03_図書館①
悲鳴を上げそうになった。
ちょっと待ってどうしてなんで白ハーシ族長の嫡男ともあろう御方が、わざわざ学校の図書館のそれもこんな端っこの席で、取り巻きの一人も連れずにいるんですか!?
よりによってジェニンカが傍にいないときに、しかもうっかりこちらから声なんてかけてしまった……!
頭が真っ白になって固まるリェーチカとは対象的に、ユーリィはいつもどおり冷静を通り越して冷たくすらある態度で応えた。
「静かにしているなら構わない」
「えっ……」
「勉強しに来たんじゃないのか? まさか僕に用があるわけじゃないだろう」
心臓がばくばく鳴って脚も震えていたが、逆にここで拒んだらそれもそれであとが怖いかもしれない、と思って大人しく椅子を引く。手が震えている。
……さすがに彼の真向かいに座る勇気はないので、斜向かいに腰を下ろした。
とりあえず勉強道具を広げる。仰るとおり勉強しにきたんですよ、それ以外の目的なんてありませんよ、と表明するように。
ところがびくびくしているリェーチカのことなどユーリィは一瞥もしていない。氷の瞳はテキストの上をなぞるばかりで、すくそばに座っている田舎者のことはどうでもいいと言わんばかり。
こちらが気にしすぎなのか。少しは強くなったとか思っていたけれど、そんなの気のせいだったのかもしれない。
じゃあこれも訓練と思って、……彼の存在は忘れよう。
前は見ないで教科書とノートだけ注視。心を静かにして、紋唱術のことだけを考え
「ジェニンカたちはどうした?」
「ッ!」
出鼻を思いきりくじかれて飛び上がりかける。
そんなリェーチカを、何だこいつ、みたいな顔でユーリィが眺めていた。あの湖水色の目で。
「や……その……私、と、特別講習、受けてたから……今日は別行動なの……」
「そうか」
「……そ、そっちも一人なの、珍しいね……」
「ああ……彼らは少し賑やかすぎるから、一緒に試験勉強をするのには向かない」
ユーリィは小さく溜息をついて「それに家だと弟に邪魔される」と続け、ペンの先でノートを突いた。
(……あれ?)
この表情を前にもどこかで見たことがある。それどころか、よく知っているような気さえする。
もちろんユーリィとまともに話したことなど今日までなかったから、少なくとも彼ではない、別の誰かだ。
最近の似たような状況といえば、女子会のときジェニンカも弟のことを愚痴っていた。けれどあれは違うような。
はっきりとしないけれど……とりあえず、嫌な感じではないことは確かだ。
「……その大量の付箋は何だ?」
「っこ、これは……その……わかんないとこに、印を……」
「随分多いな。その有様でよく編入できたものだ」
「……それは、……たぶん、兄が口添えしてくれたのが大きかったんだと思う……ここの卒業生だから……」
「つまり前にも水ハーシの生徒がいたのか? そのわりに噂も聞かないが」
「い、今は外国にいるから」
それもひと所に留まらない旅をしているから、正確な居場所はリェーチカも知らない。手紙を出すときは、予め聞いていた行き先の郵便局に、局留めにしておく形だ。
彼がどこで何をして、どうやって水ハーシの立場を向上させていくのかは、断片的にしか聞いていない。
卒業して一人前の紋唱術師になれば、こちらから会いに行ける。もしかしたら手伝いだってできるかもしれない。
何よりリェーチカ自身の目で、世界を直接見ることができる。
実際に旅をするかどうかはまだ決めていないけれど、とにかく田舎に引っ込んだままでは何も変わらないことだけは確かだから、慣れ親しんだ故郷を離れて学校に通うことを選んだ。
あまりに漠然とした夢だった。今は少し現実が見えて、思いのほか高い壁に戸惑っている。
その中で、わかったこともある。
――もしもの話。
白ハーシ族長家の長男として、将来この国を担うであろう、目の前の少年。イェルレク・ワレンシュキ。
もしリェーチカが彼と友好的な関係を築くことができたなら、これほど力強い味方は、少なくとも国内には他にいない。
それが一番効率が良くて、一番難しいこと。
「……」
そのあとはお互いしばらく無言だった。ユーリィが勉強に集中し始めたからだ。
リェーチカからはとても話しかけたりできないし、そもそも静かにしていろと言われている。
静寂を破ったら、よくて座席からの追放、最悪の場合は嫌がらせの再開までありえる。大人しくノートと見つめ合うしかない。
ときどき席を立ち、資料を取ってきてはにらめっこ。ひとつずつ結び目を解いていく。
召喚言語学、図形学、紋唱理論、詩学、神話学、エトセトラ。試験にはいろんな科目があるけれど、どれも見方が違うだけで紋唱術に繋がっている。だから偏りがないように満遍なく……。
「……う~ん……」
満遍なく、躓いていた。
基礎がきちんとできていないからだ。入学前に兄たちが残した教本で自主学習していたものの、時間が足りなくてしっかり身についているとは言いがたい。
むしろ勘違いや間違って覚えているところが未だに見つかって、今度はその矯正に時間をとられてしまう。
こんがらがった問題に直面して無意識に小さく唸っていた少女に、氷の王子はうるさそうな視線を向けた。
「どうかしたのか」
「へ、……あ、ご、ごめんなさい。声出ちゃった……」
「何がわからないんだ? まったく」
大義そうにフッと鼻を鳴らし、なんとユーリィが立ち上がって、わざわざ隣に回り込んできた。
リェーチカは思わず硬直したが、彼は構わずノートを覗き込む。それから付箋の貼られた個所を見て静かな声で言った。
「複属性融合対立式か。これは一度、対立関係にある属性を分解するんだ。つまりこの問題なら、水属性と岩属性を別々で計算してから、最後に値を乗算すればいい」
「……あ、そっか……あの……」
「この程度でいちいち唸らないでくれ、気が散る」
「ごめんなさぃ……」
尻すぼみで謝罪するリェーチカに、ユーリィは何も言わずにすたすたと席に戻っていった。
それにしても、……意外だ。
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