04_図書館②
正直、わずかにでも音を立てたら図書館から叩き出される、くらいに思っていた。少なくとも今までの言動からはそのほうが容易に想像がつく。
なのに、まさか教えてくれるとは。
実はそんなに悪い人でもない……?
というか、けっこう面倒見がいい?
「あの、……ありがとう」
少年の瞳がまたたく。懐かしい故郷の湖によく似た、けれど凍ったように冷たい真冬の水色。
そのときリェーチカは初めて思った。
――ユーリィって、悲しそうな眼をしてる。
「ふん……」
未来の指導者は、礼を言われるようなことじゃない、というように鼻を鳴らした。あくまでも立場に従っただけの当然の行いで、別に自分の意志ではないのだと。
それがリェーチカには、なんだか懐かしい。
(……あ、この感じ……『お兄ちゃん』だ)
いつも弟妹の世話を焼いてばかりで、自分のことは後回しにしていた次兄。手のかかる妹の相手なんて面倒だ、としばしば態度に滲ませつつも、絶対にリェーチカから目を離さなかった三兄。
それから、自分の仕事で忙しくて余裕もあまりない中、恐らく多少の無理を通して学費を工面してくれたろうに、それを一言も語らない寡黙な長兄。
三人の兄は、性格も妹への接し方も三者三様だ。
同じ族長家なのに全然違う、とジェニンカが言っていた。リェーチカもそう思っていた。
けれど、案外そうでもないかもしれない。
少なくともリェーチカの側からは、まったく理解の及ばない別次元の人間だ、という感覚が失われつつある。
……まあそれはそれ、これはこれで、まだ彼が怖くないと言えば嘘でしかないけれど。
半年かけて刷り込まれた恐怖感は簡単には拭えない。
またしばらく沈黙が続いた。
ときどき周囲の生徒がリェーチカとユーリィのことをちらちら見ているのに気づいたけれど、とくに何を言われるでもない。視線に不穏な感じはなくて、恐らくみんなユーリィが図書館にいることを不思議がったり、彼と相席している子は誰?という雰囲気だ。
まさかその命知らずが学内唯一の水ハーシ族だなんて、きっと誰も思わないだろう。リェーチカ自身未だに信じられない。
「……うーん」
「またか。今度は何だ」
まったくあまりにも非現実的すぎる。ユーリィが近くに座っているのも、その彼がちらほら助け舟を出してくれるのも。
夢か幻なんじゃなかろうか。あとで何かものすごく酷い目に遭ったりして。
「さっき言われたとおりにしたんだけど、結果が合わなくて……」
「……。単純に計算が間違ってる」
「え、どこ?」
「ここだ。まったく、そのザマでよく今まで生きてこられたものだな……水ハーシの村には学校はなかったのか」
「う。……が、学校くらいあるよ。……うちからは山を降りて一時間くらい歩くけど……」
「歩くって、沼の中を?」
「普通の道だよ。ちょっと樹は多いかもしれないけど。それに沼じゃないってば」
時間が経つにつれてだんだん慣れてきて、少しずつ、ほんのちょっと、雑談めいた言葉も口にするようになっていた。
ただユーリィの言動はやはり辛辣というか偏見に満ちている。それを怖くても訂正せずに要られないのは、リェーチカにとっては大好きな故郷のことだからだ。
遠くても、貧乏でも、何もなくて不便でも。
「私のこと何も知らないって言うけど……そっちだって、ティレツィ湖を見たこともないのに、沼なんて言わないでよね」
勢いで口にしてから、しまった言いすぎた、と青ざめる。
どうしよう。ここで彼を怒らせてしまったら、せっかくジェニンカが取り付けてくれた交換条件が水の泡だ。きっとオーヨにも被害が及ぶ。
リェーチカがあわあわしているのを、女生徒たちから『氷の王子』と評されている少年は、とくに感情の伺えない静かな瞳で睥睨した。
「何様のつもりだ」
心臓がちぎれそうに痛む。ああどうしよう最悪の展開だ。
どうしようどうしようどうしようどうし
「……。でも一理あるな」
「ッえ……」
「僕自身に西ハーシ北部の訪問経験がないのは事実だし、他の人間もほとんどそうだろう。
だけど、そもそも『何も見るべきものがない』から誰も訪れないんじゃないか」
「っ、そ、そんなことないよ! 湖すっごい綺麗だもん……! 『見るべきもの』だよ!」
「図書館で騒ぐな。……地元の人間はたいていそう言うものだ。そんなものは贔屓目にすぎない」
「だからッ……そういうことを、見ずに決めつけないでよ……」
どうしてわかってもらえないのだろう。
しょせん田舎、何もない沼地、すべてが劣った地域――それが事実で、実際に訪れたうえでそう思われるなら、悲しいけれどまだ諦めもつく。
けれど知りもせずに頭から決めつけて、出身者というだけでリェーチカの言葉を端から撥ねつけるなんて。
頑なすぎるのだ。まるで、……何かを守ろうとしているように。
でも、何を? どうして? リェーチカは攻撃なんてしていないのに。
ユーリィが怒っている原因がわからない。こちらが言い返したからか、それとも、田舎を擁護したのが気に入らないのだろうか。
水色の瞳が、静かに揺れていた。そよ風に撫でられた湖面のように。
「そこまで言うなら賭けをしようか」
ほんのわずかにユーリィが身を乗り出す。大して近づかれたわけでもないのに、リェーチカは反射的に身を竦ませた。
蛇に睨まれた蛙ってこういうことかもしれない。
「賭け……?」
「今度の試験で、総合点……はさすがに君に分がなさすぎて憐れだから、譲歩をやろう。一科目でいい。
どれかひとつでも僕に勝てたら、君の故郷を訪問しよう。この眼で見て判断する。……まあ評価は変わらないと思うが」
どうする?――挑戦的に見つめられ、ひくっと喉が震えた。やっぱり怖い。
けれど……こんな機会、絶対に二度と来ないだろう。
「……わかった」
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