11_ビタースイートホーム②
せっかく実家に帰ってきたのに、湿っぽい空気に浸るのは避けたい。
よってリェーチカは隠していた切り札を早めに使うことにした。
「ところでトーリィ。ルヴェリアさんのことなんだけど」
書類を片していた手をぴたりと止めて長兄が振り返る。
「彼女がどうかしたか?」
「どんな人なのかなって思って」
「……いい人だよ。家事も丁寧にやってくれる」
「それはよかった。で、――さっき愛称で呼ぼうとしたよね?」
そう。彼女に夕食の用意を頼んだとき、明らかにトーリィは最初『ヴェ』と発音した。
ルヴェリアの愛称形ならヴェーラチカとかヴェルーシャと言いかけたのではないだろうか。それを聞き流すリェーチカではありませんのことよ。
だてに十六年この人の妹をやっていない。それも六年間ほど二人暮らしで身の回りの世話をしてきたから、彼の性格や交友関係も熟知している。
だからトーリィという人が、身内でもない女性を愛称形で呼ぶのがいかに稀かはリェーチカが一番よ〜くわかっている。
図星を突かれたらしい長兄は明らかに目を泳がせながら、ぼそぼそと気持ち声を小さくして答えた。
「否定はしないが……別に、おかしなことでもないだろう……彼女がうちにきて、そろそろ半年になるんだし……」
「そうだねぇ。で、恋人なの?」
「なっ、……お、おい、誤解するな。そうじゃない。彼女は単なる家政婦で」
「うん、誰かの紹介でわざわざこーんな辺鄙な町の、うちみたいな貧乏部族長の家に来てくれた、優しい美人さんだよね。それだけで相当いい人だってこと、わかるよ」
トーリィは黙り込んだ。普段はやつれて血色がいいとは言えない顔を、少しばかり健康的な桃色にして。
ここに来る前にあの地元おばさん軍団から聞いたところによれば、最初の半年間は家政婦が見つからず、里内の女性が持ち回りで家事をしてくれていたとのこと。
もともと使用人が雇えないから末の妹を主婦にしていたくらいだ。恐らくかなりの薄給しか提示できなかったのだろう。
部族長とはいえ、管轄する郷里全体が貧しくては豊かな暮らしなど望めない。部族長夫人の肩書だとか、何か下心を持ってやってきた女性ならとっくに見切りをつけている頃だし、ルヴェリアはそういう雰囲気ではなかった。
でもって長兄である。子どもの頃から勉学に明け暮れて弟妹とすら遊ばず、長じては部族長の執務に忙しい彼には、もちろんろくな女性経験などない。
毎日せっせと自分の世話をしてくれる妙齢の女性に彼が惹かれたとしても、妹としてはまったく不思議じゃないと思う。
「好きだって伝えた?」
「……まさか。気まずくなるだろう。働きづらいと思われて辞められたら困る」
「あぁ……そっか、そうだよね……」
こういう状況に不慣れなので忘れそうになっていたが、ルヴェリアからすれば自分たちは雇い主で部族長家、社会的な立場が上なのだ。
トーリィからの好意は、下手をすると脅迫同然の行為になってしまう。
しかも彼女はただでさえ気が弱そうだ。たとえ嫌だと思っていても拒めないかもしれないし、それで無理に関係を作ることを『結ばれる』とは言わないだろう。
……むう。
これからどうしたものか、リェーチカは腕組みをして悩んだ。しかしジェニンカとオーヨの関係といい、恋って意外と、楽しいことより難しい面のほうが大きいのかもしれない。
ひとまず、ルヴェリアの気持ちをなんとか確かめたいところだが――。
ふいにコンコンと戸を叩く音がして、それから噂をすればのなんとやらで「旦那様、お嬢様。お夕食ができました」という声がした。
「わかった。すぐ行く。
……リェーチカ、余計なことは言うなよ」
「はぁい、わかってまーす」
長兄はもう充分つつき終えたので、とりあえずリェーチカはさっさと廊下に出た。
ルヴェリアの後ろ姿にはなんともいえない哀愁が漂っている。まだ若いのに、なんというのか、旦那さんに先立たれた奥さんみたいな風情だ。
彼女の向かっている先が台所ではなく客用寝室だと気づいて、思わず呼び止めた。
「ちょっと待って! イェルレクくんは、私が呼びに行くから……」
「え? ……でも、あの」
「あぁごめんなさい、あなたの仕事を盗ろうってわけじゃなくて。その……私が、やりたいの。他のことは全部お任せするけど……」
うまく言えなかった。リェーチカ自身、己がどういう気持ちで口を開いたのかもよくわかっていない。
ただ反射的に、ユーリィへの対応を他人にさせたくないと思った。
そう……彼は、リェーチカが勝手に招いたお客さんだから、彼女の負担をなるべく減らしたい。
それにユーリィが滞在中に感じたことは、良いことでも悪いことでも、自分が責任を負わなければいけない。
「お願いっ」
「……、わかりました、失礼します……っ」
ルヴェリアは一礼して、なんだか逃げるように急いで去っていった。何か誤解して、傷ついていないといいのだけれど。
そんなこんなで迎えた夕食は、表面的にはとても和やかだった。
幸いなのはユーリィがくつろいでくれていたことだろう。彼は終始穏やかで、いつかの頑固で高圧的な田舎嫌いっぷりが嘘のようだ。
そういえば最近はリェーチカもすっかり彼を怖いとは思わなくなっていた。慣れてきたと感じていたのは、もしかしたら向こうもそうなんだろうか。
さすがに政治の話を振ってきたときは大丈夫かと心配したものの、彼は兄の正直な回答を遮ることなく、静かに聞いていた。
それがちょっと嬉しかった。きちんと水ハーシの実情を知ろうとしてくれているように感じたから。
「……あの、わたし、お風呂の支度をしてまいります」
「わ、ありがとう! 久しぶりだ〜」
「その言いようだと、君が普段は風呂に入らない生活をしているように聞こえるんだが」
「えーっ、ちょっ、誤解だよ……! あの、もちろん、薪で焚くお風呂が久しぶりって意味だからね!?」
「だろうな。ところで僕も非紋唱式の風呂釜は初めてなんだが、見せてもらっても?」
「は、はい……あの……よろしいですか、旦那様」
「ああ、構わないとも」
首都はどこもかしこも紋唱術で機械化されている。そしてユーリィの経済力なら、地方に出かける時でも、設備にしっかり投資した高級なお宿を使うのだろう。
人力で焚くのはけっこう大変なのだ。ぜひしっかり見学していってほしい。
それに薪は暖炉やかまどでも使うから、リェーチカが家事をしていたころも、冬前はひたすら薪割りしていたっけ。大きい丸太は女の子の力ではどうにもならないので、近所の人たちに助けてもらったりしたものだ。
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