05_図書館③
斜向いの少女が真剣な顔をして頷いたのを見て、ユーリィは表情も変えずに続けた。
「もちろん罰則も設ける。そうだな、全科目で僕に負けたら退学してもらおうか」
「えっ!? そ……それはちょっと……」
「念のために誓約書を作ろう」
青ざめる彼女を無視し、雪白の暴君は鞄から手袋を取り出す。
普通の紙面で交わした約束ならどうとでも逃げられるだろう。しかし、少年がノートの上に指で描く紋章はいわば簡素な祭壇であり、そこで交わす言葉は神前の儀式となるのだ。
神に誓った約束を違えれば、そのつけは命で支払うことになる。
契約を司るとされるのは、大陸西部の国ヴレンデールにおわすゾウの神ナイブ。
外国の神だが、ハーシもヴレンデールも、国境よりもっと大きな枠組みである世界宗教『クシエリスル』の下にある。
かつて大陸の神々は力を求めて喰らい合い、人間たちも倣って戦争を繰り返していた。そんな時代を終わらせたのが神々の同盟だという。
同じ神話を共有することで、大陸内の国や民族が互いを敵と見做すのをやめたのである。
ところがハーシ国内では、未だに部族間で対立している。これはハーシの民と土地が長らく複数の国の統治下にあったせいだ。
西部の黒、青、水ハーシ族はヴレンデールの版図内に。そして東部の赤、花ハーシ族は大陸最強の軍事国家であるマヌルド帝国の支配を受けていた。
六つの部族のうち、独立を保ち続けていたのは中央部の白ハーシ族のみ。
真南に接する隣国、中央の国ワクサレアとの間には険しい山脈があり、天然の要塞に守られていた。そもそも豊かな穀倉地帯を有するワクサレアには領土拡大の野心があまりなく、うまみの少ない北方などより両隣の二大国の脅威にこそ注意を払ってきた経緯もある。
とにかく、どこの支配も受けなかった白ハーシ族が総てのハーシをまとめる代表的地位にあるのは、歴史的必然だ。
他のハーシ族は多かれ少なかれ旧宗主国の文化に染まっている。つまり純粋なハーシと呼べるのは白ハーシだけ。
独立にあたっては、自分たちだけでは勢力として小さすぎるので六部族で連合した。ところが今は、経済的に遅れている地方が足枷となり、ハーシ連邦の国際的地位に暗い影を落としている。
白ハーシ族長は、全ハーシを統べる民族議会の長を兼ねる。現任エルトル・ワレンシュキの長男であるユーリィはいずれ父の職務を継がねばならない。
幼いころから言い聞かされてきた。将来はハーシを牽引し、マヌルドやヴレンデールとも対等に渡り合える、豊かで強い国にするのだと。
けれど地方の連中が足を引っ張っている。
寂れた田舎に甘んじて成長しようともせず、白ハーシに依存して困窮のつけを払わせてばかりいる。だからこの国は弱く貧しい――。
『おい、なんとか言えよ、田舎者のネズミ野郎がよ』
……。
ユーリィは脳裏をよぎった誰かの言葉を振り払い、紋章を描き上げた。図形が鈍い銀色に輝いて宣誓の詩を待っている。
「よし、できた。
――僕、イェルレク・ワレンシュキは、賭けの成立を以て西ハーシ地方のティレツィ湖を訪問する。
その条件は、来週の三年次中間考査において、僕の成績が一科目でも、ナ……」
すらすら詠み上げていたものの、そこで言葉が途切れた。よくよく考えたら、今まで彼女のことをずっとナマズ呼ばわりしていたせいで、本名が何だったか忘れていたのだ。
彼女もそのことに気づいたようで、ちょっと傷つきました、という顔で補足してきた。
「アレクトリア・スロヴィリカです……」
「ああ。言われてみれば、ジェニンカがそう呼んでいたな。
続けよう。――僕が一科目でも彼女、アレクトリア・スロヴィリカより低い成績を修めた場合とする。
――次はそっちの番だ」
有無を言わせずアレクトリアにノートを押し付ける。逃がす気はさらさらなかった。
ジェニンカがうるさく言ってきたし、結果的に命を救われた形になったのも事実だから、筋を通すために嫌がらせは止めた。しかし断じて水ハーシの存在を許したつもりはない。
先ほど彼女のノートを見て、勉学への姿勢はわかった。真っ黒になるまで書き込まれ、教科書にも何度も線を引いてあり、繰り返し調べた跡があった。
努力していることは認めてやってもいい。それに軽い気持ちで通っているなら、今までの嫌がらせでとっくに音を上げていただろう。
だが、どれだけ覚悟があろうと結果が伴わなければ意味がないのだ。
だいたいいつも成績の良い赤犬に寄生している。甘やかしている彼も相当に目障りだが、あちらはまだ将来この国の助けになれる可能性があるので、排除するべきはアレクトリアだろう。
この娘がいなくなればジェニンカも目を覚ますだろうか。生意気で口うるさいばかりの幼馴染みでも、ずっと敵に回しているのは快いものではない。
彼女もそろそろ現実を見るべきだ。ひ弱な田舎者を庇ったって、何も改善されないのだから。
「わ、私……アレクトリア・スロヴィリカは、賭けに負けたら、た、退学します……」
アレクトリアの声は震えていた。ほとんど罠にかけたようなものだから無理はないが、これくらいで怖気づく程度の覚悟の人間なら、この国には要らない。
彼女が紋章にかざしている手に、ユーリィも自分のそれを重ねた。
「我々はこの印において契約の神ナイブに誓う。宣誓を破る者は死を以て償うべし。
――契星の紋」
紋章はさあっと金色に瞬いたあと、二つの星印を残して消えた。
星はそれぞれユーリィとアレクトリアの額に吸い込まれる。それもすぐに光を失ったので、見てわかるような痕跡はない。
これで、契約が成立した。
アレクトリアは呆然とした表情で、手袋をしたままの手で額に触れている。けれど二、三度のまばたきのあと、何か覚悟を決めたように無言で頷き、口をきゅっと一文字に結んだ。
それを見てユーリィは内心嘲った。
――せいぜい足掻け、田舎者。
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