったんだろうなと。家康はどうか?知らないが徳川は間違いなく織田嫌い。
怨恨説と違うと言いたいのは、怨恨説はでっち上げが大半で根拠が全くない。事実はあったかもしれないが脚色が多すぎるし空想すらある。
様々な理由はあるが、最後の決め手は感情だと見ている。んで詳しく書かなかったが、信長の自分勝手さに対する憤慨、またはそれによって生じた面目を潰された事だと見ている。これについては私は批判的に見てる。信長は間違いなく気分屋でころころ意見が変わる。
ただ気分屋じゃなくてもころころ方針が変わる。これは織田政権当初から無茶苦茶変化してる。信長が変化していったのは言われてるが性格的な事のように言われてる。まあ疑心暗鬼が強くなってる。そのくせころと騙されたり、最後謀反なので、根本的には変わってない。それでも性格が間違いなく攻撃的で疑い深くなってる。
だがこれとは別に暗中模索でトライアンドエラーが信長の天才性になる。革新性の信長の正体は全部これ。実際は革新的じゃない、信長はやってみて上手くいかなかったら即路線転換する。これを深い考えなしに気分屋とみられることが多々ある。だが、信長はこの手の独断による相談なしの路線転換は結果がほぼいい結果になる。
さらに言うと、これによって失敗したらまた路線変更するから最終的に全部うまくいってる。信長は結果的に革新的な人間になってしまっただけで、シンプルにやってみてトライアンドエラーで進路修正って現代人なら当たり前の事をやっていただけとなる。当時その姿勢が稀有だった。それが信長の天才性特殊性だと見てる。
多くの通説のように何か天才的先進性があったわけじゃない。悪く言えば行き当たりばったり、まあ部下の立場なら間違いなく不満がたまる。ただ結果を見るとこれが全部うまくいってるので、このやり方じゃないと成功しなかったともいえるんだ。
ただこれらの根幹にある四国説だが、この方針転換はトライアンドエラーじゃない。単純に三好が敵対関係じゃなくなったから。戦略的にあまりに真っ当で光秀に考慮する必要があるのか?疑問がある。その辺りが、光秀のセンスが、鎌倉武士の様だと言ってる点。
信長はこの点だけ、確かに先進性があったと思う。初期から一貫してこの姿勢は変わってない。じゃ何故光秀だけこれに不満を抱いたか?加わったのが後だった点。光秀が加わった時は本気で室町幕府を中心として天下静謐を考えていた点。
だが決裂の時分かるじゃないか?これが私がずっと書いてきた、幕府と言う組織より、義昭個人の駄目さに光秀が見切ったと見てるからだ。もう1つがじゃ追放後信長の政権運営はどうしたかったか?これが領地替えと身内びいきだ。これで大体わかる。この構想が安土城の頃になる。
まずは秀吉が長浜から追い出される。この時点ではまだ考えてない。その次、光秀も畿内から追い出されるかも?ぐらいの危機が訪れそうになる。ここで光秀さすがに気が付くと思うが、すでに本能寺の付近になる。信長の考える天下静謐に光秀は何の魅力も感じてなかったと見ている。それが分かったのが遅すぎた。
さてなら義昭黒幕説か?と言うと、土橋氏への書状があるが、あれは、事後承諾じゃない、すでに承諾を取り付けている。だが、義昭が信長を討てはいつも言ってる事で、オオカミ少年に近い。いや本気だが、これ陰謀なのか?
問題は光秀はそれに受けたと返答したか?だ、してないと思う…。その返答した書状が毛利宛のものじゃないか?と見ている。言った通りやったぞ後は協力頼むだ。実際両者のやり取りは一方通行でも義昭は秀吉に勝ってたら協力しただろう。その前提が崩れてしまったから表に出なかっただけで。
まあそれが怪しいのは詳細は伏せると光秀が書いた点だ。詳細な計画のやり取りなんて無いから言えないのだ。だから光秀は、軍事機密の漏洩であると見せかけてこう書いたのかと、私は光秀のこの土橋氏とのやり取りは、義昭のあっちこっちへのお手紙公方を利用したとみている。
万が一やり取りがあってもかなり雑なものだったろうと見ている。間違っても義昭黒幕説なんて緻密なものじゃない。
さらに追記で、今まで書いたのに光秀の行動は野心と言う単純な見方で家について考えると問題に見える点。この点私は単純なトップになるのだって野心説じゃない。こんな単純なのどうなの?だが秀吉ってその野心で動いてて、そもそも光秀野心説は秀吉が流布したもので、秀吉が思っていた事なのでリアルなのじゃないかなと…。
いや私はそこは重視してる。光秀は野心家だが、子供のいなかった秀吉と違って家大切にしてる。後、光秀も秀吉のように遅くに長男を授かっていて可愛がっていたと聞くのでそれをすっぱと捨てるようなことはしてないと思う。ただ光秀って長男の記述がほとんどない。
これは幼かった点と。この子多分イマイチだったのじゃないか?と見ている。まあ愚鈍じゃない、凡庸なので書き記すことがなかったんじゃないかなと。ゆえにさらに光秀が家と言う単位で将来を心配していた可能性が高いと思ってる。妙に光秀の長男って記述が無い。子供なので当たり前なのだが、目立つ人物じゃなかったのは間違いない。
残ってる問題より、調べる側の問題。調べる方がこれほど多い人物と言う点では、その調査数が多いにかかわらず、光秀の長男って本当に良く分かってない。これは余程特筆すべきことが無い人物だったんだろうなと言う点。まあ愚鈍で不安って意味の悪いうわさも全くないけど。
一部、あまりの資料の無さから病弱で表に出る事が少なかったのでは?って説も出てる。これなら将来の不安説がより補強される。ああもちろん室町幕府と信長の乖離ってのが重要って意味でね。四国説もこれに入るから。それらがすべて集約される形で主君の言動への憤慨と言う結果になったのかと。
複数の要因じゃない、私のは場合それらは繋がってるって考え。家の不安も信長の政権だと、光秀の四国関係の結果と、光秀の死後今の光秀の明智家の勢力は維持できないのが分かり切ってるから。後、細川への書状で、自分の息子と娘婿忠興について触れてるから。意外と血縁の事を考えていて、この点光秀はこれ細川を誘い込むため都合よく描いたと思ってない。ガラシャの婿を重視していたと思う。