高嶺の華さん
安いビジホの、朝食付きプランで宿泊した俺は、翌朝の七時に起きた。
昨日、ビジホに来る前に寄ったコンビニで下着や靴下、それから三円で袋を買ったから、下着は臭わないはずだ。服は昨日のままだけど。
「いっ……」
髭はいつも髭剃り機で剃っていたから、慣れない剃刀とクリームに慣れず、顎に一筋の赤い線が残った。今から面接? に行くというのに、こんな情けない顔になってしまうとは……。
バイキング形式の朝食で、適当にウインナーや目玉焼き、鮭やら味噌汁、ご飯を取って席に着く。周囲のビジネスマンはきっと今日も仕事なんだろう。なんだか自分が少し情けなくなってしまった。
チェックアウトして、公園に向かう。まだ約束の時間まで少しあるけど、遅れたらシャレにならないし、早く着く分には問題ないはずだ。
「あれ……」
公園に着いた。昨日のブランコも、水飲み場も、隅にはトイレもある。
だけどあの自販機だけがない。赤いフォルムの、淡く光るパネルの自販機。首を傾げながら歩いていると、お散歩に来た親子にコソコソされたので、大人しく隅のベンチで座って待つことにした。
「夢、夢だったのかな。でも俺、ビジホ泊まれたし……」
ブツブツと独り言が口から漏れ出していく。傍から見れば怪しい奴だが、生憎、俺は生まれてからこのかた、誰かと殴り合いの喧嘩すらしたことがない。
「あの」
だから俺は、俺に声をかけてきたその子のことを、全く気づけなかった。
「ちょっと」
「あれかな、知らない間にお金盗っちゃったのかな。どうしよう、犯罪したのかな……」
「……」
「いただっ」
いきなり髪をむんずと掴まれて、無理やり顔を上げさせられた。赤い髪をお団子にして、スーツをすらりと着こなした赤い目の女の子が、ものすごい形相で俺を睨みつけていた。
「は、はい? な、なんでしょう……?」
明らかに彼女は年下に見えたのだが、そのあまりの恐ろしさからつい敬語になってしまった。
「あなたが赤川シュンさんですか?」
「へ、あ、はい。そうです、俺が、いや僕が赤川です」
彼女の冷たい目の中に、怯える俺が映っている。そのなんとも情けない姿に、俺自身、嫌気が差す。
だけど彼女は気にする様子もなく、興味なさそうに俺の髪から手を離すと、公園の外に待機させていたであろうタクシーを指差した。
「話は聞いてます、どうぞこちらへ」
「あ、あの、自販機の人? は、どちらに……」
「今話す必要性があるとは思えませんが。それとも赤川さんは、就職したくないんですか」
その話を出されると弱い。
つか、正直この子怖い。
「じゃ、じゃあ、はい、よろしくお願いします」
「ではこちらに」
そうしてタクシーに乗り込み、街中を走り抜け、辿り着いたのは、天高くそびえ立つ高層ビルの前だった。
ぼけっと見ている俺を余所に、彼女はテキパキと歩いて中へ入っていく。慌てて追いかけ、いくつものセキュリティを抜け、エレベーターで上へ向かっていく。
ある部屋の前まで来た彼女は、控えめに扉をノックして「社長、失礼します」と告げ、返事も待たずに中へ入っていった。どうすればいいかわからず立ち尽くしていると、中から顔だけ出した彼女が「来ないんですか」と睨みつけてきたため慌てて入った。
「し、失礼しま……あ! 昨日の自販機!」
部屋の右手には低めのテーブルとソファ、左手には書類がごまんと入った棚、それから自販機が描かれた絵画。そして中央の奥の立派なテーブルについていたのは、昨日の自販機だった。
「や、お兄さん。昨日ぶりだね」
「昨日の場所にいなかったから不安だったんだ。にしても、なんでこんな場所に……?」
そこまで言って、俺は隣に立っていた彼女に鳩尾を殴られた。
「がはっ」
「社長に対して失礼な口を……。新入社員じゃなければ、リサイクル缶と一緒にプレス機にかけるとこでした」
「ごめんなさい、かけないで」
彼女の目はマジだった。
「はっはっはっ。華ちゃん、そこまでにしてあげて。これから赤川くんには、我らがCocu Coola社代表として、熱射団と戦ってもらわねばならないんだから」
「はい、社長。取り乱して申し訳ありませんでした」
華と呼ばれた彼女は、礼儀正しく頭を下げてから、俺をギンっと鋭く睨みつけてから舌打ちをした。それに物怖じしながらも、俺は「ん?」と頭を傾げる。
「社長? 熱射団? えと、どういうことでしょう?」
戦うってなんだろう。さっきも言ったが、俺はこのかた喧嘩なんてしたことないんだが。
自販機は「そうだったそうだった!」と陽気に笑いながら、昨日出したみたいにお札を入れるところから一枚の紙切れを出してきた。それをU字型の手で器用に摘んで差し出すと、
「ワシはCocu Coola社代表取締役、虹山ジョージ。彼女は赤川くんのパートナーになる」
「高嶺華です。パートナー呼ばわりされるのは不本意ですが、熱射団を倒すため、精一杯サポートさせて頂きますので、どうぞよろしくお願いします」
と心底嫌そうに手を出してきたのだった。